Intro
窓から差し込む西陽に照らされて、くたびれた譜面台が鈍く光を反射している。
普段から、あまり人の往来が激しいわけではないであろう部屋の中では、細かな埃が宙に舞ってキラキラと輝いていた。その様子が、幼い頃に観たアニメーション映画に出てくる妖精の翅から零れ落ちた鱗粉のようで、綺麗だな、なんて思ってしまう。
その光の中心で、一人の少女がギターを抱えて踊っていた。
今しがた自分で開いたばかりの扉に手をかけたまま、あたしの視線は彼女に釘付けになる。
肩の上で切り揃えられた黒髪のショートボブを振り乱し、華奢な身体を破裂する線香花火みたいに激しく揺らしながら、少女は右手に握りしめたピックで鋼の弦を掻き鳴らす。その動きに呼応するように、妖精の鱗粉が彼女の周りで渦を巻いた。
風がそよいで、かすかに檸檬の香りがした。部屋の中で滞留していた空気が、開け放たれた扉から廊下へと飛び出していく。突然に起こった空気の流れに、驚いた少女が跳ねるようにこちらに振り向いて、目が合った。
高校二年生の夏、終業式。放課後の音楽準備室で、その日あたしは、ギターをもった天使に出会った。
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赤信号で止まって、青信号では進む。
世の中には、そういった常識と言ってもいいような類いの決まりごとが沢山ある。それがもっと狭い世界、例えば学校なんかになると、さらに細かくて面倒な「決まりごと」が盛り沢山だ。
おともだちが観ているドラマは毎週欠かさず観ましょう。
おともだちがSNSに写真を投稿したらいいねをつけて共有しましょう。
狭い世界の中の、さらに限定的な、小さなコミュニティにおける共通の話題や仲間意識を保つためのルール。くだらない。あまりにもくだらないけれど、この狭い世界ではそれらは当たり前のルールなのだ。そして、そんな当たり前を破ってしまうと、人はいとも簡単に仲間はずれにされてしまう。そう、あたしみたいに。
「はぁ……」
いつもと同じ、代り映えのしない通学路をだらだらと歩きながら、桐島茜は憂鬱そうにため息を吐いた。
「終業式、バックレちゃおうかな……」
そう言葉にしてから、もう一度ため息をこぼす。行きたくないと口にしてしまったことで、元から乗り気でなかった終業式が、改めてとてつもなく面倒なものに感じられてしまったからだ。
「ほんと、いやになる」
悪態をつきながら、茜は転がっていた小石を腹いせ交じりに蹴飛ばす。半分は、いま自分をみじめな気持ちにさせている学校の連中への怒りから、そしてもう半分は、それでも学校に向かう足を止められない生真面目な自分に対する呆れからくるものだった。
カンカンカン、という音が鳴って、茜の前の前で踏切が閉じていく。仕方なしに足を止めると、しばらくして二両編成の電車が茜の目の前を通過していった。白い車体に一筋の青い線が映える、この町で唯一の単線鉄道だ。
四方を山に囲まれたこの町の、丁度ど真ん中を横切る形で敷かれた線路は、町はずれの河川敷を跨いだ鉄橋を越え、そのまま山の向こうに繋がるトンネルへと続いている。その山の向こうでは、さらに線路はずーっと遠くの方まで続いていて、やがて東京へと至る。
踏切が開いた後も、茜はしばし立ち止まり、走り去っていく電車を見送った。
電車は、みるみるうちに遠ざかっていくと、やがて山の横っ腹をぶち抜いたトンネルの中へ消えていった。
「いっそのこと、あの電車に飛び乗ってこんな町から逃げ出したいよ」
今は叶うはずもない願望をこぼして、茜は再び学校へと歩を進めた。
高校生になったら東京に出て一人暮らしをするという、無謀な希望を胸に抱いていた夢見がちな中学三年生だった桐島茜が、両親の猛反対によってあえなく地元の公立高校に進学してから、早いもので一年と数ヶ月が経つ。
