ズボンとスカート
春からズボンを履ける。となりの山田がすずしい顔をして履いているスラックスを男にならなくても履ける。もうすぐ高校二年生。なにもかも標準化され、まったいらになり、均されて、山田の男装には意味がなくなる。
まったく信じられないが、だれも気付いていないし、わたしが気付いていることにも気付かれていない。
孤独とはなにか? 諸説あるが、わたくし弥山は「秘密」を挙げさせていただこう。人に言えないことが体内の約半分を占める者は孤独状態にあり、そうでなければ連帯状態にある。じつは女なのに男であると装っている山田はもちろん孤独だが、そのとなりにいるわたしも負けず劣らずぽつねん、である。
ひとりな数学の時間を伝説に変えるべく、今すぐに立ち上がって告発したい。「こいつは女だ!」しかし、あともうちょっとで制服も変わるし。うらまれて痛い目にあったら嫌だし。みんなに内緒で男装するなんて絶対に絶対なヤツだし。
彼女の男装に気付いてからもうすぐ一周年。記念しないべき一周年、わたしは秘密を知る人間がひとりいることに気付いた。あっ、山田だ。
「いえーい、弥山。予習という名の宿題をやってるぅ?」
次の授業の課題をうつしたいのであろう山田は、わたしの机の端になれなれしく人差し指をおいてぐりぐりとしはじめた。どうして男装をするにあたって勉強のできない怠惰なお調子者キャラを選んだのだろう。ふつう、だれも寄せつけないクールキャラか、男女ともに愛される優等生キャラだ。しぶしぶと学習用タブレットを山田の机に置く。彼女は犬っころのようにはあはあと喜んだあとで、真顔になった。
「ありがとうは?」
「やまだくんのおやくにたててとてもうれしいよじつにありがとう」
「くるしゅうない!」
しかも、意味のわからん傲慢ナルシスト属性もある。
早く春になれ、ズボンの春に、そして早う暖かくなれ。
ざんねんな美男子とされているざんねんな美少女、山田は女子にしてはかなり背が高い。わたしも平均よりは高いほうだが、となりに山田がいるせいで標準的に見える。すらっとしたスタイルはたしかにスカートよりスラックスが似合っている。廊下のはしっこで男友達と猥談をしているさまは疑いようのない男子だ。現にわたしといっしょに廊下を歩いていたミラ子は足を止めて「はあ、男って存在がわいせつ」と軽蔑をあらわにした。
「あんなに充実しているように見えても、女をエロに見ることでしか関係を保てないんだから、男の友情って崇高で正直で頑強よね。進学や就職や夢や結婚で格差がでても永く付き合えそう!」
「山田くんは男のなかでも救いようのないクズだよ」
「ほんとうにそう! 山田はわいせつを超えたわいせつ」
「宿題強盗だしね」
「はやく消滅しないかしら」
近くにいた山田が男の友人を置いてずんずんと近づいてきた。デカい影にミラ子は一歩退くが、しょせんは尻の薄い女だと気付いているわたしは動じない。
「本人に聞こえる範囲でよく悪口を言えるなあ弥山!」
「いやだなあ、山田くん。われわれは山田くんのことを男らしいと話していたんだよ。とても男らしい! マッスル! 男のなかの男! わいせつ。略してわいせつ」
「最後のところだけとって略すとか許されるぅ?」
彼女は「最初は男の問題だったのに、弥山が俺のことにすりかえた!」と地団駄を踏んだ。ミラ子は「ひっ、高校生が地団駄」と身をよじって逃げ、わたしは「ひっ、俺って」とは言えずに逃げることもできずに心だけ後退した。
「どうして目の敵にするんだ弥山! 俺はこんなにおまえのことが好きなのに」
「どんなに?」
「いろいろあっけど、以下略でいろいろ頑張ってるんだぞ。この俺に気に入れられていることを光栄に思わないでどうする! 人生はかくもつらいのだから、明るきところに逃げればよきぞ」
まるで以前からわたしに言い寄っているような風だが、初耳であった。わたしの背中に隠れていたミラ子が「男なんてダメダメ。女の子は女の子となかよししないと」とささやき、放置されていた山田の男友達は「男は男と仲良ししとうなか!」と拾い、いやあ、でも山田は女なのだが?
