奇械技師
ほのかな明るさを顔に感じて、ムジカは起き上がろうとした。が、節々の痛みですぐさまベッドに舞い戻る。
なじんだ硬いベッドの感触で、ムジカは自宅に帰って来られたことを思い出した。寝室でこれだけ明るいとなると、朝と言うより昼前だろう。
今度はゆっくり身を起こせば、体から乾いた泥が落ちて顔をしかめる。
遺跡から自宅へ戻ってきて疲れ果てていたムジカは、着替える気力もなくコルセットだけ外してベッドに飛び込んだのだ。案の定、体中がごわごわとしていて気分が悪かった。
「体、洗いたい……」
体を拭くための水差しとボウルは同じ部屋にある。
使い終わったら新しい水を入れておくことを習慣にしているためすっきりすることはできた。できれば湯を沸かして風呂に入りたいが、今日はやることが山積みだ、準備している時間はなかった。
いや、連続した探掘の後は丸一日休みにすると決めていたはず。
なぜ忙しいと思ったのか。
「おはようございます、ムジカ。それは指令ですか」
アルトとテノールの中間。おおよそ感情の含まれていないその声音にぎょっとしてそちらを見る。
ベッドに飛び込む前と何ら変わりない場所に、銀髪に紫の瞳の美しい青年人形が座り込んでいた。
まだ、寝ぼけていたらしい。
「あー……」
自ら面倒ごとを背負い込んだ昨日の騒動を思いだし、ムジカは金茶の髪をかきあげて天を仰いだのだった。
ムジカたちが地上へと戻れたのは、使用人型から地図を取り出してからおよそ半日後のことだった。
使用人型が記録していた遺跡内の地図では上層までの道のりはつながっていたようだが、崩落で通行不可となっている部分も多々あり、何度も回り道を余儀なくされたからだ。
だけでなく何度も崩落に巻き込まれ、命からがらの脱出だったのである。
両手では足りないほどの崩落から逃げてきたために、あの整備室への道は完全に閉ざされてしまった。エーテル機関だけは死守していたものの、日を改めて整備室の部品や機材を持ち出そうとしていただけに惜しい。
様々な犠牲を払いつつたどり着いた出口は、古い探索穴だった。昇降機なども設置されておらず、さびた階段だけが取り付けられているそこは盗掘用の出入り口だったのだろう。それほど知らない街ではなかったことも助かった。
宵闇に薄もやが漂う盗掘街を足早に抜け、目立つラスを隠しつつ、もはや気力だけで自宅にたどり着いた頃にはすでに深夜。
「とりあえず、あたしが起きるまでそこの椅子でたい、き……」
眠気をこらえながらラスに命じてベッドに飛び込んだのを最後に、ムジカの記憶は途切れていたのだが。
この青年人形は、それを忠実に守っていたのだろう。
「体の洗浄には40℃程度のぬるま湯と清潔な布、洗浄剤が必要だと記録しています。手順も同様に記録しているため、実行可能と判断。室内の探索許可を求めます」
「台所で待ってろ!」
まじめに話しかけてくるラスを寝室から追い出し、ムジカは服を着たまま素早く体を拭いてゆく。
遺跡の浄水設備を利用した上下水道が各家庭に網羅されているが、断水や水質が悪くなるのは日常茶飯事だ。なにより湯を沸かすのが面倒なため、この都市で毎日風呂に入るのは上層に住む上流階級くらいで、下流中流階級では拭き洗いが一般的だった。
水差しからボウルに入れた水が、布を浸して体を拭くごとに黒く濁っていく。
改めて風呂に入ろうと決意しつつ身支度を調えたムジカは、汚れた水を入れたバケツと空の水差しを持って部屋を出た。
この一室は奇械街にある集合住宅の最上階だ。寝室と台所に洗面設備が整い、倉庫用に一室あるのは、なかなかのものだとムジカは思う。
遺跡を利用した建築物だったため、各戸にエーテル動力を利用した設備が整っている。だが昇降機が故障し、4階まで階段で上らなければならないぶん家賃は割安だった。
台所の隅には、ムジカの言いつけ通りたたずんでいるラスがいた。
ムジカほどではないが、彼の体もほこりと泥汚れにまみれている。いにしえの神々のようなゆったりとした服も時代錯誤であるし、素足に傷はついていないようだが、あの中を歩いてきたため泥でくすんでいた。
なにより、その美しい顔が汚れていることに猛烈な罪悪感が湧いてくる。
「お前、水に濡れても大丈夫なのか」
「問題ありません。この機体には完全に防水加工が施されています。水中での長時間行軍も可能です」
「そこまで聞いてねえよ。んじゃ、これとこれ」
