教え子よ
俺の通う墨川中学には、変わった教師が一人いる。
実際に俺はその教師の姿を見た事があるわけではないので、どんな人物なのかは分からないが。ただ噂で聞くその教師は、見た目はとても平凡で、特に見栄えがあったり、特徴があったりすることのない風貌らしい。性格も少し物静かなだけで、口煩く宿題の提出を求めたり、熱血教師なわけでもない。むしろ思春期である俺たちにとっては”ありがたい”教師であるわけらしい。
その教師は技術家庭の教師であるが、俺たちのクラスには違う技術家庭の教師が指導に当たるため、その教師の授業を受けたことがない。それにその教師は、授業が終わるとすぐに職員室へと戻り、自分の席へと座ってしまう。
どこが変わった教師なんだ?
俺はそう思うが、その教師は家庭部の顧問を務めているらしく、家庭部員の生徒から聞いた話だと、その教師――橘という男は、一切の指導を行わないらしい。
家庭科部員たちが火を扱う時は、普通の教師……普通というのも変かもしれないが、世間一般の俺たちが認知している教師ならば、注意を軽く促すはずだ。それに次は何を作るか、何が作りたいか。まったくと言っていいほど、橘は生徒たちに尋ねない、興味を示さない。部活時間に生徒たちが目の前でお喋りをしていたとしても橘は、まったく咎めないらしい。
なるほど、確かにそう聞けば変わった教師、だと言えるかもしれない。だけれども俺が実際に目で確かめ、変わっていると思ったわけでもないので、俺はその教師のことにあまり興味がなかった。噂を聞いて半年もすれば、すでに忘れてしまっていても当然かもしれない。
家庭科部員たちからは変わった教師と呼ばれる橘が俺のクラスの教壇に立っている。とは言っても橘は、黒板に必要なことを全て記し、生徒たちにプリントを配ったらすでに用済みとでも言わんばかりに教師用の机へと座り、橘は何かを静かに、書いていた。
俺の席から見えるのは、橘が万年筆を白い紙に走らせているというだけで、何を書いているのかは分からない。ただなんとなく、授業とは関係のないことなんだな、ということだけは思えた。
橘が何故に俺たちのクラスに、まるで元からいたように存在しているかというと、別に大した理由はない。ただつい昨日まで俺たちを担当していた教師が”不慮の事故のため”死んだだけで。クラスを持たない橘が臨時の担任となっただけだ。
橘は俺たちに視線を一つも向けることはなく、熱心に何かを紙へと書いていた。
二時限目が終わり、生徒たちは退屈そうに背伸びをする中、橘は授業中に書いていた白い紙を集め、透明なファイルへと閉じると席を立って教室を出て行った。俺は教科書を閉じて机の中へとしまい、席を立っていた。
そのまま足は自然と教室から出ていて、橘の後姿を目に捉えていた。
「すみません」
橘は足を止め、振り返る。橘の目が小さく細められ、俺を視界に捉える。
「何書いてたんですか? 授業中に、熱心に白い紙に」
別に心が揺すられるほどに興味があったわけではない。だが俺の口からは自然と、鼻歌を口ずさんでいるようなテンポのある言葉が出ていた。
「小説」
橘は、強弱のない声で言った。
「小説?」
予想外な答えに俺は橘の言葉をオウム返しにしていた。橘の口から小説、というのはどこか似合わないような気がする。理由も根拠もないが。
「小説だ、純愛小説」
これまた意外で、なんとも似合わない。
別に橘の容姿が、純愛小説を書く上で似合わないと俺は思ったわけではない。橘という人物を近くで眺めてみれば、なるほど、結構整った鼻筋をしている。唇は少し紫色を帯びているが、顎の形もある程度に整っているし、別に醜いわけでもなく、むしろ整っている方だとも言えなくもない。
ただ、どうしてか橘の口から愛、という単語が出てくるのが不釣り合いを感じてしまう。これにも理由も根拠もまったくないが。
「どうして?」
すると、橘の口が緩く開かれた。
「物語を紡ぎだすのに、理由なんて必要か」
この会話がきっかけで、俺と橘の奇妙な関係は幕を開けることになった。
