金縛りの夜
久しぶりの投稿です。そして初めての短編投稿です。頑張って書き上げたのでどうぞよろしくおねがいします。
ある夜、酷い耳鳴りに目を覚ました。
体が痺れた様な感覚で動かない。目はどうやら自由だったらしい。
あぁ、これがよく聞く金縛りというやつか。
思えば案外冷静だった。
友達曰く、人が見えるだとか笑い声だとかオカルト的な現象らしいがなんてことない。僕はそういった類の一切を信じてはいない。
あるいは信じたくないのかもしれない。
辺りを見渡してみても何の変哲もないいつもの自分の部屋。
ふと部屋の端に何やら動く黒い影が見えた。おそらく人影なのだろうがよくわからない。だんだんと近づくにつれなんであるかはっきりとした。
流石の僕もそれには驚いた。
最後に会ってから随分経った彼女だったからだ。
♢
「あぁ、それね、ただの睡眠障害の一種だから」
頭を金槌でガーンと殴られた様な衝撃だった。
会社の健康診断で、たまたま僕の担当になった、初対面の医者風情が、一体何を言っている。
僕は金縛りが睡眠障害の一種であることはもとより知っていたことであるし、ましてやあれを本物の彼女だったなんて言いたいわけではない。
夢や幻でも一切構わない。ただ、僕が見たおそらく偽物と言って相違ない彼女を真っ向から否定するその医者には少しだけ、憤った。
本物ではないにしろようやく会えたのだから、余韻に浸るくらい許してくれてもいいのに。
「そうですか、ありがとうございました」
素っ気ない態度でそう告げてから、診察室を後にした。
良くないな、僕は。あの医者は至極真っ当だった。だとしたらおかしいのはどう考えても僕の方だ。
「ん?電話か...。はい、はい、分かりました。今から出社します」
今日は休みのはずだったのに。
それでも構わない。今夜も彼女に会えるから。
♢
幸せな日々が続いていくものだとばかり思っていた。いや、当たり前すぎてそんなの考えたことがなかったことに気づいたのは失ってから。
何をするにも手につかない。
それでも、もう心配することなんてない。
あの夜から。彼女に会った金縛りの夜から、僕は元の僕に戻れている気がする。
「この資料、良くできているよ」
デスクが隣の後輩にそう告げる。新入社員の彼女はお世辞にも仕事ができる後輩とは言い難いが、素直で明るく良い子だ。
「ありがとうございます!」
笑顔が眩しくて思わず目を逸らした。悪い気はしないが少し恥ずかしい。
「ところで先輩、最近調子はいかがですか?」
資料を持つ手がピタリと止まる。理由は分かっている。
僕が最愛の人を亡くしたことにある。
数日前の僕なら無理して取り繕うだろうが、今の僕は本音で言える。
「ああ、すこぶる調子が良い。特にここ数日は」
「そう、ですか。先輩がそうおっしゃるのなら、そうなんでしょう」
引っかかる物言い、歪んだ表情。
鈍感な私ですら、いつもと違いその笑顔がぎこちないものであることに気づいた。
まぁ、気にすることはない。今夜も彼女に会えるから。
♢
今年の春にこの会社に入社してから早数ヶ月、できの悪い私ではあるが会社の雰囲気と先輩、上司たちはみんな優しい人ばかりで何不自由ない。
そう、何不自由ない。
私は昔から優しすぎると言われることが多々あった。
例えば、やりたくもない学級委員を誰もやらないので、ならば自分が、と立候補した。やりたくもない掃除当番を自ら引き受けたこともあった。
なぜやりたくもないことを自分から引き受けてしまうのか。
私が優しいからではなくて、単にバカだから。
どこか優しいと言われる自分に酔っていたのかもしれない。始まりをもう覚えてはいない。気づいた時には私にとってその偽善は苦痛となっていた。しかし、辞めるきっかけがなかった。
私は、今度こそ私自身の感情で、意思で何かを成し遂げたいとこの会社に入った。矢先、私は過ちを犯した。
ありがちだが、コピー機を一台、お茶をひっくり返して駄目にしてしまった。
追わなくても良い責任を一緒に負ってくれた人がいた。嬉しかったのは確かだが、この人は私と同じバカな人なのだと思った。
何故そんなことをするのですか?