トイレへ汚水を流したムジカは、自分が使った布と、新たな水をいれた水差しをラスに押しつけた。
「服脱いで自分の体を綺麗にしな。水はこれ一杯で済むようにしろよ、ただじゃねえから。終わったら声をかけろ。あたしは着れるものを持ってくる」
「了解しました、ムジカ」
返事を聞くやいなや身を翻したムジカは、倉庫として使っている一室へ行くと目的のものを探し始めた。
ものをため込まない主義ではあるが、売り時を逃した遺物などがそれなりにあり、倉庫は雑多にものが積みあがっていた。その中でも一番古い木箱を発掘すれば、記憶通り男性の衣服が入っていた。
数年前まで見慣れたそれを前に、こみ上げてくるものをぐっと飲み込む。
たいしたことではない。必要だから取り出すのだから。
ムジカが少しためらっていれば、ラスの声が響く。
「ムジカ、命令を終了しました」
「なっお……!」
無造作に振り返ったムジカは絶句した。
なぜなら、ラスはその乳白色の体をさらしていたのだから。
一気に顔に血が上り、反射的に抗議しかけたムジカだったが、その体にある無数の関節に戸惑った。
やはり青年を摸して作られたらしく、体は薄いもののそれなりの骨格を有している。
だがそこには一切人間の柔らかみはなく、何より男性の象徴となるべきものを持っていなかった。
肩と二の腕、手首に指の関節、足の付け根や膝、腹にもあるそれらは無機質でいながら、少しもその美しさを損ねることはなく。むしろ顔が人間と全く変わらないために、異質な魅力を醸し出していた。
そう、いくら人間を摸していてもラスは人形だ。慌てるようなことはない。
「どうかしましたか」
「服を着ないでうろつくのは禁止だ! これ着ろっ」
うろたえかけた自分が腹立たしく、ムジカは問い返してくるラスに発掘した衣服を投げつけたのだった。
とりあえず家にあったパンと出がらしの紅茶で腹を満たしたムジカは、着替えさせたラスをつれて外に出た。
街の中は快晴でもどこか薄暗い。
今が10月に入り冬に向かっている時期であるからと言うのもあるが、工場でエーテル動力が昼夜を問わず使われて空気が汚染されているせいだ。
レンガや漆喰でできた建物が、子供が無造作に積み上げた積み木のように折り重なって街を成していた。
高い建物と建物の間を縫うように石畳の道路が曲がりくねるように通り、真っ昼間から酒場が開き、露天売りの声が響いている。歩道には、中流から下流にかけてのくすんだドレスを着た女が歩き、子供がいっぱしの呼び売りの声をあげていた。その横を運搬用の奇械と共に、大きな荷物を運ぶ男が通りすぎる。
街路には鉄馬車が排ガスと蒸気を噴き出しながら走り、路地の暗がりには酔いつぶれているのか死んでいるのかわからない者が倒れ込んでいた。
ともあれ、慣れた道だ。
人を縫うように足早に歩くムジカへ、ラスの声が響く。
「ムジカ、ここはどこでしょうか」
「わかんないのか。奇械なのに」
「俺に残っている記録は約300年前のもので一部が破損しています。質問はムジカが明日にしろといいました」
そういえば疲れ果てた頭でしゃべるのもおっくうだったから、そんなことを言った気もする。
「遺跡都市国家バーシェ。今はそう呼ばれてる」
仕方なく、ムジカはぞんざいに答えた。
遺物の発掘と奇械にまつわる様々な事柄で、この都市は回っている。
利便性のために遺跡の上へと移住し始め、小高い山に囲まれた盆地だったために守りやすく、しかし平地が少なかったために、建築物は上へ上へと伸びていった。
山を越えたむこうの大地は、居住不可能レベルのエーテル濃度で汚染されており、人々は、無事な大地に身を寄せ合って生活している。と、ムジカはわずかに通ったロースクールで学んだ。
ラスはムジカが事前にした「むやみに顔をあげるな」という指令を忠実に守り、ひしゃげた帽子と、即席のスカーフで美貌を隠している。それでもあたりを伺うようにしているのが感じられた。
ムジカはふと、この人形にはどう映っているのだろうかと考えた。
街には遺跡を利用した浄化設備があるため上下水道は整っているはずだが、それでも片付けられないゴミや汚物が道路に転がり、風向き次第で饐えたにおいを運んでくる。
くすんだ蒸気と排ガスの汚れた空気は年中曇りのような天気だし、盆地に建物が密集しているせいで、街の中では日の出も日の入りも見えないほどだ。
