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老夫人の物語

 ――あれはいつ頃のことだったかしら。わたくしが教養のためにと大学お受験に挑んでいましたから、もう大分昔の話になってしまいますわね。その頃から私、実は気になる殿方がおりましたの。その方は試験会場に着くなり、どなたとも挨拶をせずひたすら真面目に机に向かっておられましたわ。それに私が持っているものと全く同じ参考書を使用なさっていました。けれども、その方のお持ちになっていた参考書はところどころ破れていて使い古されておりました。


 (あのお方……家庭教師はいらっしゃらないのかしら……)


 今思えば大変失礼な疑問だったでしょう。でもやはりというべきでしょうか、その殿方は大学に特待生で入学されていたのです。自分だけの力で物事を成すその姿勢は勇ましく、大変魅力的でありました。しかし周囲からはあまり良く思われていないようでした。それは、汗の臭いです。どういうわけか、その方からは何か運動をした後のようなムッとした臭いがするらしく、それを聴いて私も最初は興味が薄れるところでした。


 ある日、図書室でその方を見かけましたの。ちょっとしたいたずら心が働いて、私わざとその方の手に取ろうとしている本に手を伸ばしましたわ。確か貿易関係の図書だったと思います。それがどういうわけか、コツンと指が触れあってしまったのです。殿方はとてもきれいな瞳でこちらを見ると、慌てた様子で手を引っ込めました。


 「あら、ごめんなさい」


 きれいな瞳を見るとつい素の私が出てしまいました。ちょっとこどもの様だったかしら。しばらく返事がないものなので、不安になって殿方の顔に目を向けるとみるみるうちに顔が赤くなっていくではありませんか。


 「いえこちらこそ。お怪我はありませんか」


 少し指が触れただけで怪我なんてするはずが無いでしょうに。私は可笑しくなってなるべく声を抑えて笑いました。その方はこちらを見ながら気恥ずかしそうにしていました。


 「貿易に興味がありますの?」


 「ええ。この国の文化は世界に通用します。そして西洋の優れた物を取り入れ、この国の更なる発展を望んでいるのです」


 ああ。この方には志があるのですわ。私のように“教養のため”などというつまらない理由ではなく、自分の頭で考え行動している。この方は絶対に成功する。私はそう思いました。けれども、その方に足りないものは海外での経験ですわ。貿易だけではなく商売に必要なのは信頼に応えること。そのためには相手方が何を考え何を重んじ何を求めているかを知っていなければならないのです。私は時間が許す限り殿方と海外、特に西洋についてを語り合いました。


 そんな日が続いたある日、私は母に相談しました。誠実で勉強熱心な彼を好きになってしまったと。母は激怒して私の膝をピシッとひと叩きしました。なぜかと言いますと、もうすでにお見合いの話が決められていたからです。そのことは彼には卒業式の日までずっと内緒にしていました。


 そして卒業式の日。私は気持ちだけ伝えようか、それともこのまま黙って去っていくか悩んでいましたの。そんな中、彼の姿がちらりと見えて動揺してしまった私はお迎えの車に向かって走っていってしまいました。結局、私の想いは伝わらなかったままお見合いをして婚姻しましたわ。あぁ彼は今どこで何をしていらっしゃるのでしょう。


 ――上映終了――


 「お疲れさまでした。それでは、ヘルメットをお取りください」


 目が醒めましたらヘルメットから小さな声で指示があったので従いました。椅子の端には手に握っていたはずの私のハンカチが二つに折り曲げられて丁寧にかけられていました。どなたかが拾ってくれたのでしょう。どうやら隣の方はもうお帰りになられたようですね。このハンカチは西洋と、この国のデザインをモチーフにした特注品ですの。もしかしたら、あの時の彼が関わっているかもしれない逸品ですわ。良い思い出をありがとう。自分探し映画館。今私は胸に秘めた思い出にワクワクしていますの。まるであの頃のように帰れたような気持になれましたわ。心からの感謝を込めて、私は他の方の迷惑にならないように、足元に気を付けて退館しました。

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