二人目 見る目のない女
二人目 見る目のない女
街路樹の葉が美しい黄色に染まると、太陽通りは鮮やかな並木道となる。
秋の季節を告げる例年の光景は、慣れたものでも毎年人の心を朗らかにさせる。
「あと何回、この景色を見れるんだろうか……」
まるで年寄りのような台詞を口にしながら、ヨーゼンは今日も定時に店を開けた。
初めての客を迎えてから、四日が過ぎた。ヨーゼンが始めた“お悩み相談屋”は、彼の目論見通り日々の読書の時間を確保するための天職となっている。
ここ数日は、空間魔法の分野を片っ端から読み漁っては店の中で遊んでいた。
おかげでヨーゼンは席から立つこともなく、今は目に入る棚からであれば本を取ることができるようになっていた。
「空間軸の操作が難しいな。達人レベルになると、本のページを捲るくらいに繊細に操れるんだろうか」
堕落することにかけては熱心なヨーゼンは、今度は自分が操作しなくても勝手に本が棚に戻るような工夫を考えていた。
「物に空間軸を記録して……順接と逆説の仮定条件によって真偽をリターンすればいいのか? しおりを挟まずに本を閉じる、という条件だと面倒になるかなぁ」
独りで試行錯誤しながら、とりあえず自分で本棚に本を戻しに席を立った。
出入り口であるガラス戸の近くまで歩いて、ふと外にいた女性と目が合った。
栗色をした内巻きのショートボブの髪型で、真紅のコートを身に纏っている。
おしゃれな人だな、という感想を社交的な笑顔に変えて、ヨーゼンは微笑んだ。店の中にいるのだから、商売上の挨拶である。
ヨーゼンもてっきり軽く会釈でもされて、どこかに歩いていくものだろうと思ったが、栗毛の女性は驚くことにガラス戸を幾度か優しく叩いた。
ヨーゼンにとっては、自身であろうが店であろうが、要件がある人間は驚きの対象である。
ゆっくりとガラス戸を開けてやって、女性を不審がるように訊ねた。
「なにか……御用ですか?」
「はい。こちらの看板が、目に映りましたので……」
こちらの看板が、目に映った。
だとすれば、未だこの店を本屋と勘違いしている客ではなさそうだった。
むしろ驚きが増して、ヨーゼンは女性に確認してしまう。
「あの、なんの店だかわかっていますか?」
「ご相談に乗ってくれるのでしょう? 違いましたか?」
「いえ……ご相談に乗る店ですが……」
そこまで理解しているなら、追い返すこともできなかった。
ヨーゼンは見え透いた罠に掛かる獣を見るような眼で女性を迎えながら、とりあえず来客用の椅子を両袖机の前に用意した。
「こちらにお掛けください」
「失礼いたします」
女性の言葉遣いは丁寧で、名前をニニスと言った。身なりは裕福な家系の人間に見える。
服装は容易に人の目を騙すことができても、その滑らかな白い手がこの女性に生活の苦労を感じさせなかった。
「初めに説明しておきますが、私は悩み相談をするだけで、解決をするわけではありませんよ」
「それは承知しています」
ヨーゼンはクレーム避けの文句を述べてから、本題に入った。
「それで、お悩みとはなんでしょう?」
ただ、たとえこの女性が貴族や大富豪の御令嬢であっても、人はそれぞれの地位や立場で、それぞれの悩みというものがあるものだ。
ヨーゼンはこの女性が悩みを抱えていること自体は不思議に思なかったが、その悩みには興味が湧いた。普段はヨーゼンが話すような機会もない人種かもしれない。