心無い言葉を口にしてしまった事を今は後悔していても、なかったことにはできない。
いつか貴方が同じ人を見つけたら、困っている人を見つけたら、同じようにしてあげてください。バカだと思われるかもしれません。しかし、
きっとその優しさは伝播するものですから。
そんな言葉にふと思い出した。忙しい学級委員も沢山の助けがあったから駄目な私にもやり通せたのだ。掃除当番を代わったあの子も、後日その穴埋めをしてくれた。
ありがとうございます。
先輩は私の感謝に二つの意味がある事を知らない。
私が先輩に恋心を抱くのはそれから間も無くのことだった。先輩の婚約者が事故で亡くなってしまったのも、同じ頃だった。
「そう、ですか。先輩がそうおっしゃるのなら、そうなんでしょう」
上手い言葉が出てこなかった。あの時もらったものを返したかった。
日に日に窶れていく私の大切な人。自分自身がそのことに気づいていない。
もらった優しさは必ず返します。例えこの想いが報われなかったとしても、あなたがそうしろと言ったのだから。
きっと大丈夫。私には伝播したから。
♢
「やぁ、おまたせ」
「なに、俺も今着いたばかりだ」
今日は金曜日、明日は休み。予定も特にないので友達を飲みに誘った。
「葬式以来だな。あれから何度誘っても気が乗らないからって断ってくれたくせに、何と今日はお前からのお誘いときた。会社の飲み会ばっくれてこっちにきたんだぜ?」
「ああ、すまない。それは悪い事をしてしまったな」
気にするなとそいつは笑った。つられて笑った。
「なんかあったのか?」
「いや。なに、ただの気分転換だよ。ここ数週間は調子が良くなってな。溜まってた仕事も片付けて一息入れようって話さ」
「そか」
とりあえず乾杯を済ました後、一緒にきた焼き鳥を頬張る。まともに味を感じることができるようになったのもここ数週間のことだ。
「で、もう大丈夫なんだな?」
「ああ、最近は本当に調子が良くてな」
「よく、眠れてるか?」
目が合った。言葉に詰まった。何もかも見透かされているような、そんな気がして目を逸らした。また、人から目を逸らした。
「あ、ああ!もちろんさ!あんまり...心配することないさ」
「そうか、お前がそう言うなら、そうなのか」
そう言ってそいつはビールを仰った。言いたい事を流し込むように。追及はしない。きっと僕が聞かれたくない事だろうから。
「変な宗教とかにはまってたりしないか様子見て来いってお前のお母さんが」
「僕がそう言ったオカルトチックなものを全く、これっぽっちも信じていないのはおまえもよく知っているはずだが」
「まだばあちゃんのこと根に持ってんのか?」
「そんなんじゃないって...ただ」
死んだ人間に会うことはできない。それがどれだけ大切な人であろうと、どれだけ互いに想い合っていようとも、死んでしまったらそれで終わりだ。分かたれた世界で、会いたいのに会えないなんてそんなのないだろう。
「僕は会いに来てくれると信じていた」
心霊番組をうっかり見てしまい夜に一人でトイレに行けなくなったこともあった。霊とは、恐怖の対象でしかなかった。祖母が亡くなるまでは。
おおよそ霊と呼ばれるものの多くが未練によってこの世に現れるというのならば、死後必ず祖母は僕に会いに来てくれると信じていた。仮に祖母に未練があるとしたらそれはきっと自分であるという自負があった。
結局のところ、僕の前に祖母が現れることはただの一度としてなかったわけだが、それであきらめられるほど大人でなかった。
書籍、インターネット、寺院、果ては都市伝説に至るまで、できる限りを検証して回った。どれ一つとして結果を得られることはなく、事実が重くのしかかるばかり。そのうち高校生になって受験受験とくだらないことに割く時間はなくなっていくのと同時に死者への想いなんてのはどうしても薄れていって、得てして人間なんてのは生者も死者もそういうものだと納得するほかない。
「なあ、優一... 」
「んん?どこかで見た後姿が!佐久間先輩じゃないですか!」
どこからか聞き知った声が聞こえる。振り返ってみると後輩だった。何人かと一緒にいるのを見ると僕らと同じく飲みに来たようだ。
「先に席取っといて!こんなところで会うなんて奇遇ですね先輩!ところでこの方は?」
「ああ、こいつは幼馴染の...」
「柳田礼二だ。おたくは?」
「はい!四月から佐久間先輩の後輩やらせていただいております、倉本三雨と申します!」
そういって倉本は自然に席に着く。満面の笑みを浮かべながら。
「倉本、友達待たせてるんじゃないのか?」
「少しくらいいいじゃないですか。柳田さんも構いませんよね?」
「もちろん!こいつ会社でのこと全然しゃべんないからさ」
どうも二人は気が合うらしい。会話の内容はほとんどが僕に関することばかりで少しばかりむず痒いがどうも悪い気がしない。一杯だけ飲んでそのうち友達のところへ戻っていった。
「良い子だな」
「ああ、良い子だよ」
彼女の笑顔を酒の肴に、今宵はビールがすこぶる美味かった。
♢
礼二と別れて帰路につく。真夏とはいえ夜風は涼しく酔いを覚ましてくれる。街灯は夜道を照らすが先はどうにも見えないままだ。
ここ数ヶ月、彼女が死んでからは一人になることが多かったから死生観なんてものに想いを馳せる機会が多くあった。暇さえあればそんなことばかり考えていた。
昔と変わらないままだと、見てくれだけが成長したまま中身は相変わらず子供染みた夢想家だと、いっそ笑ってくれたなら楽なのに。死んだ人間に会えたなら、大人にもなって本気でそんな事を考えるなんて思いもしなかった。
毎晩逢瀬を重ねても、それは間違いなく偽物で、それでも構わないと思った時もあった。思わなければいけなかった。
声も聞こえない!触れ合うこともできない!それのどこに満足すればいいって言うんだ!
