第6話 フェンリル
まだ空が白み始める前の時間、深く生い茂った森の中を駆け抜ける人影が二つ。
整備されていない道を難なく走り、少し開けた場所にたどり着いたところで、動きを止めた。
「ここらで少し休憩しましょうか」
「はあ、はっ、やっと休める……グリッチさん飛ばしすぎじゃない?もう少しゆっくり行けばいいのに」
周りの状況確認を終えたグリッチに、後から追いついてきたレオが少し息切れしながら愚痴を言う。二人は一晩中道無き道を走ってきており、レオが文句を言いたくなるのもしょうがなく思える。
「おや、まだ余裕がありそうですね。もう少し先まで行きましょうか」
「いや、嘘です。ごめんなさいグリッチさん。許してください」
グリッチの無慈悲な宣告に慌てふためくレオ。
いざとなったら、部下であるレオには言い訳することもできなくなるからだ。
「ふふ、冗談ですよ。さて、ここら辺なら呼んでも大丈夫でしょう」
笑いごとじゃないと心の中で不満をもらすレオだが、グリッチが懐から出したものに目を奪われ、思考が切り替わる。
「グリッチさん、それって……」
「ああ、知ってるんですね。そうです、魔物を呼ぶ笛ですよ。ただし、これはカルラ殿からお借りしたもので、一般に伝わっている魔物を挑発するものとは少しだけ違います」
グリッチが手にしているのは、先日カルラから受け取っていたものだと、レオは笛を見た瞬間に思い出した。
グリッチが笛を思いきり吹く。大きな音が鳴ると思い、レオは身をこわばらせるが、笛からは何も聞こえない。
しばらくの静寂。レオがそわそわしだした頃に、遠くから茂みを揺らして近づく音が聞こえてきた。
いち早く反応したレオを見て、レオが顔を向けた方向にグリッチも体を向ける。
「来ましたか」
さらに音が近づいてきて、すぐ近くの草藪を揺らして現れたのは、全長四メートルほどの白銀の毛並みを持つ、狼の魔物であった。
「う、わぁ……!雪狼、じゃない。グリッチさん、これって……」
「お察しの通り、フェンリルです。……が、少し当てが外れましたかね」
レオが目をキラキラさせ、グリッチが不思議そうな顔をしている中、対面にいるフェンリルは品定めをするようにグリッチ達をじっと見ていた。
「…………ニンゲンと、子猫。そノ笛は、どうやっテ手に入レた」
「え、しゃべっ…………子猫!?」
「おや、人語を介せるのですね。学の深い方のようだ」
突然口を開いたフェンリルは圧をかけながらたどたどしくも人の言葉で話しだした。レオはそれにビビりながらもフェンリルの発言にショックを受け、グリッチはややズレた感想を口にする。
そうこうしてるうちにフェンリルが睨みを強くする。
「まあ落ち着いてください、僕はカルラ殿と友人なんですよ。この笛はカルラ殿に借り受けたものです。あなたは……カルラ殿の相棒であるフェンリルの、子孫といったところでしょうか」
「!なぜ分かル!」
フェンリルの不信感が募っているのを感じたグリッチが説明し、目の前にいるフェンリルの正体を断言すると、フェンリルは目を丸くして驚いた。意外と素直な性格のようだ。
「カルラ殿の相棒のフェンリル……フェン殿とは、以前お会いしたことがあるんですよ。だから一目見て別の個体だと分かりました。あなたより一回りか二回り大きいですしね」
グリッチが理由を話すと、フェンリルはしばし呆けたような顔をしてから、今度はグリッチをジト目で見つめ始めた。このフェンリル、なかなか表情が豊かだな、とグリッチは内心で考える。
「……思い出シた、母上が言っていタ『常に笑っている胡散臭いやツだが、戦えば割と頼もシい味方』とはお前のこトだな。確かニ名前も同じだ」
今度はグリッチが軽くショックを受ける番だった。まさか魔物にまで胡散臭いと言われるとは露ほども思っていなかったからだ。
後ろでレオが盛大に吹き出したが、グリッチが視線を送ると慌てて口を押さえる。いまだに小刻みに震えているのを見咎めようかとも思ったが、ため息をひとつ吐いてフェンリルに向き直った。
「フェン殿に覚えていただけていて良かったです。それで、今回はなぜあなたがこちらへ来たのでしょうか」
そうなのだ。実はグリッチが使った笛は、本来フェンだけを呼ぶためのもので、フェン以外の魔物には笛の音が聞こえないようになっている。
それなのに今回ここに現れたのはフェンではなかったことに対し、グリッチはずっと不思議に思っていたのだ。
「そうだナ、そちらが誠実ニ話してくれたのに対シ、こちらが何も話サないノは失礼に当たルな。実は、母上は今身動きが取れナい状態なのだ。ああ、別に怪我をシたとかじゃナいぞ。母上は強イからな」
グリッチの言葉に納得してつらつらと話し始めたフェンリルは、母であるフェンの話になると若干誇らしげに胸を逸らしたりする。つくづく人間味にあふれたフェンリルだとグリッチは興味深げにフェンリルを見た。
「それで、なんで君のお母さんは来なかったんだ?」
レオが焦れたようにフェンリルに問う。その様子に、グリッチはレオには忍耐力を鍛えさせないといけませんね、などと考え、それを感じたのかレオが身震いした。
フェンリルは不思議そうにしながらも言葉を続ける。
「今母上は出産の時期ニ入っているノだ。そんナ時にあちこち走らせルわけにはいかないからナ!母上に頼まれテ、代わりニ息子の我が来たっテわけだ!」
言い切って、渾身のどや顔をかますフェンリル。そんな様子を見たグリッチは何か納得して頷くと、口を開く。
「事情は分かりました。あなたのその様子ですと、何を頼みたいのかも分かってくれているようですね。……ああそれと、聞き忘れていましたがあなたの名前をお聞きしても?」
グリッチの問いにフェンリルは得心すると、冷めた森にこだまするほどに吠えた。
「我は偉大なる母上ノ血を引く者、ハリエット!母上ニ代わり笛を吹く者を助け、望む場所まデ送り届けよう!」
空が白み始め、朝の気配がやってくる。
こうしてグリッチの二人旅は一匹が追加されて進んでいくことになった。