女性は真剣な表情のまま、自らの生い立ちから語り始めた。
「わたしの父は、この町の魔法学校の教授なんです」
ヨーゼンは想定内であった言葉に相槌を打つ。
それが本当なら、御令嬢とまではいかなくとも良いとこのお嬢さんだ。
「教授ともなると、この国でも上から百人には入る魔法の達人ですね」
「代々、魔法学で栄えた家系なんです。わたしもここの町の学校を卒業してから、研究職に就いたんですが……」
ニニスは一旦言葉を止めてから、よくありそうな月並みな悩みを口にした。
「両親から、そろそろ結婚を考えてみないかと……」
「ほう。嫌なんですか? 今は仕事に集中したいとか?」
「いいえ。ただ、わたしは自分の相手は自分で選びたいと思っているんです」
「至って普通のことですね。ご両親に決められた婚約者がいるとか?」
「今はまだ……。両親もわたしが相手を選ぶこと自体は反対していません」
「ふうん……? では、何が問題なんでしょうか」
話が見えてこなかった。
ニニスは結婚願望もあり、相手も自由に選んでいいと言われている。
見る限りでは、物腰も柔らかく容姿も美しい女性だった。相手には困らないだろう。
ヨーゼンが首を捻って訊ねると、ニニスは視線を落としながら、
「わたしは他人を見る目がないみたいなんです……」
「他人を、見る目……?」
ニニスは俯いてしまったまま、ぼそぼそと過去の出来事を喋り出す。
「昔から、そうなんです。とても優しくしてくれた異性の方に惹かれてみると、実は女の人にだらしなかったり、怪しげな悪魔信仰をしていたり、酷い時にはわたしの実家のコネを目当てに近づいて来る人もいました」
あんた、世間知らずそうだもんな。
ヨーゼンは頭に浮かんだことをもちろん口には出さず、心底同情するように頷いてやった。
「それは大変でしたね。あなたは容姿も美しいですし、裕福な家庭の娘さんだ。変な輩が近づいて来る割合も、普通の人間よりは多いでしょう」
「両親にも言われました。付き合う相手はよく選べと……」
「なるほど……。しかし、自分には他人を見る目が備わっていない、と」
これが彼女の悩みのようだった。
「いや……いえ……はい……」
ニニスは罪を認める罪人のように、一度は重苦しく返事をしたが、
「ですけど、わたしだって子供じゃありません!」
次の瞬間には、机に身を乗り出す勢いでヨーゼンに叫んだ。
ついつい取り乱したことを謝る彼女に、ヨーゼンは落ち着いたまま会話を進める。
「子供じゃないとは……? 純粋さという意味では、時に子供のほうが他人に対して公平ですよ」
大人になれば、地位や名誉というバイアスを除いて他人を見ることが、いかにリスキーかということを学んでしまう。純粋さというのは公平であるものの、無防備だからだ。
ニニスは頬を赤く染めながら、ヨーゼンの質問に答えた。
「つまり……その、すぐに男女の関係を求めてこようとする男性くらいは、わたしにもわかります。そういった軟派な人のお誘いは、断るように生きてきました」
だが、彼女の話を聞く限りでは、そんな欲求に忠実な男たちのほうが、過去に彼女が選んだ男たちよりも幾らか健全だろう。
もちろんヨーゼンはそんな考えも口には出さず、繰り返し質問をしてみた。
「だとすれば……、あなたは逆にどのような条件で過去の男性と仲を深めたのですか?」
「簡単ですよ。下心のなさそうな、紳士な方を選んできました」
「ブフッ!」
こいつは面白しれえや!