それでも地下のエーテルで汚染されてないとも限らない、よどんだ空気よりは何倍もましだとムジカは思っている。だが上流階級では浄化マスクをつけないと外に出られない人間もいると聞く。
そこまで考えたところで奇械が感傷的なことを考えるわけもないと思い直し、さっさと歩くことにした。
なるべく人気の少ない道を選んでたどりついたのは、奇械街の中にある、一軒の奇械屋だった。
メインストリートからは完全に外れた裏路地の奥、ドアの上に申し訳程度に掲げられている看板がなければ、ここが店だとは誰も思わない。
が、この店の店主はムジカが知る限り最も奇械に造詣が深く、信頼できる人間だった。
ムジカはドアの前に立って呼び鈴を押して、壁についているラッパ状の集音器へと話しかけた。
「スリアン、あたしだ」
すぐさまきりきりと歯車の音がして、独りでに扉が開く。
ムジカが一歩中へ入れば、珍しく焦りを帯びた足音と共に、この店の店主が現れた。
「ムジカ! あんた帝国の探掘隊に襲われて遺跡で遭難してたんじゃないのかい!?」
長身の、美しいと言うべき女性だった。
年の功は20代後半。奇械技師らしく、ジャケットとズボンに包んでいるが、それでも豊満な体を隠しきれず、なおさら容姿の良さを強調している。
栗色の髪を無造作に結び、化粧っ気など一切ないにもかかわらず、華やかな美貌を誇る彼女の左目は黒い眼帯で隠されていた。
それがまた色気があると言い寄ってくる探掘屋たちを、彼女が殴り飛ばしていることをムジカは知っている。
そんな奇械技師特有の気むずかしさと喧嘩っ早さを兼ね備えるスリアンが、激しく取り乱しているようなのに戸惑いつつ、ムジカは言葉を返した。
「夜更けに脱出したよ。て、なんで知ってるの?」
「ついさっきファリンが知らせに来てくれたんだよ。『ムジカが探掘隊とやり合ったらしい!』てな。気にしてたから後で顔を出してやりなよ」
「あー……めんどい」
探掘街を根城にしている孤児の少年は何かとうるさく、ムジカは苦手としていた。
思いっきり顔に出してしまったのがまずかったのか、スリアンの右目がつり上がる。口よりも先に手が出る彼女の気質を重々承知していたムジカは、衝撃に備えたのだが。
その前に硬い腕が腹に回った。
「目前の不明個体を敵性存在と判断、迎撃の許可を求めます」
「なんだあん、!?」
スリアンのげんこつからムジカを守ったのは、銀髪の青年人形だった。
素早く動いたせいか、帽子とスカーフが外れその美貌があらわになった。
右腕から刃を出し完全に臨戦態勢をとるラスに、スリアンが隻眼をまん丸にしている。
ラスの存在をムジカは慌てて指示をくだした。
「こいつはあたしの知り合いだ! その物騒なもんしまえ!」
「ですが、ムジカに危害を加えようとしました」
「あたしの言うことが聞けないのか、ラス!」
断固として命じれば、ラスはゆっくりと腕からブレードをしまったが、ムジカをかばう体勢をやめようとはしなかった。
再び怒鳴ろうとしたムジカに、平静な声が響いた。
「ムジカ、そういうときは命令の前に“強制指令”とつけるんだ」
ムジカが見れば、冷静に観察するスリアンの姿があった。
しかしながら茶色の隻眼には驚愕か、大きな激情をたたえている。
ムジカが面倒ごとに巻き込まれていることを察してくれたらしい。
若い男(に見える)ものと二人でいるのであれば、からかい倒されるかもしれないと思っていただけに助かった。
考えつつムジカは言われたとおり、秀麗な顔を見上げて言葉を紡いだ。
「強制指令この腕を外せ」
「はい(イエス)、歌姫」
今までの抵抗が嘘のように、ラスはムジカを解放した。
硬質な動きで直立するラスにいらだちは収まらないものの、ムジカはスリアンに向き直った。
「ありがと、スリアン。それからごめん。その話したいのはこいつのことで」
「どうやらこいつは、違うよう、だな……」
「やっぱりわかるか、こいつが普通の奇械じゃないって」
「ああいや、まあな。あんたがこいつの所有者になっていることも」
ムジカが問い返せば、スリアンは未だに驚きが残っているのか煮え切らない返事をする。
だが、すぐにいつもの人を食ったような態度に戻ると、炯々と隻眼を光らせてムジカを射貫いた。
「吐きな。一から十まで、耳をそろえて全部だ」
真顔のスリアンの言葉に、有無を言わせる雰囲気はなく。
ムジカとラスは、店の中へと吸い込まれていったのだった。