関係、と呼ぶにはあまりに薄く、例えるなら病院食の味が薄いように、とにかくなんの味気もしない関係だった。
橘は部員が全員帰った後にもしばらく家庭科室に残っている(橘が言うには、部活中に創作していた文章に推敲を加えているらしい)から、俺はサッカーの部活が終わったら、校舎へと戻り、家庭科室を訪れる。一週間に一度の時もあれば、一か月に一度もないことだってある。気の向くままに訪れ俺は決まって窓際の一番教卓から離れた、後ろの席へと座る。椅子へと座るのではなくて机の上に座り、何をするでもなく沈んでゆく夕日の光を目で追っているだけだ。
俺と橘は、言葉を交わす時もあれば一言も交わさない時だってある。その時は決まって俺の入室と退室の際に橘が視線を上に上げるだけで、ほとんど何の意味もない、静かな音が教室を支配するだけだ。
今日は珍しく橘の方から俺へと言葉をかけた。
ほとんど光を失った街を眺めていた俺に、唐突な声で。
「迷ってるな」
「どうしてそう思うんだ?」敬語など、会って一日目にすでに消えていた。
「根拠などない。お前もそうだろう」橘の視線は一度俺を見ただけで、あとは白い紙を見つめている。
「根拠はない、か」
「そうだ。いつだって、物事には根拠などない」
万年筆独特の紙を擦るような音が俺の耳に先程から聞こえている。どうやら今日は筆ののりがいいらしい。良くない時は(橘はネタがない、と言う)不気味なほど静かで無という音が部屋を埋め尽くす。
「詩人みたいなこと言うな。アンタは」俺は思ったことをそのまま言葉に出した。
「これでも昔は、小説家志望だったからな」
「アンタが? なんだか意外だ」
俺には橘が何かに情熱を燃やしたり、目標を持ったりしている姿が想像出来にくい。
「誰だって、若い頃は何かを強く思うものだ」
万年筆の走る音が途絶えた。
橘の黒くて取り留めのない瞳が俺を見据えた。
「恋、か」
「違うさ」
断言するような橘の言葉を俺は、あっさりと、もしくはバッサリと切り捨てる。まったく的を得ていないわけではないが、少し違う。
「告白……されたんだ」
今日の夕方部活が終わり、本当は自宅へ帰ろうとしていた。これから入試に向けた塾があったからだ。いつものように持参してきたスポーツドリンクを少し飲み、顔に流れる汗をタオルで拭く。駐輪所に自転車があるので、校舎の裏側へと回った時、突然声を掛けられた。すでにほとんどの部活が部を終えて帰宅していたので、俺は少し驚き振り返った。そこには隣のクラスの、上の名字しか思い出せない女子生徒が立っていて、何故か彼女は顔を真っ赤に染めていた。確か名字は――吉田だ。二年の時、一緒のクラスで隣の席に一度だけなったことがある。名前はすでに忘れてしまった。一度だけ隣同士になった生徒の名前なんて、大抵すぐに忘れてしまう。
彼女は律儀に俺の名前をフルネームで言い(少し驚いた。まさか覚えてくれているなんて、思いもしなかったからだ)、覚悟を決めたように引き締まった顔で俺の顔を見上げた。彼女は好き、だと言った。俺のことが好き、だと少し照れたように。
女子に告白なんてされたことのない俺だったが、ああこれが告白というものか、と取り留めもなく頭の隅で思いながら、考えとく、とだけ言った。彼女はそれだけの答えで満足したのか満面の笑顔で期待しているね、とだけを言い手を振り去って行った。俺は彼女の姿が視界に入らなくなってから鞄から自転車の鍵を取り出したが、何故か家庭科室へ行ってみようと思った。塾なんてどうでもいいような気がした。
「青春だな」
「まあね。中学生だし」
他の連中の色恋の話ならたくさん耳にした。誰と誰とが付き合っているのだの、誰が誰を好きでどうしただとか。俺は色恋のことには淡泊だと自分でも思っていたから、自分からそんな会話に加わることはないが。
「で、お前はどうする。付き合うのか?」
「分からない。アイツにそんな感情抱いたことないし」