で、その山田は「まあ三島さんの言うことも一理ある」とうなずいて、同意されたミラ子は「ひぎい」とわたしにさらにしがみついた。
「友情はたいせつだからな! たとえ恋愛があたまのなかの九十九パーセントを占めていたとしてもつねに人と信頼を築くことは忘れてはならん。されど、恋愛は男と女がするものだ」
「ほら、山田くんは旧石器時代のロンリネスだよ」
「ドクズが」
「見損なったぞヤマダ」
「非難ごうごう!」
時代は変わるし、制服も変わる。山田は一瞬、己の足下を――スラックスを確認した、ように見えた。
「俺と弥山なら、だれもがうらやむ美男美女カップルの誕生だ」
「美しいのならなんであれうらやむさ。しかしなぜ羨望が必要になる? ふたりのあいだにしかないものを中心に回る恋だから、きれいな円をえがくのさ」
「弥山はコンパスになりたかったのか?」
山田はわたしと美男美女カップルになりたかったのか?
問わなかったから、答えはかえってこなかった。背中にはりついていたミラ子が「ちがう、円になりたいのよ」と説明し「マンホールって円だから落ちんのだって」と山田の男友達が補足したので、わたしの将来の夢は円になることになった。
昼休みも終わりかけて席についたころ、となりの山田は顔を隠して眠っていた。が、からだを起こさずに首だけ動かしてこちらを見た。
「ああ、弥山はカワイイなあ」
わたしたちはある意味で秘密を共有している。ここでは秘密を文脈や背景と言い換えたほうがいいだろう。わたしは彼女の言う「カワイイ」が女子によくある何気ない感嘆だとわかるが、周囲から見れば率直な好意の発露であり、襟や袖に視線が刺さる。
「山田くんもかわいいよ」
これも女子同士であれば意味のない鳴き声であるのだが、わたしたちの円の外では息をひそめてでも続きを聞くに値することらしかった。
孤独状態だ。
「おいおい、弥山。男にカワイイなんてまったく褒め言葉ではないぞ、ぜんぜん、えへへ」
山田もわたしに秘密を隠し通せていると思っているから、わたしは山田よりひとりぼっちだった。
ちくしょう、山田め。
「そうだね。よく考えてみると山田くんはちっともかわいくないな。がさつだし、態度がでかいし、もしも山田くんが女の子だったらびっくりしてしまうだろうね。トイレの後に手を洗わなさそうな顔をしているし」
「弥山は照れ屋でカワイイなあ! ……洗うぞ」
わたしたちのあいだに進展がないとみて、みなの集中力も散漫になって音が戻ってきた。山田は頭を起こして「洗うから! 洗う! 洗うんだって!」と主張する。しかし、もはやだれも聞いていない。
我が女子バスケ部には部活おわりに後輩が先輩をマッサージする伝統はない。ないのだが、恒例のように部室のベンチで横になっている木全先輩のたくましい足を揉んでいると「次の一年さあ」と話しかけられた。
「めちゃくちゃ人権意識が高いかもしらんぞ」
「さすがは先輩、ジャンプ力がすごいですね」
「だってニュースになってた。取材も来てた。インタビュー受けたし、うちには新聞部ですら来ないのによ」
「仕方ないですよ。地方大会で一回戦も突破できないザコ部なんだから」
「えらいやつが来てさ。オレ女子なんですけどって崖から這い上がってきそうなマッチョが来ても断れねえから。そんまま全国に行っちまう」
危うい話題だ。先輩もそれがわかっているから、わたしにこそこそと話すのだろう。肩をすくめるポーズと頷きの中間をとって静止する。
「って美麻と波留那に言ったら、それ超最高じゃん、マッチョを集めて全国行こうよって話になったんだけどよ」
話しまくっとる。
木全先輩は足の指をうねうねさせて、気持ちよさそうに目を閉じた。が、口だけは達者に開き続ける。
「あいつらはそうやって賛成するけどさ、弥山的にはどうよ。崖から這い上がってきそうなマッチョといっしょに着替えても大丈夫か?」
大丈夫か大丈夫でないかといえば、大丈夫に違いない。そのマッチョは女子である。女子バスケットボール部は女子しか入部できないのだから。女子が女子と着替えることに問題があるとするなら、この部室兼更衣室は個室に改造しなければならない。わたしは手を止めずにきわめて冷静沈着に答える。
「絶対にムリですね」
「そうなんだよ。一応は生粋の女子である南川が着替えているときでさえちょい変な空気になるもんな。マッチョじゃもっと気ぃ遣うから、部活どころじゃねえ」
「いえ、南川先輩のことを気にしているのは先輩だけですよ。いっしょにしないでください」
「合宿であいつの身体を見たときさ、ゴッリゴリだろ? なのに胸だけスゲェやわらかそうだったんだよ。なんだあの人体。歩く天変地異じゃん。どうするよ、百人の歩く天変地異が入部してきたら。部室が崩壊すっぞ」
「わたしは! 南川先輩を! 尊敬しています!」
「ああ? なんだよ弥山は南川派かっ、とんだエッチヘンタイドスケベじゃねえか」
と目を見開いた木全先輩はようやく半開きの扉に気づいたようだ。細くて弱々しい声がすきま風のごとく聞こえてくる。
「南川は、南川はなにも聞いておりませんゆえ」
ぱたんと閉まった扉に向かって木全先輩は手を伸ばして「違う、違うんだ南川ああああああああああああああ」と叫んだ。今でさえこうも混沌としているのだ、きっと大丈夫なんて気休めにもならない。
山田も春に向けて気をもんでいるのだろうか。彼女の奇行はますますと増える。主にわたしへのつきまとい。朝、授業と授業の合間の休憩時間、移動中、掃除時間、部活に向かう前、部活から帰るとき。ミラ子が定規で引きはがそうとしてもムダ。今も廊下ですれちがったはずなのに、いつのまにか後ろに張り付いている。
「おや、山田くん。ずいぶんと暇を持て余しているようだけれど、友人を学食で待たせていいのかい」
「たらふく食べる前に運動しようと思ってな、弥山たちはどこに行くんだ」
「お便所」
「ついてっていい?」
ダメだろ。
いや、いいのか?