ああ、間違いない。あの医者の言った通りではないか。僕は間違いなく病気で、異常で、狂ってんだろうな。
怠惰だったんだ。僕が気付けなかっただけなんだな。会いにきてくれないなら。
会いにいけばいいんだ。
思い至れば簡単な話だ。あとは実行に移すだけ。
悲しむだろうか?辛いだろうか?まぁ、知ったことじゃないか。
足取りが軽くなってまるで羽でも生えたかの様。なんて素晴らしい夜なのだろうか。
今度こそ彼女に会えるのだから。
♢
それからまたもや数ヶ月、夏も終わり秋の訪れを感じざるを得ない今日この頃、その日は刻一刻と近づいて来た。
あと少しで彼女に会えるんだ。
「倉本くん、この資料お願いします」
「はい!承りました!」
何も心残りが無いわけでは無い。せめて僕がいなくなった後に出来る限り迷惑をかけないように仕事のマニュアルを残したり、家の家具のほとんどを引き払ったり。仕事の引き継ぎなんてしてしまっては怪しまれてしまうからどうしようもなく、これから先僕がいなくなってもなんて挨拶回りもできない。せいぜい遺書を残す程度が関の山。
案外しがらみが多いものだな。これから死ぬというのに。
ここ数ヶ月でやり残したことはやり尽くした。実家に帰って家族の顔を見た。同窓会にも顔を出した。会いたい人に会ってきた。祖母の墓参りも済ませた。
これでもう、いいんだ。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れ様でした佐久間先輩!」
帰りにホームセンターに寄ろう。最後の準備が残っている。ロープを買って、床には汚れないようにとっておいた新聞紙を敷き詰めて、抜かりなく。
「ははは、なんだこれ。僕はやっぱりバカだなぁ。立つ鳥跡を濁さずとは言うものの、こればっかりはどうにも僕は気を利かせすぎじゃないか」
何故だか何もかもが馬鹿らしくて、人の目を気にすることもなく自宅までにやけ面を晒した。
僕は鳥なんて綺麗なものじゃないんだから、盛大に跡を濁そう。
それはどうにも拭えない、どうしようもなく馬鹿で取り返しのつかない選択をした者の最後の責任、もとい独り善がりなのだから。
♢
俺には物心ついた時から仲の良い親友がいる。
数ヶ月前にそんな親友が大切な人を失った。
相手は俺と親友の大学時代のサークルで知り合った女性。亡くなったと聞いた時は耳を疑ったものだ。身近な人間が死ぬのはそれが初めてのことだった。
他人が原因で涙を流したのは後にも先にもきっとこれだけだろう。友人をなくしたことは確かに悲しいことではあるが、何より親友を思えばこその涙だった。優一と零香が互いをいかに大切に想っていたのかも二人を除けば一番理解している自負もあるし、一番祝福していた自信がある。
葬式で見た優一はまるで別人だった。あの時の衝撃をこの先忘れる事が出来る自信がない。
それこそまさに死者そのものだと思った。
まるで重みがない。初めに思ったのはそんな事。存在が薄く、そこにいるようでいない、風が吹けば飛んで行ってしまいそう。あいつもそうして零香と一緒に死んだんだ。
そんな優一を見てられなくて何度も何度も繰り返し飲みに誘ったりしてみたけれど、気が乗らないからって振られてばかり。
そんなあいつが先日、自分から飲みに俺を誘った。それが何より嬉しくて、会社の飲みを断って親友を優先した。
俺には友達が少ない。そして優一はもっと友達が少ない。もともとは明るい性格だった優一だが祖母が亡くなって以降はっきり言っておかしくなったあいつからは誰もがそばにいることを拒んだ。大好きだった祖母が死んで失意の底にいたあいつを一人にはできなかった。
だからこそ今度こそあいつが折れてしまうのではないのかという懸念が俺を急かしたんだ。
心配するなと語るその目が俺の目と合わなかったから。
「倉本ちゃん、今日空いてる?少し話したい事あるんだけど」
打てる手は全て打っておく。
♢
今日は忘れられない日になるだろう。僕にとってではない。だって僕はこれから消えるんだから覚えている事、忘れずにいる事なんて出来やしないんだから。
「零香、君の誕生日に一緒にいられなかったことは付き合い始めてから一度もなかった。それは今年も同じだよ」
賞賛なんてされるほど輝かしい道のりを歩いて来てはいない。ただ吊るされた輪っかを見つめながら台に登るその最中、まるで表彰台に上がるかのような高揚感に包まれた。
「なんだ、もっと胸糞悪いのかと思っていたのにな」
そんなどうでもいい言葉を漏らして台を蹴り飛ばした。
♢
真っ暗な世界が目の前に広がる。
ここは?どこだ?
