第2話 絶望の時間1
チャイムの音を背景にしながら、ガララ、と教室のドアを開ける。
少しでも早く教室に入れば、なにか難癖をつけられるのが目に見えている。
そのことに気付くまでは辛い思いを何度もした。
座っている頭の上から、トイレで汲んできた水をかけられたり、後ろから羽交い絞めにされ、ボクシングのサンドバック代わりに、吐くまでお腹を殴られたり。
とはいえ、教師が見ている前では露骨な、暴力的なイジメはさすがにされない。
だから、教師とどちらが遅いか、というレベルでギリギリをいつも狙い、トイレの個室で時間をつぶすのが雅人の日課だった。
そのトイレですら、同じところを続けて使うとバレてしまい、いきなり水を上からかけられたり、汚物を投げ込まれたりする。
通学時間は、誰とも会わないくらい早くしないとそこも地獄だ。
荷物をもたされるくらいは当たり前。
屈強な、陸上部の男子生徒をおんぶさせられたときは、一歩も歩けず、顔から地面に崩れ落ちてしばらく包帯を取ることもできなかった。
それでも、雅人の過失とされる。
学校の中にも外でも、安息の地はないのだ。
ドアから自席まで歩く間も針のむしろだ。
(コイツ、なんでまだ学校来てんの?)
(早く登校拒否になれよ)
(うっざ。キモイんだよ)
そんな心の声が聞こえそうな、蔑視するような空気の中を歩く気分を想像したことがあるかい?
ああ、まただ。
当たり前のように、雅人の机の上には花瓶と活けた花が置いてあることに、気づいた。
まるで死者をとむらうように。
(トムラウ、か。もし死んだら……環もいいけど、シスターアイリスに祈ってほしいな)
そんなバカなことが一瞬頭の中をよぎる。
ガタタッ!
歩いていると、何かにつまづいた。
「ちょっと! 痛いんだけどっ!」
あぁ、やっぱり……。
自分から足を引っかけておいて、被害者面したのは中田佳奈。
勉強は学年で下から数えた方が早い程度の出来のくせに、オトコに媚びることと、陰湿なイジメをすることだけは得意という最悪の女だ。
だが、雅人以外の男にはすこぶるウケがよく、ハーフのような顔立ちからか、ほかのクラスや上級生の男から告白されたりもするらしい。
本人が自慢げに話しているのがよく聞こえる。
しかも父親は学校の理事会メンバーで、教師も逆らえないし、男教師の中には外面にだまされてえこひいきするやつすらいる。
ギャーギャーわめいているが、とりあえず授業ははじまっている時間だ。
無視して自分の席に向かう。
「おい、中田さんに謝れよっ!」
「そうよ、そうよ。自分からぶつかっておいて、謝ることもできないなんて、あんたそれでも人間?」
そんな声が後ろからぶつけられるが、意識して聞こえないふりをする。
耳をふさいでしまいたいくらいだ。
さて。自分の席に置かれた花瓶と生け花だが、こんなことはなんでもない。
そんな顔をしなければ。
反応すれば、イジメる側を満足させるだけなのはわかっている。
それでも、抑えきれない不快感に少し表情をゆがめながら、最後の数歩足を動かして席に向かう。
「よお」
金髪に染めた、見るからに素行の良くない男が前に立ちふさがる。
雅人よりも身長が高く、ケンカ慣れした実用的な筋肉に全身がおおわれていて、目の前に立たれると正直怖い。
隣の席に座る池井慶だ。
中身も見た目どおりの性格で、雅人とは真反対なほどソリが合わない。
入学から半年で何度も問題を起こしているが、事なかれ主義のこの学校では甘々な処分しかされないので、よけいに調子に乗っている。
「お前、今朝さ。屋上行ってたろ。ついに、やっと本当に死んでくれるのかと期待してたのによ、なんでまだ生きてんだよ?」
馴れ馴れしく肩に手を回したと思ったら、本当に死んで欲しかったと言い出す。
「……池井君は、僕が死んでも何とも思わないんだ」