ヨーゼンは噴き出しそうになるのを堪えて、急に咳が出てしまったとうそぶいた。
「ごほんっ! すみません。季節の変わり目だからでしょうか。いや、そんなことはどうでもいいですね。話に戻りましょう。私には紳士な方というのが、抽象的でよくわかりません。具体的にどのような人物かわかると、非常に助かるのですが」
「紳士の定義ですか? そうですね、最初の男性は……学生の頃に、わたしが燃焼系統の魔法に関する課題を手伝ってあげた人でした。課題が無事に終わって、是非ともお礼がしたいということで、一緒に食事に行くことになり――」
「はいストップ!」
ヨーゼンは、ニニスが話している途中にも拘らず言葉を遮ると、
「その時点で、あなたは男性に異性として興味を持って食事に出かけたのですか?」
「いいえ、そんなわけありません。ただ律儀にお礼をしたいというので、悪い人ではないと思い、同じ学校でしたから仲良くはなれるんじゃないかと……」
「律儀に……お礼ですか……」
ヨーゼンは溜息を漏らした。
「いけないことでしたか?」
ニニスはなぜ溜息をつかれたのか、それすらも分からない様子である。
「いけなくはありません。出会い方としても、一般的じゃないでしょうか」
「それではなぜ、溜息をつくのでしょうか」
「それはあなたが、異性の下心に無頓着な女性だからです。その男の人は、恐らく律儀でもなんでもありません。お礼がしたいというのは、ただ一緒に食事に行くための良い口実だったでしょう」
「口実? わたしが課題を手伝ったのは、偶然のことなんですよ?」
「偶然か、計算かは知りません。しかし私が感じるのは……その男性が、もし手伝ってくれたのが同じ男だったら、同じ対応をしなかっただろう、ということですね。せいぜいそこらの売店で500レミアでも奢ってくれたら良い方だ」
「そんなっ……! 感謝もされていなかったと言うんですか?」
「感謝はしてたでしょう。別に感謝と下心は両立します」
「でも! でも、ですよ!」
ニニスは自身の過ちについて語っているはずなのに、どうにも自身の過ちを認めたくはないようだった。
「しばらくは、良いお友達として過ごしていたんです。お友達として過ごすうちに、段々とこの人となら恋人になってもいいんじゃないかと……相手だって……」
「タイミングを計っていたんでしょうねえ。魚釣りだって最初から全力で引いても上手くいかない。美味しい餌を付けてやって、何度も駆け引きをして……ようやく引き上げるんです」
しかし、それは悪いことではない。そんな出会いはざらにあるし、そうした出会いで幸せになる人間も星の数ほどいるだろう。
問題なのは、彼女がそんな男たちを歪んだフィルターで判断していることだ。
気になる女性に喜んでもらいたい。だから相手を特別に扱う。
ヨーゼンは何度でも言いたかった。それは悪いことではないし、普通のことだ。
清らかでもなければ、真心からくる優しさではないかもしれない。なんなら、ほとんど自分のためにやっているようなものだろう。だが、普通のことなのだ。
なのにも拘らず、それを彼女は清らかなものとするから話がおかしくなる。
特別扱いされているものを、まるで博愛のように捉えているから現実が見えていない。
この世のどこにも存在しない潔癖な王子様を探している。存在もしないものを見つけようとするから、物を見る目が歪んでしまうのだ。
「だったら、世の中の恋愛というものはみんな薄っぺらいところから始まるとでも!?」
ニニスはまるでヨーゼンの急所を突いたかのように、半ば激しく、半ば笑って言葉を投げつけてきたが、
「当たり前でしょう。なんだって薄っぺらいところから始めていくんですよ。本にしたって、たった一ページの名作がこの世にありますか?」
ヨーゼンの屁理屈じみた言い回しだったが、彼女には応えたようだった。
しかし、ニニスの悩みが解決していないことはヨーゼンも知っている。当然のこと、悩みの根の部分を掘り起こさなければならない。
「……わかりました。わたしは少し、世間を知らないのかもしれません。そういった前提の上で、改めてお聞きします。でしたら人間というものは、どこを見ればその人の本質を見抜くことができるのでしょうか」
ニニスが拗ねるように言うので、ヨーゼンは一応本心からフォローをした。
