老夫Aの物語
――あれはもう50年ほど前のことだったか。貧乏な家に生まれた私は毎日血眼になって勉強し、大学受験に励み、特待生枠で大学へと入った。みな余裕しゃくしゃくで勤勉である。私が新聞配達をしている間も社会の役に立つ学問に力を入れているのであろうと思うと、いささか悔しくあった。大学に入れば裕福になれる。それだけの想いで入学した私は周囲の優秀な学生たちに負けじと必死で学問にいそしんでいた。
私は自分のことを孝行者と思ったことはない。むしろ貧乏な家庭に生まれたことを恨んだりもしていた。早く自立して家から出て家庭を持ち、毎日西洋の料理を食わせてやりたいと思っていた。今思うと偏見かもしれないが、私には西洋への憧れがあった。学問も医学もこの国より遥かに進んでいる。大学で学べば学ぶほどそう感じた。
何年か通っているうちに、海外貿易に興味を持つようになった。私は図書室でひたすら西洋のことについて調べることに没頭していた。私が貿易関連の本をとろうとした折、ある貴婦人の学生と手がふと重なってしまった。
「あら、ごめんなさい」
その一言は今まで聴いた他の誰よりも滑らかな声で気品があり、天然の水晶を想わせるかのような純粋さがあった。それはまさに衝撃的であった。今まで学んできたことなど吹き飛んでしまいそうなほどの風が心の中でふいた。回りくどくなってしまったが一目見て恋をしてしまったのだ。
「いえこちらこそ。お怪我はありませんか」
なるべく平然を装ってみるが、やはり動揺は隠せていなかったようで、貴婦人の学生は口元に手を当てながら静かに笑っている。一瞬だけ触れた指には香水の匂いがほのかに香っていた。西洋のものか。
「貿易に興味がありますの?」
「ええ。この国の文化は世界に通用します。そして西洋の優れた物を取り入れ、この国の更なる発展を望んでいるのです」
ついその場で大ごとを言ってしまった。しかし、彼女は私の言葉に感銘を受けたらしく西洋のことについていろいろと語ってくれた。それが楽しく何よりも愛おしかった。そして彼女が隣にいるだけで私にも彼女と同じ気品が身についているのだと錯覚もしていた。周囲からはどう思われていたであろう。そんなことはどうでもいい。とにかく時間が許す限り彼女の隣にいること。そして海外貿易について学ぶこと。それが私の、大学で存在する理由となった。
月日は流れ卒業の日。私は彼女に恋文を渡す決意をしていた。身分が違うことはわかっている。けれどもこの気持ちだけは伝えなければ一生後悔すると思ったからだ。アルバムが渡され、集合写真が撮られる。その後、私は彼女の姿を探した。一瞬だけ見えた彼女の横顔はどこか憂鬱そうであった。私と目が合うと、彼女は目線をそらし、桃色のドレスをふわりとさせてその場からタッタと去っていった。追おうとしたが、やめた。やはり身分が違ったのだ。彼女からとれば今までの会話もすべて庶民との戯れであったのだろう。
そして大学を卒業した後、私は本当に海外貿易の仕事に就いた。それなりの財を築き、しっかりものの妻も娶り、立派な家を建て、今では二人の孫もいる。何不自由ない生活。衣食住に満ち足りた生活。しかし、未だにあの時の貴婦人に渡せないでいる恋文は押入れの桐箱の中にある。今頃彼女はどうしているだろうか。
――上映終了――
「お疲れさまでした。それでは、ヘルメットをお取りください」
目が醒めると同時にヘルメットの内側から小さく声が聴こえた。言われたとおりに外す。ふと気になり右隣の席の足元を見ると、紫に淡く輝く上質なハンカチが落ちていた。私はそれをそっと椅子の端にかけて自分探し映画館からゆっくりと退館した。まだヘルメットをかけていたあの人はどんな夢を見ているのであろうか。私は少ししんみりした気持ちになりながら、家へと帰る。久しぶりに開けてみるか。桐箱。人生で初めて書いた恋文にはどんな甘酸っぱい言葉が書いてあるのであろう……




