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妄想の中の”彼女”

Chapter1「妄想の中の”彼女”」


 慣れないネクタイが、やけに息苦しい。本当にそれだけが原因だろうか。

 どうして自分はこんなところにいるのだろう。不意に頭に浮かんだ問いが、自分を追い込んで、虚しくさせる。俯きながら歩いて見える景色は、春の温かさなどなく、むしろ冬が取り残されたような灰色をしている。

 ただ無心になって、予め届いた書類に記載されていた、入学式の行われるホールへと向かう。大学の敷地はそれほど広くない。迷うこともないだろう。所々案内看板も立てかけられているし、歩いていればいずれ辿り着く。

 問題は肩身の狭さだ。周囲で自分と同じくスーツを着て、ホールへ向かっている彼らにではない。期待していた人々に対して、俺は成果を出せずに裏切ってしまったのだから。そればかりが頭にこびりついて、離れない。

『悩んだって仕方ないよ、悠斗(ゆうと)。これもなにかの縁だと思うしかないって』

 いつもの妄想が、俺に語りかけてくる。

 ――そういうものなのかな。これから先のことを考えたら、全く良いイメージが出来ないし。人生の終了の始まりって感じがするんだよ。

『もうっ、過ぎたことなんだから悩んでても仕方ないって』

 彼女の言う言葉は、所詮自分が言われたい願望を暗示的に自分に言い聞かせているだけなのか、それとも本当に彼女に人格があって、俺に語りかけているのか、どちらなのかは判らない。ただ一つ間違いなく言えるのは、彼女は的確に傷のある場所を見つけて、癒そうとしてくれているということだ。だから俺が傷ついた時には、必ず彼女の姿が見えるようになり、同時に心の治癒を施されていた。

 ――そうやって、簡単に失敗を開き直っていいものなのか、判らない。

『だって過去は変えられないもん。とにかくさ、今出来ることをやってみよ。もし問題が起きたら、その時に解決したらいいんだし』

 空中を漂い、少し高い場所から見下ろしながら、彼女は付いてくる。俺の歩くペースと彼女の浮かびながら移動するペースは同じだ。

 どこかの雑誌で見たような服を着た茶髪の女の子の姿を見ることが出来るのは、この世で俺だけだ。自分の世界の中だけで存在する、妄想の中で生きている恋人――瑛那(えいな)。姿も声も性格も服装も、きっと俺の深層心理が作り出した理想の結果で出来ているのだろう。

 ――瑛那はさ、自分の願いが叶わなかったら、どう思う?

 全てが妄想によって作られた理想の彼女であり、妄想によって繋がった恋人である瑛那は、実際にその場にいるようにも感じられるし、話すことも出来る。ただやはり、彼女との会話は、ただ俺が理想の会話を繰り広げているだけなのかもしれない。

『どうだろう、あたしは普通の人とは違うから。願いだとか、望んでいるものが自分でも判らないかな』

 ――それもそうか……。

 そして妄想の中の産物であるからこそ、瑛那の存在を認め、感じられるのはこの世で俺だけしかいない。そして瑛那は決まって、俺が暗い心境になった時か、もしくは深い眠りに就く寸前に、突如として現実世界で仮想投影によって、もしくは思考の中に現れる。

『でも、誰もが自分の願いを叶えられるわけじゃないでしょ? 誰もが願いの叶う、望んだ選択の結果を得られるなら、きっとこのセカイは破綻すると思うんだよね』

 本当に、彼女の感情は偽りだろうか。時折、妄想の産物などではなく、実在する人物ではないかと思ってしまうことがある。彼女が思っていることは的確でありながらも、不意を衝いてくることがある。妄想だけの存在にしては出来過ぎじゃないかと思ってしまうのだ。それでも、俺の他には宙に漂うこの彼女を見ることは出来ない。他の新入生たちは気にせずに目的地へと進んでいる。

『だからこれも、一つの最善の結果なのかも』

 心霊現象? 違う、やはり彼女は俺の望む理想の彼女だ。彼女は妄想から生み出したものでありながら、俺の欠陥している部分を補ってくれる、半身と言ってもいい。

 ――瑛那がそう言うのなら、もう少しだけ前向きにやってみるよ。

 言葉に出さず、意思だけを瑛那に伝えると、彼女はにこりと笑って、再びいつものように姿を消した。彼女が消える瞬間が、最も彼女が幻の存在でしかないのだと自覚させる、最もたるきっかけだ。他人からすれば存在しないものなのだし、消えるもなにもないのだが……。ただ彼女はいつも決まって役目らしい役目を果たし、俺をほんの少し前向きにさせる慰めを果たすと、半透明になって消えてしまう。