ぼんやりと女性の顔が見えた。追いかけて捕まえようとしても足が動かない。声も出ない。
なんで?どうして?
ここが死後の世界だと言うのならもう触れ合えないなんてこともなく、ようやく一つになれる。
死んだ意味とか生きる意味、その全部が君で出来ていた。それが僕の散々考え抜いて導き出した当たり障りない答えだった。
生きていても君に会えない、死んでも会えない。
だったらどこにも僕の居場所なんてありやしないじゃないか!
なんて惨めなんだ。なんて...。
♢
「なんて馬鹿な人なんでしょう」
そんな声に目を覚ました。いつもとは酷く異なる震えるように喉から絞り出したかすれた声。落ちた雫が僕の頬を伝った。
「僕は...君に助けられたのか...。いや倉本、これは僕にとって救済でもなんでもない」
「分かってます。私は私を救うために、独善的に先輩を助けたんです。先輩が自分を殺そうとした理由と同じように」
僕は独り善がりで生きることを放棄しようとした。ならそんな僕を救おうとする彼女の独り善がりを拒むことができない。
「僕にはもう生きる理由がないんだ。死ねば大切な人たちに逢えると思ってたんだ。だから...」
「私、こう言うと失礼かもしれないですけど...先輩の気持ちがよくわかるんです」
言葉を遮るように彼女はそう言った。理解してもらえるとか共感してほしいとかそんな感情がなかったわけではないけれど、まさか彼女からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「私がまだちっちゃかった頃、大好きだった犬が死んじゃったんです。もっとずっと小さかった頃から一緒に暮らしてて、それで私...かなりふさぎ込んでしまって。一歩間違えれば先輩と同じ選択をしていたかもしれないです」
人によって価値観が違う。一番大切なものが違う。だからこそ好きなもの、大切なもの、愛しているものに優劣はつけられないし、その想いを他人と比べることもできない。それでも、愛しているとか好きだとかそんな気持ちを理解しあうことはできるだろう。でなければきっともっとこの世界は生きにくい。
全てでなくてもいい。その一部でも構わない。理解しあえたならきっと、いなくなっても想いは心に残り続ける。この世からいなくなったとしても、決して失ったわけではない。
「だから私は生きてます。私の中で生きている大切な人にもう一度死んでほしくないから。」
「それは偽物だ、まやかしだ、幻だ。決して本物には届きようもないまがい物だ。僕は認めない、認められない。だってそれをしてしまえば結局本物なんて在っても無くてもいいってことじゃないか」
「記憶も思い出も時間が経てばきっと薄れていくし失われる日も来ます。できるならずっと傍にいてほしい、喜んでほしい、悲しまないでほしい、生きてほしい。願わくば永久の日々を共に。でも無理です、そんなことあり得ません。だから偽物だとしても自分の中にたっっっっくさん大切な人との思い出を残すんです。いつか忘れてしまうかもしれない、そんな日が少しでも遠い未来に訪れることを願って。誰かと生きることはそういうことだと思います」
誰かと生きていくことは同時にその人が失われた後に残る偶像を作り上げることである。その人を想い、長い時間を過ごすのは偶像をできるだけ本物らしくするため。
だとすれば、僕が見た彼女もまた日々積み重ねた本物の欠片だった。偽物なんて言葉は到底不釣り合いだった。
「彼女は幸せだっただろうか?」
「当然ですよ。今も変わらず、昔からずっと」
先輩はそれだけ聞くと少し笑って目を閉じた。きっと疲れたのだろう。部屋に唯一残されていた布団をかける。
「先輩、私...あなたが死んでしまっていたらきっと、今度こそ死んでました。だから...良かったです」
確かに寝入っていることを確認してからそっと唇を重ねた。
♢
