第4話 西辺境伯夫妻
「くそ、アールヴとダークエルフからの援軍はまだか?」
西部国境で魔族の動きが活発化しているという報告を受けて開いた対策会議が不調に終わり、イミュート=ジュスル西辺境伯は自室に戻って頭を抱えた。
執務机に肘を突き、豊かな栗色の頭髪に突っ込んでいる指の間から、困難に陥った時に出る癖で、三角形の耳がピクピクと震える。
「今援軍を遣さないで、何のための軍事同盟だ!」
焦りに加えて友軍の怠慢さに、温厚で知られる伯ですら、手当たり次第にモノを投げつけたい気分になる。
事の起こりは一月ほど前。
伝承によれば数百年間平穏であった西部のヒューマンと魔族の国境付近で、魔族の動きが活発化しているとの報告が入った。
偵察だけでなく、拠点構築の動きまで見せられては看過できるわけもなく、すぐさま詳細な偵察隊を派遣した。
また、軍事同盟を締結している北のアールヴ北辺境伯、南のダークエルフ南辺境伯に使節を派遣し、警戒を促すと同時に、攻め込まれた際の援軍を要請したのだ。
だが、南北に西辺境伯領を挟む亜人の反応は鈍い。
どうも、もれ聞こえてくる情報によれば、北にも南にも魔族は現れていないようだ。
「あなた……大丈夫?」
辺境伯夫人のアルテ=ブバスティスが心配そうに声をかける。
夫を気づかって不安を感じているのだろう。
頭の上部についたネコ耳が、シュンとしているように垂れている。
『恵子……すまない。取り乱した』
イミュートは、二人だけという気楽さから、転生前の言葉と名前で呼び、愛しい妻を抱き寄せた。
娘を二人産んでくれた妻は、出会ったころから変わらずすらりとした抱き心地で、愛しい人の甘い匂いを嗅いだイミュートは、少しだけ心を落ち着かせることができた。
『戦争になるんだよね……』
『心配しなくても大丈夫だよ。魔導障壁がある限り、魔族は攻めては来られない』
半ば自分に言い聞かせるように、イミュートは妻に向かってつぶやく。
『どうして……鉄ちゃんが戦争しなきゃいけないの?』
アルテも、夫を転生前のあだ名で呼ぶ。
『仕方ないだろ。俺たちはあの時、誰にも邪魔されず、二度と離れ離れにならないよう、魔族との最前線でも辺境伯の夫婦になりたいって願ったんだから』
もう四十年ほど前のことだ。
高校生だった二人は幼なじみで、恋人同士だった。
クラスでは若干のイジメがあったものの、特に深刻な問題もなく、二人の恋路を妨げるものは何もなかった。
あの日までは。
その日も朝から普段と変わらない日常だった。
朝からクラスのいじられ役からイジメにエスカレートしつつある石村雅人へのちょっかいをスクールカースト最上位の生徒たちが行っていたが、田中鉄太と小池恵子のカップルには何の関係もなく時間は過ぎていた。
だが、四時間目の前の休み時間。
食欲旺盛な高校生たちは当然のように早弁し、昼休み前の倦怠感が漂う中、突然教室で爆発が起き、そこで鉄太と恵子の意識は途切れた。
次に意識が目覚めた時、目の前には亡くなった鉄太の曽祖父が宙に浮いていた。
戦争に従軍した曽祖父は、この日の三日前に亡くなっていたのだが、目の前で浮かぶ姿は、生前と何も変わらなかった。
「ひぃじいちゃ……」
「残念じゃが、ワシはもう死んでおる」
手を伸ばして曽祖父に触れようとする鉄太にピシャリと言い切って動きを制する。
「そして、お前たちも……死んでしまった」
「えっ……?」
恵子が信じられない、と口に手を当てる。
だが、彼女にしても幼い頃に遊んでくれた鉄太の曽祖父が冗談を言う人物ではないことくらい知っている。
「だが安心しなさい。お前たちは二人とも、別の世界で生まれ変わる。そこで幸せになりなさい」
生前と変わらない慈愛の眼差しを向けられ、二人は不安が小さくなるのを感じた。
