56:魔王の成れの果て
「これは……夢じゃないよね?」
「現実よ、ゼルエダ」
「シュリス……シュリス……!」
ゼルエダは片手に勇者の剣を握ったまま、もう片方の腕だけでシュリスを力強く抱きしめた。
シュリスの肩口に顔を埋め震えるゼルエダの背に、シュリスは手を回してホッと息を吐く。龍一とファルテの助力がなければ、ゼルエダを助ける事は叶わなかった。
あの世とこの世の狭間のような精神世界の中で、神託を預かってきたとファルテが言った時、シュリスは龍一からゼルエダの現状を詳しく聞いていた。
龍一は絶望に囚われ、一度は魔に堕ちた経験がある。そこから今ゼルエダに何が起きているのかを話し、どうすれば救えるのかをファルテと共に教えてくれた。
魔王城は、四千年前に魔王が生まれた際、臣下や国民たちまで無理矢理に魔族へ変えられた場所だ。そこに漂う濃密な瘴気は、彼らの怨念が形となったものだ。
そもそも瘴気というのは、人々が抱く怒りや嘆き、悲しみなどの負の感情が凝って出来ている。ここから魔物は生まれるし、それに侵されてしまうと人は穢れに耐えきれず気が触れてしまうが、魔王城にあるそれはより強い力を持っていた。
魔王城の瘴気は、それそのものが大きな意思を持っているようなものだった。辛い思いをしたかつての人々の恨み辛みが、新たに誰かを引き込もうと常に蠢いているのだ。
だからこの玉座の間には、人族が魔族に変わる特別な術式があるわけではない。それより重要なのは、人族の心に瘴気の怨念が付け込む隙があるかどうかという点だった。
仲間や愛する者を失う悲しみや、魔王の強大な力を目にして勝てないと分かる絶望。そういった心の揺らぎに濃密な瘴気は干渉して、人族を根本から変質させ魔族に変えてしまう。
それを教えられたから、目を覚ましたシュリスはもう一人の人族であるエルメリーゼを聖結界の中に残した。ラルクスと結婚しているエルメリーゼはエルフの秘術を受けており、寿命のように一部分は人の理を抜け出ているけれど、人族には変わりないからだ。
そうしてゼルエダの元へ向かったが、シュリスが目にした時にはゼルエダは絶望にその身を明け渡そうとしていた。すぐに神聖魔法をかけたけれど、すでに瘴気が傷ついた心の奥深くまで入り込んでいるからか、いくら外側からかけてもなかなか払えない。
これ以上どうすればと焦りを感じた時、最悪の場合は内側から直接瘴気を消すしかないだろうと、龍一たちから言われた事をシュリスは思い出した。
シュリスはゼルエダに浄化の息吹を吹き込んだ。体内からだけでなく心にも直接届けられるように、しっかりと唇を重ね合わせて。
初めての口付けだとは考えないようにしていた。人命救助の側面が強かったし、何よりゼルエダを助けるために無我夢中だったから。
とはいえ、もしかしたら後からゼルエダに嫌がられたり文句を言われたりするかもしれないとすら思ったけれど、その心配はなさそうだ。正気を取り戻したゼルエダはシュリスの無事を喜び抱きしめてくれた。
それが嬉しくて、そしてゼルエダが戻ってきてくれた事にシュリスは安堵した。
「ごめん、シュリス。守れなくて」
「そんなことないよ。ゼルエダがいたから、私は戻って来れたの。だからもう気にしないで」
「シュリス……」
縋るようにしていたゼルエダは、シュリスが宥めるとようやく顔を上げた。
「もう二度と、あんな目に合わせないって誓うよ」
「うん、ありがとう」
額をコツンと合わせて、ゼルエダは微笑んだ。その頬に手を当てて、シュリスは涙の後を拭う。
けれど、のんびりと互いの無事を喜んでいる暇はない。二度と魔族を生まないためには、怨念に塗れた魔王城そのものを浄化しなければならない。
そう思ってシュリスがゼルエダから離れようとした時、不意にゼルエダの体が緊張に強張った。
「……何か、来る!」
行き場を失った瘴気が、ゴウと音を立てて玉座の方へと一気に流れると同時に、先程まで倒れていた魔王の亡骸がゴポゴポとどす黒い液状の物に包まれていく。
瘴気の嵐に逆らうようにして、ゼルエダは思い切り後方へ跳んだ。
「シュリス、ゼルエダ!」
「エル様、みんな!」
ゼルエダに取り憑いていた瘴気を払った隙を付いたのだろう。エルメリーゼとソラの待つ結界の近くに、仲間たちは集まっていた。
「ようやく目を覚ましたか、ゼルエダ」
「はい、ご迷惑をおかけしました」
「もう自分を見失うなよ」
皆どうやら無事だったようで、シュリスは安堵した。ゼルエダもレグルスやトリスタンと簡単に言葉を交わしたが、今はそれ以上の余裕はない。
液体に包まれた魔王の亡骸は、肉塊から手足が生えたような醜悪な見た目になりつつも、新たな命を得た様子で立ち上がる。
そうして金属が擦れるような不快な笑い声を上げると、玉座の間いっぱいに無数の召喚陣が現れ、魔物たちが続々と這い出てきた。
「あいつ、まだ生きてるのか!」
「シュリス、勝機はあるか?」
「はい、ゼルエダがいますから」
舌打ちしたリーバルを横目に、ラルクスがシュリスに目を向ける。シュリスがゼルエダの手をギュッと握って答えると、ゼルエダは頷きを返した。