別に嫌い、というわけでもないのだが。対して会話も交わしていないし、別段アイツとの思い出があるわけでもない。正直言って、付き合うという意味がよく俺には分からない。
「どちらにせよ、好きにすればいい」
「好きに、ね……。中々難しい言葉だな」
橘は手にしている、よく馴染んだ万年筆を手放すと、橘は窓を見た。橘が何を見ているのかは俺には分からないが、橘の目は細められていた。
「好きに、というほど自由で難解な言葉はない。人間というイキモノは選択肢が広ければ広いほど、視野が狭くなり、逆に選択肢がなければ自ら作りだそうとするようなものだ。だが恋愛の自由、というものは法律でも保障されている。他人に決めてもらうのも勿論自由だが、やはり自分で決めた方がいい。恋愛にも種類はあるものだ。ただ手を繋ぐだけではないし、勿論セックスをするだけでもない。ま冬の北風のように冷えた恋愛もあれば、南国の太陽の熱のような恋愛だってある。それは例えどんな事情があったにせよ、なかったにせよ、決めるのはやはり、自分の意思だ」
淡々と語られる橘の言葉が、俺は少し気持ち良く感じた。
「意思……ね」
「自由とは、難しいものだ」
それだけ言うと橘はまた馴染んだ万年筆を手に握り、白い紙へと何かを黙々と記してゆく。俺は窓から見える街の微かな光を、何も考えずに眺めていた。
十二月の始まり、クラスは受験に熱気だっている中、俺の家は冷蔵庫の中より冷えていた。黒い喪服に身を包んだ親族たちが絶え間なく、俺の家へと訪れた。誰もが皆開口一番に御愁傷様、と言い誰もが皆、笑わなかった。
俺の家の一階には小さいながらも和室があり、そこに親族たちは集中して集まっている。親族たちに囲まれるように寝ているのは、俺の妹だ。まだ小学一年生で、ほとんどランドセルには腕を通していなかった。購入時とほとんど変わらないピカピカの赤いランドセルが妹の頭上に置かれている。その近くにはご飯や水、ロウソクなどが作法通りに置かれて飾り物のような印象を受けた。女性が首にネックレスを飾るのと同じように。
可哀そうに、誰かの声が静寂に包まれた部屋に響いた。今年で八十になる祖母だ。彼女の目元からは小さな涙が光っている。祖母の言葉がきっかけに、親族たちは次々に言葉を吐き出した。
妹の年齢、妹の病、妹の思い出や性格……。俺にも会話が振られ、俺は適当に相槌をうち返すだけだった。何か言葉を出そうとしても、何故か出てこない。俺だけ何にも妹のことを、口に出して感情を吐き出すことができなかった。
どうして神様は、こんなに素直な子を連れて行ってしまったのかね。年老いた老女が静かに言った。その言葉はまるで神を恨むような、強い語気を含ませていた。
誰もが老女の言葉に賛同し、頷き涙を流し合っている中、俺は違うことを思っていた。
橘は、今どうしているのだろうか。
この場には、まったく関係のない、意味のないことだった。
「妹が、死んだ」
夕日が俺の顔を眩しく照らし、俺は目を細めた。まだ校庭では運動部の生徒たちが練習に励んでいる。
俺たち三年は受験生だということで、夏休み前には部活を引退する決まりになっている。俺の勉強量は部活をしていた時と何にも変化はないが。
「らしいな」
「葬儀にアンタ、来てたな」
妹が死んだ二日後には葬儀場で葬儀が開かれ、親族や妹の関係者が多数出席していた。俺も勿論参列して、ずっと父さんの隣で参列者たちにずっと頭を下げていた。頭を下げた相手に確か橘の姿もあった。言葉を一言も交わさず目も合わせなかったが。
「アンタの喪服、なんか似合わなかった」
「喪服の似合う男になってたまるか」
「だな」
俺は、久しぶりに声を出して笑った。ここ最近俺の周りは奇妙な静けさに支配されていて、中々笑いだせる雰囲気ではなかったし、笑えるようなことがなかった。
「どう思った」
突然の問いにはすでに俺は慣れていた。どうせ橘は俺の答えなど、最初からあまり期待などしていない。俺は葬儀や通夜で感じ胸の中でずっと思い続け言葉に出せなかったことを、初めて言葉に出した。
「実感ないな、って思った」
「そうか」
