1◆あたしは、人を殺した。_1
この小説を中学生未満の方が読む場合は、保護者の許可を得て読むようにしてください。
中高生の方へ。
この小説は援助交際や興味本位の性行為を推奨するものではありません。
『将来出会う大切な誰かのために、自分を大事にしてほしい』
そんなメッセージをこめた小説です。
気がつくと、あたしはびしょぬれで突っ立っていた。
停止した思考。
胸が痛いほど苦しい息。
ドンッ、ドンッ、と体中を揺らすような血のリズム。
ほぼ同じリズムでゴンッ、ゴンッと激しく響くような頭蓋骨。
それにあわせるように、髪から裾から、水滴がぽたぽたと床に落ちていく。
なすすべもなく、突っ立っているけれど、
眼は黄色っぽい光景を、
耳は絶え間ない水音を、
捉えている。
黄色っぽい灯りに照らされたここは、ラブホテルのバスルーム。
絶え間ない水音は、目の前のバスタブのジャグジーの音。
大量の泡が、水面を騒がせているから「それ」はよく見えない。
あたしは無意識にジャグジーのスイッチをオフにした。
泡が止まって、静かになった水面の下に、「それ」――いやさっきまで藤本、という名前の男――が沈んでいた。
と、男の視線を感じた気がした。
あたしの前がはだけていた。
ホテル備え付けの短い浴衣みたいな、帯でしめるへんてこな服。
下着も付けずにはおっていたそれの帯がほどけて、あたしは、ほとんど裸同然だった。
さっきの――必死の格闘のせい。
さっき、無我夢中で――あたしはこの男をジャグジーの泡の底に押し付けようとした。
最初からそうしようと思っていたわけではない。
ジャグジーに浸かったまま眠っているアイツを見たとたん……気がついたら体が動いていた。
お湯の中に沈められた男は目を覚まし、抵抗しようと湯の中で暴れた。
ジャグジーの泡以上に湯が波立ち、あたしはびしょぬれになった。
――力を抜いたら、最後。力を抜いたら、あたしの終わり。
『亜莉紗ちゃんが昔、何をしていたか、彼に教えちゃおうかな〜』
――絶対にそんなことさせない。
ジャグジーの中で男の上に馬乗りになり、その顔を湯の上に出すまいとあたしは渾身の力を込めた。
泡にくぐもったうめき声が聞こえて――ふっと男の体から力が抜けた。
ほんの5分前の出来事だ。
はだけていた前をあわせようとしたあたしだったが、そんな必要はないことに気づく。
眼も口もおっぴろげたまま、湯の底に沈んでいるけれど。
もう見えてないのだ。
その口からは泡ひとつ立てることはないのだ。
「バーカ」
あたしは水面の下にいる藤本につぶやいた。
声がうわずっているのがわかる。
あいかわらず、体中が震えるような動悸。
『バーカ』の『ー』の部分が情けなく震えてしまっている。
だけど、あたしは口に出さずにはいられなかった。
「あんたが悪いんだからね」
死体はもちろん返事をしない。
目を見開いたまま沈んでいるだけだ。
「仕方がなかったんだから」
そう、全部、こいつが悪いのだ。
やっとつかみかけた、あたしの幸せ。
『亜莉紗が22歳になったら、籍を入れよう』
そういってくれた涼。
あと1か月なのに。
あと1か月で幸せになれるのに。
それを壊そうとするヤツは――こうするしかなかった。
あたしは、たった今、人を殺した。