第2話 姉弟
「違う、これは……リリス?」
「なんじゃ、来るなり早々に。妾の名を勝手に変えるな、弟よ」
シャーンが部屋でつぶやくと、すぐにツッコミが返ってきた。
「冗談ですよ、姉上。前回から一ヶ月。考え直していただけましたか?」
「ふん。何度こようと答えは変わらぬ。弟の僕になるつもりなど、毛頭ないわ」
姉と呼ばれた者が即答する。
「そうは言っても、その恰好は辛いでしょうに」
シャーンが気遣うように声をかける。
実際、シャーンの姉イヴ=カルダーは、両手にはめられた枷で壁につながれており、移動の自由が奪われている。
しかも手枷は魔力を封じる効果のある魔導具で、たとえ魔王の一族といえども、膨大な魔力で破壊するようなチート展開はできないようになっている。
枷からは、これまた魔力をもとにした攻撃では破壊できない鎖が天上近くの壁から伸びていることから、つねに立ったまま、両手は吊られている恰好だ。
(物理攻撃でも簡単には壊せないし、逃げられる心配はないな)
間違ってもエクバターナから逃亡した、いかつい国王みたいな展開になられると厄介だ。
人質など取られなくてもだ。
今は勢力を削いだのでおとなしくしている、シャーン反対派の御輿にされかねない。
説得して味方に引き入れるのが上策、このまま軟禁し続けるのが下策だろう。
「ふん。こうして自由を奪えば、妾がすぐに音を上げるとでも思ったか。愚かなことだ」
持ち前の精神力の強さで、地下の牢獄のような部屋に繋がれているのに、いっこうに気力が折れる気配もない。
(まぁ帝国の叡智と違って、劣悪な環境に閉じこめてるわけじゃないからな)
三食とも、豪華ではまったくないが、しっかり栄養に気を使った、王族にふさわしい食事を用意させていた。
もちろん自分自身では食事をとることはできず、排泄すら、シャーンがあてがった侍女の持ち回りで処理されている。
だが、身の回りの世話をする者たちに、身体を拭いてもらってもいるはずだ。
香水もほのかに香ってくる。
不満はないだろう。
(まぁ、特定の人間だけ入れる隠しダンジョンの奥に、きゅうくつな態勢で二百年拘束されていたわけではないからな……)
我ながら少々甘いとも思うが、姉を苦しめたいわけではないので仕方ない。
「ふん、この程度では音を上げるどころか、愚弟への恨みを増すばかりじゃな」
とはいえ、見ようによっては十字架にかけられた某神の子とおなじポーズ、ひいては芦ノ湖の地下にいた上半身だけのなにかを思い出させる体勢なわけで、辛くないはずがない。
それでも槍は刺さっていないので、強がりも言えるのだろう。
「相変わらず強情ですね」
ため息を吐きながら、姉の前に立った。
相対する姉弟は母を同じくしており、闇夜のように深い黒色の髪の毛が共通している。
意志の強そうな眉毛も似ているが、弟の現魔王は顔立ちに特別言及するほどの特徴もなく、ニンゲンと言われても信じてしまいそうである。
だが姉のイヴは、美貌をうたわれた母親の血を色濃く受け継ぎ、淫魔のチャームをつねに振りまいていることから、魔法に抵抗のない者なら一瞬で心を奪われてしまうような、壮絶な美人だ。
とはいえ、立ちっぱなしというのが少しはこたえているらしく、寝不足なのか目の下にはクマができている。
「ふん、大したことはない。アイェウェ神の配偶者、イヴの名をいただいているのじゃ。この程度の苦難で辛いなどと言ってはおれん」
強がりを聞き流しながら、雅人はぼんやりと姉の姿勢を眺める。
雅人的には、拘束されている体勢だけでリリンの母リリスとつい、呼びたくなってしまう。
しかも姉の名前も、同じ神話で共通点があるのでなんとも惜しい感じだ。
なにせ神話におけるイヴの夫は、ギリシア神話の主神ゼウスと、ラグナロク第二戦で殴り合いの死闘を繰り広げた、原初の人間。
そして父なる神が、土から作り出した夫の肋骨を引き抜いて作り、与えた妻の名がイヴだ。
なお民間伝承によって、本当の最初の妻とされるリリスと同じ姿勢になっているのは、一応偶然だ。