「実感ないし、今でも妹が生きてんじゃないか、って思う」
俺と同じことを、誰かが言っていた。名前も顔もすでに思い出せないが。
「それはないな」橘は何もこもっていない声で言った。
「どうして?」
「お前の妹は火葬されたはずだ。あの温度で焼かれて死なない人間などいないだろう。お前が葬儀場まで見た妹が仮に生きていたとしても、すでにそんな可能性は消えた。お前の妹は、骨になっただろう?」
「なったな」
火葬場で一時間も経たずに妹の姿は、手に抱えられるほどの壺に入れるほど小さくなり、そして形を失った。どこが頭がい骨なのか、腕なのか係員に説明されるまで分からなかった。説明されても、実感することができない。
「これで辞書に記されている生きている、ということはまったくないわけだ。俺には実感がない、ということがよく分からん」
橘ならきっと、俺が思うに親しい人が死んだとしても淡々と受け入れているようなイメージがある。実際に見たわけではないが、そんな気がするのだ。
彼は考えなくてはならないことと、考えなくていいことを綺麗に区別しているのかもしれない。考えることは小説のことや、自分自身のこと。考えなくていいのは学校のことや他人のこと。人間として冷めている、と他人には言われるかもしれないが俺にはむしろ羨ましく感じてしまう。
しばらく俺と橘の間には沈黙が流れる。お互いに話すことなど何もなく、お互い、窓の外をじっと見つめていた。目線は同じだけれども、きっと見ているものは違う。
「先生」
もしかしたら初めて橘のことを、先生と呼んだかもしれない。橘はなんだ、と視線をそらさずに言った。
「――死って、どんな感じなんだろう」
もしかしたら、橘に伝わらなかったかもしれない。俺はそれくらい小さく意味のない言葉を発したのだから。答えてくれない、俺はそう思い机から降り教室を去ろうとした。
「俺に聞くな」
橘がいつもと変わらぬ淡泊な声で答えた。俺はゆっくりと足を止め橘の顔を見る。橘の目が俺と合った。
「俺は人の死というものを見たことがない」
「親とかは?」
「ピンピンしている。幼い頃に一度だけ、祖父の葬式に出たことがあるがほとんど忘れている。親戚の葬儀にも生憎、出席したことはない」
「いいことだろ」
「だな」
と橘は、椅子から珍しく立ち上がり軽く背伸びをした。それから橘はペンケースの中を探り、青色の太い物体を取り出した。俺には何だかよく分からない。
「だが――」目覚まし時計の針を回すようなそんな音がした。青くて太い物体に、光銀色の刃が伸びる。刃先は使ったことがないのか、綺麗に研がれたままで鋭く光っている。
「死を実感することは、誰にだってできる。種類は違うかもしれんが、とにかく一度は必ずできる。必ず起きる」
橘は光る刃を首元へと当て、そして天井へと手を高く突き上げた。橘の目が俺を見て、橘の薄紫色の唇は緩んだ。もしかしたら初めて俺に見せた笑顔かもしれない。笑顔と呼べるかは、疑問なくらいに少し緩められただけだが。
「先にゆくぞ。教え子よ」
授業で生徒たちに指示する時のような、気抜けた声で橘は言うと、突き上げていた両手を、一気に振り下げた。何とも表現もできないような奇妙な音が聞こえ、橘の手は瞬間的に赤く染まった。窓にも少し血が飛び散っている。
数秒もしない内に橘は、誰かに背中を押されたように前に倒れた。その音が一番大きかった。それから家庭科室は無音に包まれて、何の変化も何の気配もしなかった。
ただ俺と、橘――の死体があるだけで。
俺は倒れた橘へ寄ることもなく、いつもの窓際の一番後ろの机へと腰を掛けた。窓を見れば、自分の顔が映っている。引き締まらない、特徴のないような顔。そういえばどうして吉田は俺に告白したのか、今ではどうでもいいことだ。
今唯一俺の胸にある、満たされているのは橘という存在であり、橘の最初で最後の教えのことだ。
橘が実際に言葉に出して伝えたわけではないのだが。確かに俺の胸の内には、橘の声で語られる教えがある。
意味もなく、理由もなく、根拠もない。取り留めのない言葉。