8◆はじまりは、雨_1
今回から、亜莉紗の「はじめて」についての思い出が再び語られます。
あれは、バイトにも慣れはじめた梅雨のはじめ、だったと思う。
もうとうに褪せてしまった、ヒロキに関する記憶。
「うそー。40%のくせになんで降るかな」
あがる30分前から急に降りだした雨。
ガラス張りの窓からは雨に濡れた路面がてかっていて、あたしはがっくりと肩を落とした。
どうりでお客さんが少ないわけだ。
傘はスタッフルームの置き傘を借りればいいけど。
あいにくあたしはチャリだった。
高校から直接ここにくるにはチャリが一番便利だったから。
店内に流れる音楽に負けじと響く雨音から、雨は結構強く降っているらしい。
傘差してチャリこいだら、たぶんびしょぬれになってしまうだろう。
そこまでして、窮屈な祖母の家に、わざわざ早く帰るよりも。
雨を口実にして、遅く帰ったほうがいい、とあたしは判断した。
店から歩いて5分のバス停から9時50分のバスがある。
帰りが10時をすぎるのに、もちろん祖母はいい顔をしなかったが、その時間しかバスがないのだから仕方がない。
それにバイト先のファミレスには同じくらいの年の高校生やフリーターが結構働いていて。
同じ時間であがるコや、休憩に入ったコたちとしゃべってれば、楽しいし時間はすぐに経つだろう。
「お疲れさまでーす」
「アリサちゃん、あがり?」
裏への扉の隣にあるアイスクリームのコーナーにいた雪菜さんが声をかけてきた。
パフェをつくっているらしい。
ちなみにこのレストランで一番年下のあたしは、1か月もするとみんなに「アリサちゃん」と呼ばれるようになっていた。
あたしのことを『大友さん』と苗字で呼ぶのは店長と料理長くらいだった。
「はい。あれ、雪菜さん、9時から一番じゃなかったっすか?」
一番、というのは休憩の店内用語だ。
「ああ、これ。これはあたしの『従食』」
ハスキーな声でそう答えると、雪菜さんはニッと笑った。
このファミレスは、値段の40%を払えば(給料から引かれる)何を食べてもいいことになっている。
スイーツに目がない雪菜さんは『従食』として自分が食べるチョコナッツサンデーをつくっているのだ。
お客に出すもの以上に、ぎゅうぎゅうと力をこめてディッシャーにアイスを詰め込んでいる。
お金がもったいないので、あんまり従食を利用することのないあたしだったが、雪菜さんの『従食』を見てると急激に甘いものが欲しくなってきた。
「あたしも食べて帰ろうかなあ。いいな、チョコナッツサンデー」
「じゃ、あたしがついでに作ったげるよ」
「いいんですかぁ?」
「まかしとき。スペシャルバージョンやけん」
雪菜さんは黒いアイラインで縁取った目でいたずらっぽく笑った。
しばらくして雪菜さんがスタッフルームに持ってきたチョコナッツサンデーは、一見ちょっと多めに生クリームがかかっているだけだったが、
「実は、アイスは全部16番じゃなくて18番つかってるんだ。それとここのアイス、バニラじゃなくてティラミスだし。こっちのほうが、ゼッテエうめえし」
と雪菜さんは得意げにささやいた。
ちなみに16番とか18番というのはディッシャーの大きさで、当然18番のほうが大きい。
「本当だ。すっげウマい」
「だろー」
アップにした明るい色の髪といい、濃い化粧といい、どうみても筋金入りのヤンキーな雪菜さんだが、とても親切だった。
雪菜さん以外の店の人も、キッチンのおじさんたちまでだいたい親切で、スタッフはみんな仲良しだった。
こうやって裏でパフェをぱくついていると、
「アリサちゃん、あがり?」
「そんな極甘、よく飽きないねー」
裏のスタッフルームは倉庫の隣にあるから、何かをとりにきたスタッフがよく声をかけてくる。
「また18番サンデーかぁー? 店長がいないとめちゃくちゃやるな」
ヒロキ――そのときはまだ山上さんと呼んでいたんだけど――もそんな感じで笑いながら声をかけてきた。
彼はあたしや雪菜さんとおなじホール担当だ。
どうやらきれた紙タオルを補充しにきたらしい。
「べっつにいーじゃん。コースターなしだしさ」
従食用なので、飾りのコースターや受け皿をつけてない分、アイスを増やしたと雪菜さんはめちゃくちゃな言い訳をした。
ひとくち、と雪菜さんに向かって口をあけたところを見ると、まあ、山上さんもとがめるつもりはないみたいだ。
「やだよー」
「口止め料、口止め料」
とうとう雪菜さんは「しょーがねーなー」と、さもいやそうにティラミス部分をすくって差し出した。
それをパクっとうまそうに口でキャッチした山上さんを……あたしは、何かいけないものを見たような気がして仕方がなかった。
雪菜さんは、といえば、山上さんの口の中に入ったスプーンを、まるで気にすることなく平気で自分の口に運んでいる。
ちなみに雪菜さんには、同棲している彼氏が、ちゃんといる。
つまり、彼氏でもない、単なるバイト仲間と間接キス――。
でも、そんなことを気にする自分が、逆に一番いやらしいような気もして。
いたたまれなくなったあたしに、山上さんは優しい声をかけてきた。
「あれ? アリサちゃんはあがりじゃないの?」
「……バス待ちです」
「あー、急に雨降ってきたからね。何時のバス?」
「50分です」
いちおう敬語を使うのは、山上さんが4学年上の大学2年生だからだ。
山上さんに話しかけられるとき、あたしはいつも微妙に緊張している。
だって、あたしの人生で、4歳年上の人と話す機会などなかったから――。
あたしはそんなふうに自分に言い訳していた。
でも、キッチンのおじさんたちとはそんなに緊張などしないのだけど。
「ふーん。……10時まで待てるなら送ってってあげるよ」
「何、ヒロキ、今日さっそく新車乗ってきたんだ」
ヤンキーの雪菜さんにかかれば、年上でもヒロキと呼び捨てだ。
「そだよ。なのに雨降っちゃってムカつくけど」
ムカつく、といいつつ山上さんは嬉しそうだった。
そういえば、自宅から大学に通ってる山上さんは、バイト代を新車の頭金にするために貯めてるっていってたっけ。
「バスだと××線まわりでしょ。車のほうが早いよ。ね」
山上さんはあたしの顔をのぞきこんだ。
「はあ」
「いっじゃん。送ってもらえばさ。バス代得するし」
雪菜さんもそういうので、なしくずしにあたしは送ってもらうことになってしまった。