 それでも、先程よりは気持ちが楽になったのは間違いない。地面に向けたままだった視線を上げて前を見ると、景色はようやく春めいた。

 この大学には望んで来たわけでない。滑り止めで受験していただけだし、第一志望の大学よりも偏差値は劣っている。自意識過剰かもしれないが、親類の誰もが俺の成功、即ち第一志望に合格することを期待していた。俺も親類からの期待に応えるために、必死になったが、結果はこれだ。

 見えているのは望んだ結果による景色ではない。ここは目指していた場所じゃない。絶望しているのは俺だけでなく、口には出さないが親類も同様だ。いや、彼らによっては失望だろうか。人生の挫折の始まりで、諦めの中から今日を歩き始めた。でも瑛那が言うように、出来るだけのことをやれるなら、今の自分を変えられるものがここにあるのなら、ただ失うだけではなくて、前を見て未知のなにかを得てみたいと望んでいる自分がいる。

 自信のない足取りだ。足を前へ踏み出すたびに、小刻みに震えて、そのまま崩れそうになる。これから起こることに怯えているのが、そんなぎこちない動作でよくわかる。短く息を深く吸い込み吐き出してから、瑛那の言葉をもう一度頭の中で再生させた。

 ホールに近付くにつれて周囲にいる人の数も増えてきた。いずれもスーツを着た学生ばかりだし、全員が新入生なのは間違いない。入り口を見ると、受付を担当している学生スタッフが忙しそうに対応をしている。学友会のメンバーだろうか、受付や周囲にいるスタッフらしい人たちは、揃って大学の名前が印字されたジャンパーを上着に着ている。

「まだ受付をしていない人はこちらへどうぞー!」

 受付の付近にいた一人のスタッフが大声で呼びかけると、一斉にぞろぞろと新入生の大群が動き出す。自分もまだ受付はしていないが、辺りには新入生が密集していて暑苦しく、身動きを取りにくい。こんな中を突き進んでいくのは面倒だし、少し時間を空けて行くべきか……。

 時間を確認すると、開会式までには若干の余裕がある。どこかで時間を潰していよう。そう思ってホールに背を向けようとした時だった。

 ありえない景色が、視界に映る。

「えっ?」

 思わず漏らしてしまった小さな声は、一瞬で雑踏の中に揉み消される。しかし、「彼女」の姿はまだ見えている。『彼女』は――瑛那はついさっき見えなくなったはずだ。それなのに人混みの中に紛れている『彼女』がいた。大勢の新入生が行き交う中で、『彼女』だけに視点が定まる。人の流動で次々と目の前の様子が変化していく中でも、本能的に捉えている。

 『彼女』はすぐに受付から離れてホールの方へと向かって行き、更に人混みの中に消えていくが、決して見逃しはしなかった。

 見間違いだろうか、気のせいだろうか、それとも自分の妄想がまた投影されたに過ぎないのだろうか。だとすればどうして受付の人間は見えていて、『彼女』の後ろには律儀に並んでいる新入生がいるのだろうか。

 違う、これはいつもの妄想でもないし、幻視でもない。『彼女』は紛れもなく、『本物』だ。

 やがて受付での手続きを終えた『彼女』の背を目で追いかけながら、人混みを無理やりかき分けて進む。厳しい視線やヤジが飛んできているが構わず進む。ここで立ち止まっていたら、きっと『幻想』は『幻想』のままで終わると思ったからだ。

「ちょっと君! 列を乱さないで! 受付は順番守って並んで!」

 スタッフが列を突っ切って進んでくる俺を制止してくるが、こっちだってみすみす機会を逃すわけにはいかない。腕を掴み、押し退けながら入り口にいるその人物のもとに近付く。一度見失えば、広い会場の中で見つけられそうにない。

 近付けば近付くほどに、自分の気が触れているんじゃないかと、そんな思いに駆られた。しかし『彼女』は確かに目の前にいる。手を伸ばせば、あと一歩踏み出せば届きそうな距離。気付けば周囲は騒然とした雰囲気に包まれており、いつの間にか意識の全てを完全に『彼女』へと向けてしまっていた。