当時の担任教師に勧められるままに渋々受験した地元の高校へと進学が決まり、最初のうちこそ茜も不平不満を垂れていたものの、いくら文句を言ったところで学生では東京での一人暮らしなど到底不可能だと悟ってからは、早々に頭を切り替えていた。
高校が無理ならば大学だ。三年間きちんと勉強して、それなりに頭のいい大学を受験して、合格する。そうすれば、両親だって私の東京行きに強く反対は出来なくなるはずだ。そんな風に、茜は考えた。
そんな思惑と共に幕を開けた高校生活の中で一年間、茜は様々な努力をした。良い大学に受かるための勉強は勿論のこと、友人関係にも気を配った。
同級生には内緒でこっそり大学受験のための通信教育を始め、学年試験や模試では常に良い成績を保った。その一方で、流行りのファッションやコスメは欠かさずにチェックし、教室では常に愛想を振りまき、クラスの中でいわゆる「上位カースト」に位置する女子グループにおいて「そこそこ頭の良いやつ」のポジションを掴むことに成功した。
すべてはこの退屈な田舎から飛び出して東京へ行くため。そして、東京に出てからの「イケてるあたし」になる為の茜の予行演習だった。
そうやって、茜は自分なりに精一杯の努力を重ねてきた。
面倒くさい人間関係や、本当は興味のない話題までチェックしてのらりくらりとグループの中で居場所を保ち続けることが馬鹿馬鹿しく感じられることもあったけれど、すべては三年後の輝かしい未来のためだと思えば頑張ることができた。
しかし、茜はその努力のうちの半分を、たった数分の間で台無しにしてしまうことになる。
「アイツ、なんかウザくね?」
発端は、誰かが放ったそんな一言だった。夏休みを一週間後に控えたその日、茜が属していたグループの「声が大きい」女子たちは、一人の少女に照準を定めて残酷な暇つぶし、有り体に言えば「イジメ」を始めようとしたのだ。
特定の集団の中で、自分の立ち位置を「上の方」で保つために、誰かを蹴落として相対的に自分の価値を底上げしようとする類の人間が、世の中にはどの界隈でも一定数は存在している。果たしてそれが本当に自分の価値を上げることに繋がるかと問われれば、間違いなくノーと答えられるはずだが、それに気が付けない馬鹿な人が存在するのだ。
そういった種類の人間からは本来ならば距離を置くに限るのだが、残念なことに茜が属したグループでは、そういったタイプの人間が多数派だった。しかし、本当に残念だったのは、彼女らと同じくらい愚かな人間になり切れるほど、茜は器用ではなかったということだった。
昼休み、第二校舎の三階。普段は滅多に人が寄り付かない女子トイレに呼び出されたその不運な少女はひどく怯えていて、反対にそれを取り囲んでニヤニヤと笑っている彼女たちはひどく醜悪に見えた。
「やめなよ」
そんな醜い人たちの一員になるのが嫌で、茜は思わず声を上げていた。
「は?なに?どしたの茜」
仲間だと思っていた人物に水を差され、彼女たちはへらへらと茜を見返した。しかし、当の茜がいたって真顔なことに気がつくと、その顔に浮かべていた粘着質な笑顔が、見る見るうちに不機嫌なものへ変化していく。
「え、なに。なんか文句あるわけ?」
「いや、べつに文句とかじゃなくて、わざわざその子に絡んで時間を無駄にするの、なんか馬鹿馬鹿しいじゃん? そんなことより売店いこうよ」
あくまで波風を立てないように、それでいてそこで怯えている彼女にこれ以上危害が及ばないように、精一杯に考えて放ったつもりだったその言葉は、しかし思わぬ形で彼女たちに受け取られることになる。
「は? なに、馬鹿馬鹿しいって。アタシらの程度が低いってこと?」
「あー、はいはい! アンタは頭イイもんね」