「難しいですよ。人間は着飾ってばかりいる生き物ですから。一日くらいなら誰でも善人になれますし、なかなか尻尾は出しません」
だから大概の人間は付き合っている相手の本質など早々に見抜くことはできないし、そこまでのハズレばかりを引くニニスの男運が悪いことも否定できないのだが、それでは身も蓋もないのでヨーゼンはどうにか頭を捻って考えた。
「つまり……あなたに好意がある人間というのは、あなたの理想に近づこうと振る舞います。そんな人の振る舞いを見て、相手を知った気になってしまえば本質を見誤ることは多いでしょう」
「答えになっていません。それではわたしに優しくする男の人が、みんなやましい心を持って近づいているみたいじゃないですか」
「そうとは言いませんが……“わたし”というフィルターを通して見る物事は、ほとんどの場合において客観的な視点を失くします。自分への特別扱いは誰しも嬉しいものですが、見るべきは自分にしてくれた行いではなく、他人への行いでしょう。できれば嫌いな相手への言動がわかりやすい。嫌いな相手の扱いが、その人の本質に一番近いからです」
とくに嫌いな相手への嫌悪を肯定してやると、その人間が悪意に満ちる姿を拝めることもあるのだが、それをニニスに教えるのはひねくれすぎているのでやめておいた。
ただでさえニニスは童話のように美しかった世界が、今日の日を境に醜くなったような顔をしてしまっている。
「なんだかあなたの話を聞いていると……人が信用できなくなりそうです」
「申し訳ありません。しかし、人は清濁を持ち合わせています。ただこれは諦観ではなく、希望なのですよ」
「なにが希望なんですか……?」
ニニスはすっかり、ヨーゼンを胡散臭い男だという眼で見ていたが、
「あなたが美しいと思っていたものは、目を凝らしてみるとそうでもなかった。じゃあ、醜いと思っていたものはどうでしょう。人間は物ではないのだから、真っ白なものもなければ、真っ黒なものも存在しません。もしかしたら、今まで見て来なかった世界に宝石が眠っているかと思うと、明日が少しばかり素敵なものに見えてきませんか?」
「きませんね」
「…………」
しばらく、二人の間に奇妙な沈黙が訪れた。
ヨーゼンは大きく背筋を伸ばして、気まずい時間をごまかした。苦笑したまま固まってしまった顔で、机の上の手書きの値段票を指差す。
「お役に立てませんでしたか……」
「求めていた答えは得られませんでした」
「ははは……でしたら」
――お代は頂けません。
ヨーゼンは後の面倒を避けて、そう言いかけたが、
「ですが……!」
ニニスの強い口調に掻き消されて、眉を上げて驚いた。
「良いことを聞けました」
「はぁ……それは良かった」
ニニスは値札通りの2000レミアを支払ってから、ヨーゼンに真っ直ぐな双眸を向けた。
「相手を見る上でのやさしさは、別にわたしに向けられている必要はないのですね。誰にでもやさしくできる人なら……きっと、お付き合いしてもわたしにもやさしくしてくれるのでしょう」
「ほう……」と、ヨーゼンは感嘆の声を漏らす。
「ありがとうございました。物の見方というのが、少しわかった気がします」
ニニスは鮮やかな真紅のコートを翻して、店を後にした。
ヨーゼンは店の外まで見送ってから、机に置かれたままの2000レミアを見つめながら笑った。
「綺麗な人だったなぁ……。無料でもよかったのに」
もしヨーゼンが、「あなたの悩みが解決できたと思えません。無責任な仕事をしたくありませんので、もしよろしければ、また今度別の時間にでも相談に乗りましょう」
そんなことを言っていたら、律儀で誠実な人とでも思ってくれただろうか。
ヨーゼンは独りきりになった店で読書に戻る。
「馬鹿々々しい……自分以外に、自分を愛せる人間などいるもんか。ちょっと姿形が変わっただけで、ちょっと心がすれ違っただけで冷めるものを、愛などとは呼ばないだろうに」
店の軒先で、街路樹の葉がまた一枚ひらりと落ちた。
木々が裸になり長い冬を超えて、ようやく春の季節は巡って来る。
だが、時の経過で四季を繰り返す自然と違って、人の心に季節の変わり目などない。
ヨーゼンの心に暖かい風が吹くまで、彼の春も、まだまだ先なのかもしれない。