part1
足元の椅子を蹴り崩せば終わりだ。
ここまで来るのに随分と時間が掛かった気がする。
健司は何故かヘラヘラと緩む頬をそっと撫でた。ふと手の甲に触れた麻縄は湿り気を帯びていて、妙に冷たく、そして重い。
昨日は雨が降っていたのだ。
森の腐葉土からは緑の匂いがむせ返る。その匂いにどこか懐かしさを覚えると同時にこんな今際の際に子供時代の事を思い出す自分のありきたりさにホトホト呆れる。
なぁ、まさかと思うがこの期に及んで生きたいとか思ってないよな?
健司は自分に問いかけながら、軽く足踏みをしてみた。ゆらゆらと揺れる折り畳み椅子。
皮肉にもそれで覚悟が決まったのか、健司の足の震えは止まった。
昨日書いた遺書を思い出す。久し振りに頭を使って書いてみたがどうにも上手くまとまらず、いい年しておきながら中学生の卒業文集みたいな文章になってしまった。情けない。こんなつまらない事が数少ない心残りになってしまった。
つまらない心残りと言えば、最後に会った人もそうだ。老いた母でも腐れ縁だった友人でもなく樹海に行きたがる私に訝しげな視線を送る只のタクシーの運転手だった事が今となっては悔やまれる。
思い出せば切りの無いことだ。
まぁ、もういい。
……もう、どうでもいいだろう?
どこからか響くモズの鳴き声を遠くに聞きながら健司は一歩、足を踏み出した。
「成川さん。成川健司さん。初めまして。気が付きましたか?」
冷たい鉄の感触を頬に感じながら健司は自分の名前を呼ぶ声に目を覚ました。嘘みたいに爽やかな目覚めだ。20代からの悩みだった偏頭痛もまるでない。
軽くなった頭で真っ先に思ったのは、目が覚めている事実に対する疑問だった。
――どうして俺は目が覚める? どうして俺は生きているんだ?
「初めまして」
顔を上げるとそこには男がいた。いや、男だろうか? 何故なら目の前のその男は白いフリル付きのドレスを身にまとい、頭上には光る円環の輪が浮かんでいる。その姿はまるで……。
「天使もとい、私はヘブンズワーカーのAと申します。今日は何か色々お話を聴かせて頂ければなぁと思っています。よろしくお願いしますね」
Aと名乗るその男は矢継ぎ早に「この衣装、ダサいですよね。でもまぁこれ着てる方があなた達にとっては状況は分かりやすいかなって事でマニュアルで決まっているんです」と話し大して可笑しくもなさそうに笑う。
健司はAの愛想笑いに付き合う事もなく、改めて周囲を見渡した。そこは真っ白の壁に囲まれた小部屋で、灰色のオフィスデスクを挟んで健司とAが向かい合わせで座っている。もっともその椅子は簡素なパイプ式でどうにも座り心地は良くない。
周りには誰もいないのだろうか。壁の向こうに人の気配は無い。
気になるのはAの後ろにある古ぼけた姿鏡と俺の真後ろにある木製ドア。この部屋は一体何なのだろう……と健司は考えながらも、まぁ最終的にはこの結論に至る。
どうでもいいか。
ここ数年健司がずっと考えてきたことだ。嘘みたいに軽くなった頭を久し振りに使ってはみたが、楽を覚えてしまうとどうもいけない。
どうでもいい。魔法の言葉。これでチャラだ。
それに最後の記憶と目の前のAの衣装を見れば、何となく想像はつく。信じられないが。
「俺は死んだんだな」
「ご名答!」
Aは弾んだ声を上げた後、「あっ、失礼しました」とバツが悪そうに笑った。さっきの愛想笑いよりは素直に笑っているように健司は感じた。
「ここは死後の世界ってことか。それでお前はその案内人……」
健司の言葉にAは小首を傾げ顎を撫でる。
「うーん、半分正解ですかね。ここはあなたが生きていた世界と死後の世界のちょうど端境とでも言いましょうか。あなたはこのまま死ぬことも出来るし、生き返る事も出来ます」
