9◆はじまりは、雨_2
「バイト、慣れた? たちっぱできつくない?」
「ハイ、大丈夫です」
やっぱ緊張する。
だって。男の人と車で二人きり、なんて初めてだから。
そもそも母子家庭だったあたしにとって、知り合いに車に乗せてもらうこと自体がとても珍しい。
小学校の頃に、友達と一緒にイチゴ狩りに連れて行ってもらったくらいかもしれない。
あの頃に比べて、大きくなったあたし。
しかも、後部座席だった子供のころと違って、助手席だ。
助手席って。
すごく、大人な感じがする。
大人の、一人前の女性の……女扱いされてしかるべき席。
あたしが座ってもいいんだろうか、そんなためらいさえあって。
それに。
あたしの制服の短くしたスカートは。
助手席のシートにちゃんと座ると、太ももがかなり丸見えになる。
学校のバッグを後ろに置いたことをあたしは後悔した。
たえず気になるスカートの裾も。
フロントガラス越しの街灯だけの、暗さも。
胸を斜めに締め付けるようなシートベルトも。
ガソリンなのか、ビニールなのか、苦い匂いがする湿った空気も。
なにもかも慣れない車の中は、とても窮屈に感じた。
雨はあいかわらずひどくて。
ワイパーは休むことなく左右に動いているのに、そのそばから雨が夜の景色をぼやかしてしまう。
そんなふうに外の景色がかすむと、あたしはますます、この車の中が息苦しくなる。
逃げられない密室に……二人きり。
「××女子高だよね」
「はい」
あたしの緊張を知ってるのか知らないのか、山上さんはハンドルをとったまま何気ない話をふってくる。
そんな風に車を運転する山上さんの横顔は、とてつもなく大人に見える。
「俺のサークルの後輩に××女子高出身の子がいる。……っていうんだけど知ってる?」
あたしは首を振った。
高1のあたしが、卒業生を知るはずがない。
「そっか。知ってるわけないよね」
車の中は、それっきり沈黙した。
信号で止まっている車内には、ワイパーの音だけがひびいて。
あたしは、あせる。
でも、どうしていいかわからないので黙っているしかない。
「アリサちゃんさ、ヒロキに狙われてるよね」
さっき。
山上さんがいってしまったあとで、雪菜さんはこんなことをいった。
「そうですかー?」
あたしは、とっさに気付いてないふりをしたけど。
「アリサちゃんにばっか優しくするじゃん」
雪菜さんのいうとおり、山上さんはあたしに優しかった。
彼は私が入店した時から、
『新しく入ったひと? えっ、高一? おとなっぽいね』
と親しげに声をかけてきて、何かと親切にしてくれた。
バイト先にはあたしのほかにも高校生や短大生の女の子が働いていたけれど、彼は最初から目に見えてあたしに親切だったと思う。
団体さんのオーダーが入ったらさりげなくヘルプしてくれたり、忙しくてバッシング(片付け)の手がまわらないときなんかは、さっと片づけてくれたり。
「まだ新人だから、危なっかしいんじゃないスか」
と理由をつけつつも、あたしも、とっくにわかっている。
『高校どこ?』
『中学は?』
『なんでバイト始めたの?』
暇なときは、どうでもいいことを何かとよく話しかけてきたし。
たぶん『狙われている』のはわかる。
でも、だからといって。
意識するだけで、どうふるまえばいいか、わからなくて。
彼に話しかけられるたびに、あたしはなんとなく緊張していた。
こないだまで中学生だったあたしから見れば、19歳の男の人はすごく大人で。
「ヒロキ、年下好みだもん。前の彼女も年下だったし」
「そーなんだ」
前の彼女、という単語に、あたしはひっかかりを感じる。
どんなコだったんだろう。
それは最近のことなのかな。
湧いてくる興味を『関係ない』と胸の奥に押し付けながら、あたしは雪菜さんが前の彼女について、もっと詳しく話すのを待った。
だけど、
「ぜってー狙われてるって」
雪菜さんはそれしか言わなかった。
あたしから聞いて、山上さんに興味があるように思われるのもイヤだったから、それきりになる。
「アイツ、見た目によらずやりちんだから気をつけりーね」
とだけ言って、雪菜さんは1番を終わって仕事に戻ってしまった。
「この車にさ」
何回目かの信号停車で。
「女の子乗せるの、アリサちゃんが初めてだよ」
ふいに、山上さんは柔らかい口調で話しはじめた。
あたしはハッと顔をあげた。
優しい目でみつめられていた。
心臓が、暴れだす。
シートを通じて、山上さんに伝わってしまうのではないかというほど、激しく。
「えー……。ウソばっか」
あせるあたしは、なぜかそんな答えをしてしまった。
「え、なんで」
外の白い街灯に、半分だけ照らし出された山上さんの顔は思ったより真剣で。
雪菜さんとの時のように、冗談で受け流してほしかった部分。
あたしはどうしていいかわからなくなってしまった。
あんなことをいってしまった理由。それは。
「やりちん」
という単語がずっと気になっていた。
それは彼にはとても似合わない単語だった。
だって。
山上さんのルックスは、『イケメン』というよりはどっちかというと『いい人』な感じだった。
スラッとして背がまずまず高いスタイルはイケてるけど、顔だちは地味だった。
笑うと目が糸になる。
そんな、キッチンのパートのおばちゃんにもかわいがられている彼が『やりちん』とは、どうみても信じられない。
そこがあたしの認識不足だったんだけど。
あたしのなかでは『やりちん』な人=イケメン=派手なルックス、という構図があったのだ。
人の良さそうな、おばちゃん受けもいいヒロキが『やりちん』とはどうしても信じられない反面。
大学生、という今まで出会ったことのない人種が、どんな暮らしをしているのかも、またあたしには想像のつかない世界だった。
どう処理していいかわからない沈黙。
信号が青に変わって、とりあえずエンジンが動き始める。
「まーた、雪菜がよけいなことを吹き込んだんだろ、まったく」
ハンドルをとりながら、山上さんはやっと明るい声を出してくれた。
「あいつ、面白半分にウソばっかり言うもんなー」
しょーもない、というような口ぶりに続けて。
「この車は」
とあらたまった口調で振り返る。
「先週納車したばっかりだから。本当に亜莉紗ちゃんが初めてだよ」
あたしは、また、なんて答えたらいいかわからなくなってしまった。