となりのミラ子は悲鳴をあげて山田の腹にパンチをくらわし進行方向と逆に走っていった。深い打撃を受けたヤツは苦しそうに空気をはいて廊下の壁にもたれかかる。正解はダメでした。そのまま立ち去ろうとしたが、腕を掴まれる。
「ひい、ひい、ようやく二人きりになったぞ、弥山」
「廊下に二人しかいないことがあったら、そのときは授業中だよ」
「いや、そんなことはない! そりゃ、廊下にはいつだって人がいるぞ。ある地点からある地点に行くまでにかならず通過しなきゃいけないからな。でも、みながいっせいに教室や階段から廊下に出るわけではないんだ! そこに二人しかいない一瞬はありうるんだぞ」
「運動部の連中はチャイムや終礼と同時に出るさ」
ゲラゲラゲラ。山田の下品な笑いは廊下にウジャウジャといる善良な生徒たちの注目を集めた。はい、二人きりではありませんでした。しかし、彼女はいつにもまして能天気に笑い続けている。二人きりしかいないみたいに。醜態をさらしつづけている。
「弥山はほんとうに実際家だなあ。俺は可能性の話をしたんだぞ。どんなに不可能そうに見えても、絶対にありえないより、もしかしたら良いことがあるかもってことが絶対にありうるんだ」
「そうかい。しかし、反転しても同じことは言えないかい。もしかしたら悪いことがあるかもしれず、それは絶対にありえないよりは可能性が高い」
山田は音もなく回転して、わたしに背を向けた。
「そうかもしんねえけど、でも、俺は元気を出したかったんだけどな」
とぼとぼと去る山田を最後まで見送ることなく、そのままトイレに向かう。やはり山田はこれから来る春をおそれている。しかし、山田くん。いったい何に震える必要がある? みながスラックスになったとき、きみの美しさがとくべつに際立って男装がバレるとでも? そんなことは起きないと持ち前の間抜けさで信じていればいい。春が来ない可能性を夢見るより確実だ。
春は来る、絶対に。
わたしが彼女に呼び出されたのは、その春の前日と言っていいだろう。このクラス最後の終礼が終わると同時に廊下を出ようとしたわたしを引っ張ってプチ渋滞を引き起こした山田は、わたしたちを除くみなが教室を出ても無言をつらぬいている。
「いつもの快活なきみらしくないね。わたしは早くザコ女子バスケ部でザコバスケをしたいのだが」
「この一年間、弥山といちばん距離が近くて仲がよかったのは、俺だと思ってる」
「距離においても深さにおいてもミラ子には勝てないよ」
「三島さんは女子だろ!」
きみも女子だろ。
言えないことがつのりすぎる。すべての理由がわかるのにわからないふりをしないといけない苦悩。たった一年でむりやり深められたこの孤独、いったいどうしてくれよう?
「俺も女子だけど」
どうしてくれよう?