その晩、最後の彼女を見た。直感で理解した。現れるのは今回で最後になることを。触れることはできなかった。言葉も交わせなかった。せめて最後くらいは謝罪を、あるいは感謝を伝えておきたかった。
痺れる体を無理に動かしそっと手を伸ばす。
どうか届いてほしい。この手だけでなく、気持ちもすべて。
そっと頬に触れた手に確かな体温。指で長い髪を梳く。
本物だ。本物なんだ。
「......愛してます。今も変わらずこれからもずっと」
これでいい。これだけでいい。ようやく何もかもを清算できた気がする。彼女の最後の欠片が消える。
ぷつりと糸の切れた人形のように眠りに落ちた。
その時の彼女は何となく泣いていたような気がした。
♢
トントンと小気味好い音に目を覚ます。
「おはようございます。朝ごはんもうすぐできますから」
わざわざ取りに帰ったのだろうか。あるはずのない食器や調理器具。コンビニの袋が野菜やその他食材で満たされていた。
「はい、できました。私、電話したいので少し出てますね」
「ありがとう」
のどが渇いていたのでお茶を一杯飲み干した後、みそ汁を一口すする。
「しょっぱい...でも、おいしい」
少し前のことを思い出していた。倉本が入社したばかりの頃、第一印象は真面目そうな子だと思った。彼女に対する印象はその後も変わらなったが、どこか一人で抱え込む、そんな人であるような気もした。
「そんな必要ないぞってわかってほしくて一緒に頭下げたんだったなぁ」
まるで昔の自分を見ているようだった。祖母が亡くなったばかりの僕があんなだった。何でもかんでも一人でやろうって決めて、できやしないくせに他人の手を借りようともしないで。僕は人に恵まれたから早くに気づくことができた。
「僕らはかなり似ているのかな」
優しさが返ってきたような気がする。彼女を通して巡り巡った優しさが。
好きだったことがなくなるわけではない。けれどもその人はもうこの世にいない。たったそれだけのことなのに。今度は僕が気付かされた、あの日のように。これは裏切りでもなければ倉本に対する負い目でもない。
ただ僕がこれからを一緒に生きて行きたいと思える人ができました。
食べ終えた食器を片して部屋を後にした。
♢
「柳田さん、ありがとうございました」
電話越しにお礼を告げる。何を隠そう今回の件、画策したのは柳田だった。
「おれは助言をしただけ。ウィッグのアイデアも倉本ちゃんのだしね」
「零香さんの写真見せていただいてありがとうございました。私ショートなので。でもウィッグ程度で本当にひやひやしました」
柳田はいい薬だと言って子供みたいにけらけら笑った。
「でも私泣いちゃいました。先輩の中でどれだけ零香さんの存在が大きいのか知ってしまって」
「でも好きなんだろ?優一のこと」
「はい、それだけは零香さんにも負ているつもりはありません」
それだけは言える、確固たる自信をもって。毛頭負けるつもりもない。彼は私を救ってくれた人だから。
「でも俺が思うに優一のほうもまんざらじゃないと思うんだよな。冷静になったあいつは昔のことは昔のことって割り切るタイプだぜ。零香のことも乗り切ってしまえば、なぁ」
「そんなものですか?あ、先輩。朝ごはんは済みましたか?」
柳田は倉本の声をそこまで聞くと安心したように電話を切った。
「さてと、そんじゃ仕事に行きますか!」
意気揚々と家を後にする。また親友と飲める、そんな日々の幸せを噛みしめながら。
一週間後、三人で飲んだ時に普通に二人が付き合っていたので柳田は少し不機嫌になった。
「ああは言ったけどもうちょいお前らなんかあるかと思ってた」
とは柳田の後日談。
きづいたのが書き終わった後だったのであえて付け加えませんでしたが主人公の名字が作中に出てきていない。よく見たら一度だけ出ていました。佐久間だったんだ...。
個人的には礼二が好きです。絶対すごいいい人。
酷評でも構いません。読んでくださった方がいたら評価よろしくお願いします。