「そこで、じゃ。二人とも何に生まれ変わりたいかの?」
そう言った曽祖父の顔の前に、巨大なタッチパネルが展開される。
「勇者……聖女……国王……皇帝……?」
「お前たちがこれから新しい人生を送る場所は、魔法がある世界じゃ。魔物も居る」
「そんな……怖いところ、嫌です」
恵子が泣きそうになりながら拒否する。
「ならば、このまま死ぬしかない」
可愛がっていた隣家の子供に対してにべも無く言い放つと、恵子が息を飲んだ。
そして、鉄太の意思を確認するように視線が向けられる。
「この中で、一番戦争に巻き込まれる危険性が少ないところはどこ?」
「鉄ちゃん!」
相変わらず泣きそうな顔で恵子がすがってくる。
「戦争がなくて、誰にも邪魔されずに二人で幸せになれる場所がいい」
恵子を片手で抱き寄せると、鉄太は視線に力を込めて曽祖父を見つめる。
「人間同士は小競り合いが絶えないそうじゃからの。辺境伯なら中央の政変とは距離を置けるぞ」
「じゃあ、そこで」
即決すると、曽祖父は少しビックリした顔を見せる。
「他には条件はないのか?」
うなずくと、曽祖父がタッチパネルを操作し始める。
「西辺境伯なら、人間から攻められる心配はないな。人間でなくなるが、心配するな」
「ちょっと、人間じゃなくなるって……」
不穏な一言に慌てて曽祖父に問いかけるが、目の前がまぶしくて目を開けていられなくなる。
「では、な」
その声がかすかに耳に届いたのを最後に、鉄太はまたも意識を失った。
「それから大変だったね」
世界で一番安心する腕の中に顔を埋めながら、恵子が昔のことを思い出す。
次に自我が芽生えた時、鉄太は頭に犬耳を生やしてイミュート=ジュスルという名を与えられて赤ん坊から育てられていた。
まず、言葉を覚えることが大変だった。
鉄太は県内でもせいぜい中堅どころの高校の生徒。
語学は決して得意ではない。
それでも生きるために必死に覚えた。
幸い、赤ん坊の見た目のおかげで、少しくらいトンチンカンなことを言っても笑ってもらえた。
鉄太は少し話せるようになると、恵子を探し始めた。
赤ん坊のワケのわからない独り言をよそおって日本語を話したが、誰も反応しない。
曽祖父が自分をだますはずがない。
焦りながらも鉄太は諦めずに探し続けた。
七歳になった時、犬耳以外の種族の子供たちと神殿に集められた。
話には聞いていたが、初めて目にする猫耳を生やした猫族をジロジロ見てしまい、何度もにらまれた。
牛族のボーッとした顔と、歳不相応にたわわに実った胸を見つめてしまったことは、仕方ないと言って欲しい。
本当なら鉄太は高校生だ。
頭の中の八割以上を異性のことでいっぱいにしている、男子高校生なのだから。
そして、おっとりとした羊族も、大人は牛に負けず劣らず良いモノを持っていた。
『……鉄ちゃん?』
年不相応に女性の胸元ばかり目で追いかけていると、ジトーとした目で見つめてくる少女に日本語で話しかけられたのはそんな頃だった。
『……恵子?』
問いに小さくうなずいた愛しい恋人に勢いよく抱きついてしまい、あとでたっぷりと叱られた。
その頃、獣人族は内部で意見の対立が先鋭化し、一触即発な状態だったと聞いたのはそれから何年もしてからだったか。
だが、犬族の族長の息子であるイミュートと、猫族の族長の姪であるアルテの見た目は幼い恋は、徐々に獣人内の対立を鎮めていった。
もちろん一筋縄ではいかなかったが、奇跡的に手に入れることができるようになったこの恋路を、誰にも邪魔させないという、固い決意の二人を止めることができる者はいなかった。
そして父たちの世代が一線を退き、イミュートとアルテが結婚して辺境伯を襲い、牛族や羊族とも融和路線を進めたことで、国内での表立った争いはなくなった。
はずだった。