「いっつもお高く止まってさ、見下してんじゃねえよ!」
あ、マズいと茜が思った時にはもう遅かった。つい先ほどまで茜の「おともだち」だった彼女たちの悪意の矛先は、すでに茜へと向けられていた。
その日から一週間、茜に対する女子グループのイジメは続いている。
イジメと言っても、あの日の哀れな少女のようにトイレに呼び出されたりといったようなことはなく、上履きやノートを隠されたり、クラスメートのほとんどが口を聞いてくれなくなったりといったような小学生レベルの嫌がらせみたいなものだったのだが、茜の気持ちをどんよりと曇らせるには十分なものだった。
沈む気持ちで重くなる足を引きずり、茜が通う高校にたどり着く頃にはもう時刻は遅刻寸前になっていた。校舎の正面に据え付けられた時計で自分が遅刻しかけていることを確認した茜は急いで正門をくぐり、昇降口へと向かおうとするが、そこで声をかけられた。
「ちょっと桐島さん、今日も遅刻ぎりぎりじゃない」
校則の規定通りに制服を着こなしたポニーテールの少女がプラスチックの画板を片手に門の横に立っていた。
「ごめん委員長、昨日夜更かししちゃって」
彼女の名前は出羽咲良、茜のクラスの学級委員で、今では数少ない「茜と口を利いてくれるクラスメート」のうちの一人だ。なんでも今月は委員会で遅刻撲滅運動なるものを実施しているらしく、最近は登校時間が遅くなりがちだった茜は毎朝のように彼女と顔を合わせていた。
「もう、いつもそれね。まあいいわ、私もそろそろ教室に戻るから、一緒に行きましょう」
手にしていた画板に何かチェックを入れると、委員長は昇降口へ向かって歩き出した。並んで茜も歩き出す。
「明日から夏休みだけれど、桐島さんはどこか旅行に行くの?」
「ううん、あたしんちは今年はとくになにもなし」
「そう」
他愛もない話を交わしながら、下駄箱で上履きに履き替える。廊下を並んで歩きながら、茜はちらりと委員長を盗み見た。
すらりとして無駄な脂肪がついていない手足に、まっすぐに伸びた背筋、背丈は茜と変わらないはずなのに、スレンダーかつ姿勢の良さも相まって、茜には委員長の背が実際よりも高く感じられた。
「ねえ、桐島さん。夏休みに入ったら、どこか一緒に出かけない?」
「えっ?」
委員長の突然の申し出に驚いた茜は素っ頓狂な声をあげる。
「なによ、そんなに驚くことないじゃない。それとも、私と出かけるのは嫌かしら?」
「あ、いやそんなことはないけど、まさか委員長が遊びに誘ってくるなんて思ってなかったら、びっくりしちゃって」
委員長はつり目がちな瞳を細めて、悪戯っ子のようにくすくすと笑った。委員長もこんな表情をするんだな、と茜は内心で目を丸くする。
茜が知る限り、クラス内でも必要以上に他人と群れない委員長は、いつもきりっとしていて、その端正な容姿や堅苦しい話し方も相まって近寄りがたい雰囲気を醸し出していたのだが、今の委員長からはそんな雰囲気は一切感じられなかった。
「うん、いいよ、あそびにいこ」
茜が答えると、委員長は嬉しそうに微笑んで、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
「それじゃあ、LINE交換しときましょ」
「えっ?」
再び素っ頓狂な声をあげる茜に、委員長は怪訝な顔をする。
「なにか、おかしいかしら」
「いや、委員長もLINEとか使うんだなと思って」
「私を何だと思ってるのよ」
苦笑する委員長が差し出してきた携帯端末の液晶に表示されたバーコードを読み取ると、ちょうど予鈴が鳴った。
「ほら、急ぎましょ」
委員長に促されて、茜も早足になる。
スマートフォンの液晶に委員長のプロフィールが表示された。可愛らしくデフォルメされたウサギがアイコンに設定されていて、茜は思わず自分の口元が緩むのを感じた。