膨大な魔力を持つ魔王の一族を拘束するのに、この形にするのがもっとも効率的だったからに過ぎない。
そう、シャーンの趣味ではないのだ。
「まぁ、そんなことはどうでもいいんです。今日は、姉上の心を折るために、最新情報をお持ちしました」
「ほぉ。また何かしでかしたか、愚弟よ」
シャーンが言うと、姉が興味深そうに片方の眉毛をあげる。
「獣人西辺境伯領を征服し、併合しました」
「この……愚か者がっ!」
淡々とした、事実だけを述べた報告に対し、イヴは唾を飛ばすような勢いで罵倒する。
「ハクトックナイの敗戦以来、ヒューマンには不干渉をつらぬくのが、我らアイェウェの民を率いる王家の家訓であり、国是であるぞっ! それなのに、貴様は……」
もし鎖で壁に繋がれていなかったら、最低でも掴みかかってくるか、最悪、喉笛を噛みちぎられそうな勢いだ。
「申し訳ありませんが、先に手を出したのはヒューマンです。それは前にも説明したとおりですよ」
「実際、どれほどの被害が出たのだっ! わずかであろう。それなのに、針小棒大に被害者ぶりおって。恥を知れっ!」
別に、シャーンは被害者ビジネスを行っているつもりはない。
確かに、今現在は被害は大きくない。
だが、確実に気候の変動とは無関係な要因で収穫量が下がっている。
そして魔法とは違う、外法な魔力の流れも観測されているのだ。
このまま放置しておけば、確実に将来、アイェウェの民は困窮することになる。
未来が見えているのに行動しない理由はない。
(義を見て為さざるは勇なきなり。今対処しておかないと、あとで大変な目にあうのがわかってるんだ。それなのに……どうしてわかってくれないのだろう)
かつて聡明さを謳われ、シャーンよりも次代の魔王候補としてふさわしいと、将来を嘱望された姉が、なぜこうもヒューマンとの戦争を忌避しているのかが、どうしてもわからない。
「姉上、なぜそこまでヒューマンとの戦争を否定されるのですか?」
もう、面倒だから直接聞くことにする。
周りは勝手に権力闘争の御輿にする思惑を秘めていたが、そんなこととは無関係に、幼いころは仲の良かった姉と弟だ。
貴族らしい遠回りな表現など抜きで、直球勝負をしかける。
「失敗したらどうするつもりじゃ?」
「……は?」
「今までのやりようで上手くいってきた。なぜわざわざ冒険するのか理解できん」
「……よくわかりました」
雅人はこの瞬間、姉を巻きこむことを諦めた。
確か、日本一有名な立身出身するサラリーマンの話だったかで読んだ気がするが、前例から外れることができなくなる人がいる。
頭がいい人に多いのだが、先のことが読めすぎてしまい、結局無駄を悟って行動に出られなくなるようだ。
姉もそうなのかもしれない。
そうだとしたら、もう、説得できるものではない。
もちろん、猪の皮を被った男みたいにつねに「前だけ向いて叫ぶ」ようにして突き進むことが正しいわけじゃない。
だが考えるだけで動かないなら、意味がない。
雅人は姉を自戒するための指標とだけすることを心に決めたのだった。
「残念ですが、姉上を説得するのは難しそうです。なので、しばらく来るのをやめさせていただきます。獣人領を安定させなければなりませんし、被疑者の魔導王国に侵攻する準備もありますので」
「待て、シャーン! そなた、まだ父祖の法を破るのかっ?」
イヴがなおも騒いでいるが、雅人はため息を吐きながら部屋を出た。
扉を閉めると、人払いしていたので部屋の外にて待機していた、イヴ付きの妖魔や邪精霊出身のメイドたちがうやうやしく頭を下げる。
夫が誤ってヒューマン領に越境してしまい、討伐された者たちの寡婦だ。
間違っても姉に同調して逃すようなことはない。
「姉上の世話、頼んだぞ」
「かしこまりました」
声をかけると、メイドたちが深々と頭を下げるのを見届ける前にもう、雅人は歩き始めた。
昨日、ノクターンに投稿した話の続きを本日もアップします。
年齢制限に問題ない方はそちらもご笑覧くださいますと幸いです。