「生き返る?」
「えぇ、あなたの後ろにあるドアをくぐれば元の世界に帰れます。それぞれの方の自殺方法に合わせた最も自然な生き返り方が選ばれます。あなたの場合、縄が千切れその直後にあのタクシー運転手が探しに来てくれますよ。逆にこのまま死にたければ私の後ろにある姿鏡をくぐって下さい。鏡面に触れればそのまますり抜けられます。めでたくあの世ってな寸法です」
視界の隅にある姿鏡が鈍く光った気がした。
「さて、もう半分の不正解の方の内訳を教えましょうか。実は私は案内人ではなく相談員です。あなたが何故自ら死を望んだのか。そしてその悩みに何か出来る事がないか文字通り人生最後の相談に乗らせてもらってます。ってこうしてみると半分正解どころか殆ど外れですかね」
Aは悪戯っぽく笑う。
健司が「相談といっても……」と頭を掻くと、Aは「散々してきましたもんね」とぴしゃりと言い、いつの間にか持っていた手元のファイルを数ページ手繰り言った。
「生活福祉課の小林CW、ご両親かかりつけのMSW、あとは北野弁護士事務所の青原弁護士……色々相談されたけど駄目だったんですよね?」
Aはそう言い愛想笑いを浮かべる。
Aはどうやら俺の全てを知っているらしい。まるであり得ない事だが、ここではもう何かを理屈で理解しようというのが無駄なのかもしれない。
事実、健司がそう感じた瞬間にAは「そうそう。無駄ですから。感覚で理解してください」と言ってきた。
Aは全て知っている。
「そうです。勿論。あなたのお住まいだった世界の文化、風俗、法律、科学あらゆる全てを完璧に理解しています。勿論あなたの人生の全てを語ることだってできます。生まれた時の出生体重、初めて精通した時に見ていたオカズ、そのか細い両肩で支えきれなかった借金の総額……はっきり言って今迄の相談員とはレベルが違いますよ」
Aは威厳たっぷりにそう言い笑った後「分かって頂けたみたいなので服は着替ていいですか? 流石にちょっとね」と恥ずかしそうに指を鳴らした。パチンという音と同時にAの服はたちどころに黒いスーツに変わった。
そして真面目な声色を作りAは話す。
「さて、ここでの時間はあなたの人生の種明かし……ボードゲームでいうところの“感想戦”でしょうか? あの時あぁだった、こうだった、実はこんな手があったなんて具合にね。指し手があるのに降参ってのは後味悪いでしょう? 万に一つでも可能性があるならもう一度やり直ししてみたいでしょ? 最初で最後の『待った』なんていかがですか?」
「軽く言ってくれるな……」
健司の言葉に悪びれもせず、
「あはは、失敬しました。でもまぁどうです? 相談してみて損は無いでしょ?」
とAは上目遣いでこちらを見てきた。天使というのはこんなにも厭らしい表情をするものなのだろうか。
「さぁ、始めましょうか」
Aは居住まいを正し、健司の言葉を静かに待った。
耳の痛くなるような沈黙が続いた後、健司はポツリと呟いた。
「……どうせ知ってんだろ? そうだよ。俺は返しきれない程の借金を抱えて、家族には逃げられ、挙句癌の末期だと医者は言う……俺はもう心も体もボロボロのクズなのさ」
「そうですね~」
Aはにこやかに言った。
「……どこに、誰に、相談しても無駄だった」
「四千万の借金ですもんねぇ~」
Aはファイルの端で眉間を掻きながら言った。
「…………なぁ、こんな俺をお前は何とかできるってのかよ?」
少し怒気のはらんだ健司の言葉にAはにっこりと笑い言った。
「喜んでください。何もできません」
今日中に完結します。そんなに長くないです。