「はぁ? むしろ早く死んでくれよ。お前がいつ死ぬか、みんなで金賭けてんだからよ。早くしてくんねぇと、損しちまうだろうがよ」
さすがにショックで二の句が継げない。
本当だろうか。
いや、コイツらならやりかねない……。
「おい、池井。そろそろ授業始まるぞ」
教師に声をかけられ、池井慶は仕方なくチッと舌打ちすると、誰からも見えないように腹に一撃を加え、雅人の隣の席に戻っていった。
ジャラジャラと、趣味の悪い指輪をいくつも着けたこぶしが鮮やかに鳩尾に入ったせいで息ができなくて、しばらく動けない。
「おい、石村。お前も早く席に着け」
教師のくせに、席に置いてある見るからにイジメの象徴のような花瓶は無視らしい。
生徒だけじゃなくて、教師もくさってる。
だが、これが雅人を取りまく現実だった。
「ちょっと慶、またアイツからかってたの?」
池井が席に着くと、雅人の反対側に座る難波江華が声をかけるのが聞こえる。
「からかったんじゃねぇよ。あのヒクガエルに現実の厳しさを教えてやっただけだよ」
ヒクガエルというのは、卑屈なカエルみたいな見た目ということで、入学早々に僕についたあだ名だ。
生物部でもないし、運動不足ではあるが、色黒なせいでアルビノっぽくはないんだけど……。
「ふーん。まぁ、キモイし、ちゃんと躾けておいてね」
難波江は、そんなやりとりのどこにそんな顔をする要素があるのかわからないが、顔を赤らめて池井を見つめている。
池井はあまり真剣ではないが、難波江が一方的に惚れて、猛烈なアピールをして付き合っているという話だ。
中学まで優等生で、入学当初は黒髪だった難波江は、ある日親にも相談なく池井の好みに合わせて金髪にして、親を泣かせたらしい。
関係ないけど。
「早く座んなさいよ。授業が始まらないでしょ」
何人かの生徒が不満を言うのが聞こえる。
どうせ進学校でもない地方高校に通っているのだ。
授業などほとんど聞いていないか、テストが終わったら忘れるくせに。
とはいえ、これ以上遅れればまたそれを言いがかりにイジメが起きる。
お腹の痛みと息苦しさに顔をゆがめながらも、なんとか席までたどりついた。
雅人が座ろうと椅子を引くと、案の定水浸しだ。
これくらいなら毎度のことなので、家から持参した雑巾で座面を拭く。
「早く座れ! 石村」
イジメなんて、見なければ存在しない。
そんな風に頑なに目を逸らし続ける教師が怒鳴る。
急かされ、慌てて腰を下ろす。だが。
ガッシャーン。
座ろうとした椅子が誰かの手によって移動され、盛大に尻餅を突く。
尾てい骨がもの凄く痛い。
骨が折れたかと思うくらい痛くて、動けないほどだ。
それでも周りからは、僕が勝手に転んだかのように、クスクスと笑う声しか聞こえない。
「いい加減にしろ、石村!」
声高に言われ、泣く泣く椅子に手を突いて腰をあげる。
もう椅子を引かれないように手で持って座ろうとする。
だが次の瞬間。
ガタン!
椅子の脚が一本折れた。
体重をかなり預けていたので、当然のようにバランスを崩し、床に転げ落ちる。
「ちょっと! こっち来ないでよ!」
「アンタが太ってるのが悪いんじゃないの?」
「学校のモノを壊すなよな」
誰一人、同情の声は上がらない。
むしろ、僕が全面的に悪いと、クラス中が言っている。
でも、鼻血を流しながら見てみると、椅子の脚は明らかに何かの道具で切断されていた。
切断面を隠すように、テープが貼られていることも、人為的なモノだという証拠になる。
それでも……もし人為的だと声を上げたところで、数の暴力で屈服させられる。
雅人が間違っていると認めない限り、糾弾大会は終わらない。
教師も、クラスの大勢に迎合するように、雅人の訴えを握りつぶすのだ。
この教室に、僕の味方は居ない。
ただの一人も。