part3
雨が降る中、独りの少年がビルの屋上で一筋の涙を流していた。眼下には何一つ良いことが無かった街並みが広がっている。
少年は泣いた。泣きに泣いた。だってここには泣き虫だと虐めてくるアイツたちもいなければ酒に溺れ気に食わない事があるとぶってくる母親もいない。
だから好きなだけ泣いた。
ここには、この世界には味方がいないから少年はひたすらに泣いていた。
少年はゆっくりと屋上の柵から身を乗り出し、下を覗き見た。黒い薔薇が何本か誘うように揺れている……よく見ればそれはサラリーマンが傘を差し歩いているだけなのだが男の子には身の毛もよだつほど恐ろしい光景に見えた。
少年は慌てて柵を強く掴み直す。手の平に触れた鉄の柵の冷たい感触に一瞬、肩を震わせ、その震えは全身に伝播していった。
ガタガタと唇を震わせながら少年は「怖いよう……」とだけ呟く。
固く閉じた目の隙間からまた一つ涙があふれ、それは雨粒に紛れながら地上に零れ落ちていった。
「なぁ、これって……」
健司の言葉にAは一瞬バツが悪そうな顔を浮かべたが、直ぐに気を取り直すように「じゃあ、逝きますか!」と声を上げ笑った。
「涼介の事教えろ」
「いや、まぁ……」
「早く教えろ!」
怒気を存分に孕ませた健司の言葉に、Aは小さく溜息を吐いた後、ぼそぼそと話し始めた。
小学五年生の涼介は虐められている。きっかけは何のことは無い。あいつの悪口を言った言ってないといったようなしょうもない事だ。だがそれは大人から見ればの話。子供からしてみれば紛れもなく戦争だった。まして学校が退屈な場所であることに気付き、性が仄かに芽吹きだし、自分が何者なのか模索し始める10代の入り口にあって子どもたちは皆どこか不安定で脆い。涼介のクラスメイト達も退屈しのぎに始めた虐めだったが段々とそれはエスカレートしていき、無視し、物を隠し、挙句背中にコンパスの針を刺し続けたりとしながらもそれを止める術を知らなかった。
そしてそんな涼介を本来守るべき母親は離婚して4,5年経った時から心が壊れ始め酒と男を拠り所にするようになった。涼介一人で過ごす夜が幾晩も続いたこともある。公共料金の支払いが滞り電気が点かなくなる事も日常茶飯事だった。
そんな家と学校を往復するだけの日々の中、皮肉にも涼介もまた父親と同じ道を歩もうとしていたのだった。
「あらすじはまぁこんな感じです。ここから見てても可哀想な子だなとは思ってましたよ」
Aは俯き加減に言う。
健司は鏡の向こうで震える涼介をじっと見つめる。
「このビルって……」
「えぇ、そうです。10年も会えずにいたあなたたちは皮肉にも隣町同士だったんです」
そう言うとAは上目遣いで健司の目を覗き込んできた。
「ねぇ、何を考えてるんです?」
Aは呆れたような笑い顔を浮かべている。
「まさか馬鹿なことはやめてくださいよ」
Aは小首を傾げながら健司の元ににじり寄ってくる。
「今のあなたに何が出来るっていうんです? 涼介君はあなたの顔だって満足に覚えてやしないのに」
Aは健司の耳に言葉をねじり込む。
「ねぇ? 今のあなたは気まぐれに生き返ったって何一つだっていい事は無いんです。私が言うんだから間違いないですよ。ねぇ? もう、どうでもいいでしょう?」
そんなAの言葉に健司は反射的に答えていた。
「うるせぇ」
Aは健司の言葉に目を丸くする。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべるAに健司は言葉を重ねた。
「どうでもいいんじゃねぇんだよ」
部屋の中で反響する自分の言葉に想う。
あぁ、そうだ。
こんなことまでどうでもいいで済ませてたまるか。
涼介を初めて抱きしめたあの日の温もりを思い出し、胸の中に小さな火が灯った。
「涼介、ちょっと待っててくれ」
健司は後ろを振り返りドアの方へ向かい歩いた。
その背中に吐き捨てるようにAは呟く。
「勘弁してください……格好つけて生き返って何も出来なくて結局また死ぬ……私はねぇ、もうそんな場面を数え切れないほど見てきたんですよ。こんな不真面目な私ですがね流石にくるものがあるんです……ねぇ、金も時間も無いそんなあなたに一体何が出来るっていうんですか」
コツ、コツ、コツという健司の靴音だけが部屋に響く。
「ねぇ!」
Aが叫ぶ。
「お前と同じさ」
健司はドアノブを掴みながらAの方を振り返り言った。
「相談くらいなら聴けると思うんだ」
俺たちはやっぱり似た者同士だったんだな。
これからまた何一つ良い事のない世界に帰るというのに零れるのは涙ではなく笑みだった。
そっとドアを開く。
「A、もし入れ違いで涼介が来たらお前が少しだけ話を聴いてやってくれないか? そしてドアの向こうに、格好悪いけど、頼りないけど……父親が待ってるって伝えてやってほしい」
健司の言葉にAは小さく溜息を吐く。
「いいですよ。それが仕事ですから」
Aは小首を傾げ笑顔で見送る。
健司は一歩前へ踏み出した。
眩い光が部屋全体を照らしあげた。
健司が行った後、Aはふぅと息を吐き、涼介に向けて呟いた。
「さぁ、これからどうしましょうか?」
次で終わりです。