日陰の男の物語
――今の世の中は明るすぎる。街中のディスプレイにさえ吐き気を覚える。防犯カメラだらけになっちまった。しかもどこに仕掛けられているかわからないんだぜ。そんな俺はある家に忍び込んで盗みを働いた。本当に金が無かったんだ。誰だって生きていくためにはそうするだろ。ただ、誤算があった。家主と遭遇してしまったんだ。よぼよぼの爺さんだった。俺はそいつを突き飛ばして転倒させて怪我をさせてしまった。どうなったかはわからない。
「孫が大学に行けなくなる。返してくれ……」
そう言って爺さんはその場から逃げようとする俺の足を掴んだ。非力だった。まるで怨念の籠った幽霊のような細い手を振りほどいて俺は警察から逃げ続けている。いつか捕まる。そう分かっていながらな。
もし俺に金があれば寄付でも何でもしてやっていただろう。しかし明日食う金もないのだ。許してくれ爺さん。こんなことになったのも格差のせいだ。そう、そうに違いない。義務教育は確かに無料になったが、俺の両親は俺を学校に行かせることはなかった。制服や給食費を払えなかったからだ。
世の中は金持ちに優しい。金持ちはより金持ちになるようになっている。そして貧乏な奴は俺のように日陰を生きていくしかないのさ。誰にも知られない罪を犯してひっそりと身を潜める。ただ、金が欲しかった。それがこの世の中で生きるための“最低条件”だからだ。
(孫が大学に行けなくなる。返してくれ……)
爺さんの声が脳内でこだまする。今の時代、何かしらの大学に出ていないと就職も困難になるだろう。哀れだな。必死に孫の為に貯めた金を奪われる気持ち。盗んでおいてなんだが、わかるぜ。どんな奴だったんだろうか。そいつに夢はあったのだろうか。そのあと爺さんはどうなったのだろうか……あぁ、どうしても無駄なことを考えてしまう。
俺はただ紙切れを盗んだ。電子マネーの時代であの爺さんが紙幣を持っていたとすると、おそらく時代についていけなかったアナログ人間か、俺のように血眼になって働いていた底辺労働者だったんだろう。そんな生活が嫌になって俺は盗みを始めたが。
街中の看板が目に入る。どこぞの飲食店の店員が娯楽で立てた物だろう。そこにはこう書いてあった。
【金欠の日は 私が味方 無料食堂】
カレーのツンとしたスパイスの香りがする。俺はそれに惹きつけられて店内に入っていた。中ではエプロンを付けた腰の曲がった婆さんがカレーを仕込んでいる。
「いらっしゃい。まぁまぁ、ここに座りなさいな」
婆さんがほぼ強制的に俺を黄ばんだテーブルクロスが敷かれてある席に案内する。そして、頼んでもないのに出されるカレー。具はドロドロに溶けていて何が入っているのかさっぱりだ。でも良い匂いがする。
「婆さん。俺、現金しか持ってないぜ」
「ええから食べなさいな」
ふとニュースの音が聴こえて、液晶モニターを見ると俺の容姿がくっきり映っていた。逃げようとする俺を婆さんはじっと見つめている。
「んだよ、通報しねぇのか」
「あんた、きれいな目しとうね」
「おい」
「ええから食べなさいな」
婆さんは犯罪者の俺を見て笑った。まるで孫を見るかのように。親にもそんな顔されたことない。何だこの気持ちは。俺は黙ってカレーを口にした。しゃばしゃばして水っぽかったが、人生で食べた中で一番うまかった。
「出所したらまた食べにきなさいな」
俺は自然と泣いていた。やはり心のどこかで罪悪感があったのだ。そうだな、やっぱり自首しよう。そして爺さんから奪った金を稼げるだけの職をまじめに探そう。それが底辺労働職だったとしても。
――上映終了――
「お疲れさまでした。それでは、ヘルメットをお取りください」
世の中金がすべてだと思っていた。だが、まだ世の中はこんなにも明るくあったかい。自分探し映画館に来て、自首する心の準備ができた。犯罪者という烙印は押されることになるが、自業自得だ。決して許されることではないと思うが、約束通り出所したら、働いた金で俺を改心させたしゃばしゃばの婆さんのカレーを具沢山にしてやるよ。それまで生きてろよ、婆さん。ごちそうさま。