「なんだって」
「いきなりで信じられないよな。特に弥山は頭がかたいし、嘘つけって思うかもしれんが。でもほんとうなんだ。う、疑うなら見せてもいい」
このまま永久に沈黙したいところだったが、すると山田のなにかを見せてもらうか熟考しているように思われそうだ。ヤツはすでにベルトに手をかけようとしている。なぜ下のほうなんだ。
「きみが男装していることは、初めて会ったときから知っていたよ。いきなりで信じられないかもしれないが」
ふたたびの三点リーダ。山田はわたしの顔を食い入るように見つめる。
「嘘だ! ほんとうなら証拠を見せてみよ!」
「山田……もしかしてきみは、演技でもなんでもなくバカなのか」
彼女は、うん、と一回うなずいた。そのあと、いきなりしゃがみこんで、丸く、小さくなった。
「どうしよう、弥山。ぜんぶ、俺のせいなんだよ。そうだって、認めたくないけど」
「仕方ない、春は人の想いとはべつに来るさ」
「俺な、弥山が好き」
それは告白というより、これからの論理展開の布石のように思われた。
「むかしから女の子が好きだったんだけど、いつかまでは隠してた。でも、あるときに、なんとなく親とそういう話になって、打ち明けた。俺の親はとても熱心でまじめで善良なんだ。俺をすっかり男として扱ってな、この学校に入学したときも便宜を図ってくれた。そのとき先生たちもいっぱい話し合ったみたいでな。こんなやつが他にもいるだろうから、もう制服は統一しようって」
「美しい話じゃないか」
「俺はべつに男じゃないよ」
さらに縮こまった山田は膝に顔をうずめる。見えない手が彼女に上から圧力をかけているようだった。
「そう、きれいな運びだ。感動するな、人権教育の成果だ、生きやすくなった、けど、そういえば俺はなんでこの美しい人たちに秘密を隠していたんだろうと考えたときに、あのころはそうじゃなかったと思い当たったんだ。で、事情を知るやつらが俺にやさしくすればするほど、むかし、出会っていたらこんなに親切にしてもらえたんかな、そうでないとしたら変わったんかな、ほんとうか、人はそんなにカンタンに変われるんか、器をひっくりかえして違う液体を流しこんだら綺麗になるんか、不安になってくるんだ。あっ、みんないきなり察しのいい人間になるんだ、いきなり寛容になるんだ、そしたら、寛容でなかった今までの人格はどこにいったんだ? そして、その人格の責任はだれがとるんだ?」
わたしは膝をついて、山田の頭の側面に手を添えた。赤くなった耳をだれも見るわけがないのに隠してやりたかった。
「面倒くさくなってぜーんぶ燃やした土地に、スラックスの花畑。きっと、いいことだ。悪くない。俺しか悪くない。でも、けっこう嫌なことがあったんだって言っても、昔はそうだったんだねって、そいつらが特別ヘンだったんだよって、片付けちゃうんじゃないかって。そいつらはおまえらで、まだ現在で、死んでないのに」
彼女は顔を上げた。
「俺は女で、女として弥山が好き。全員スラックスのなかの恋はいやだ。正しいことになったから許された恋なんてしたくない」
その顔を、涙にぬれた頬をわたしは軽く殴った。
「いや、なんで殴るんだよ!」
「甘えるなよ山田。なんだかんだきみだって周囲の人間に変わることを期待しているじゃないか。やりたいことがあればそのようにやれ」
わっと泣きだした山田を抱きしめてやる。このままだとわたしが殴ったせいで大泣きしているみたいだ。「よしよし」「ううっ、弥山が……弥山が殴った」わたしのせいではない。わたしのせいでは。
秘密が氷解したから春が来た。もちろん、わたくし弥山からすれば二日は笑えるレトリックといえよう。春はいかなる秘密をもったままでもかならず来る。現に、わたしたちの壮大でちっぽけな計画を知るものはいない。
ズボンの群れを割って歩く、教室だけ変わって持ち上がったクラスメイトたちに声をかけて席に座る、ミラ子が近づいてくる。
「制服を間違えたの?」
「いや、なにも間違えてはいないさ。でも、間違えていてもいい」
みなが着席して、教師がやってくる。しかし、山田はやってこない。わたしの斜め後ろの席に座る男子が「鞄があるから隠れてんじゃねーの」と指摘をし、みなの笑い声のなかで教室後ろの掃除用具入れがガタガタと揺れた。
立ち上がる。机と椅子とスラックスの足足をふりかえらず、軽やかなスカートでまっすぐと進む。
たどりついた扉をグーで何度も殴る。
「山田くん、約束が違うね」
「俺、やっぱり怖い、怖いよ。弥山は神経が図太いんだ」
「わたしはきみが好きだよ」
「か、甘言には乗せられないぞ!」
「可能性を信じないのか」
そう、一年前、わたしには春が来た。始業式、初めてあった日、わたしはスラックスを履いているきみをけっして男だとは思わなかった。
秘密を抱える孤独の凍えるほど寒いこと! それでも、春はかならず来る。
扉がぎいぎいと音を立てて開く。わたしたちはスラックスの花畑のなかでスカートを履いて抱擁する。
きっと、大丈夫だ。
人生はかくもすばらしいのだから、明るきところに進め。