「お願いです……すぐに、戻りますから!」

 スタッフの腕を振りほどき、こちらに注目している人たちを押し退けて、ようやく『彼女』の後ろに立った。これまでの人生でこんな奇行に走ったことなんてない。そんな勇気はもともと俺にはないからだ。これまでの短い人生の中で、俺は一度たりとも自分のために必死になることはなかった。

 でも今だけは、自分のために必死になれる理由がある。

「そこの茶髪の人! 待ってください!」

 今までこんな声を出したことがあっただろうか。気恥ずかしい。周りがこちらを凝視している。視線は嫌いだ、いつもプレッシャーばかり与えてくるから。なんて派手なナンパだろう。なにを思われているかなんて、考えただけで冷や汗が止まらないだろう。それでも、今だけは、この瞬間だけは、瑛那の言うように自分に出来ることをやりたいと、そんな浅ましさ残る衝動が全身を駆けた。

 『彼女』がようやく足を止める。茶髪の人なんてこの中にいくらでもいるけれど、それ以外にどう呼び止めればいいのか判らない。だから立ち止まって、振り向いてくれるなんて、正気あまり期待していなかった。

 だが、『彼女』は立ち止まり、幸いにもこちらを振り返る。静寂、自分の中で流動していた時間が停止する。

 片方だけに結われた髪が半円を描き、スーツ姿の『彼女』は至極冷静に、冷ややかな目線と無言を寄越した。道端で曲芸を強いられた道化師に対して冷笑を与えるような様子だ。薄紅色の艶やかな唇は紡がれ、厄介ごとに巻き込まれたことを察し、いかにも不愉快だと訴えている。

 『彼女』の――『瑛那と瓜二つの容姿をした彼女』の振る舞いは、自分の妄想の中の瑛那の仕草とは全く異なると理解するのには、あまり時間を要しなかった。鋭い視線が睨みつけてくる。彼女の姿は瑛那そのものでありながら、中身は全く別人だ。

「瑛、那…………」

 彼女は別人だ。瑛那は、あくまで俺が作り出した妄想の中で生きる恋人でしかない。妄想が現実化するなんてありえない。その時点で妄想は幻としての価値も存在も失ってしまうし、人は思い描いただけで、願望を手にすることなんて出来ない。

 それでも俺は彼女の姿を見つめて、こんな当たり前のような浅はかな言葉を発してしまっていた。

「どうして、瑛那が……」

「えい、な? 人違いじゃないですか、私はそんな名前じゃありませんし。それに、こんな大勢の前で恥ずかしくないんですか?」

 彼女が瑛那とは異なる別人だなんて判っている。それでも、今まで現実にいなかったはずのものが、突然目の前に現れるというのは、死者が生き返るに等しい驚愕を与える。それに、今の自分に他人からの非難なんてどうでもよかった。初めから捨て身で着たようなものなのだから。

「ちょっとそこの君、こっちに! あー、まだ受付していない人はこっちにね!」

 男性スタッフの一人が受付の方を指さして誘導すると、俺の肩をがっしりと掴んで、引っ張られた。取り囲んでいる人たちの騒めきや、不審がるような視線の色がより強くなっている。

「うわっ!」

 意外にも力強いため抵抗できないまま、ズルズルと引きずられるようにして、集団の中から弾き出された。その間、ただ怪訝そうにこちらを見つめている瑛那そっくりの『彼女』の顔を見つめていた。結局、名前さえも聞けないままだ。

 『彼女』は終始、落ち着いていた。俺の知っている瑛那とはまるで真逆の性質だった。

 群衆の中から摘まみ出されると、少し離れた建物の壁際に追いやられた。きっと遠巻きに見ると、脅迫している光景にしか見えないだろう。

「君さ、ナンパするにも状況って言うのは考えろよ」

「…………」

 俺はただ縮こまって、スタッフからの説教にしばらく耐えるしか出来ない。こういうのは苦手だ。喧嘩だってロクにやったことはない。負けるのが判っているからだ。しかし、ただ一言だけ反論する。

「あれは、ナンパなんかじゃないですよ……」

 男性スタッフは苛立った様子で俺の言葉など、全く興味なさそうにしていた。衝動的になって迷惑をかけたのはこちらだし、文句を言える立場ではないのは判っている。数分間程の説教を食らったあと、ようやく抜け出して受付をすることが出来た。

 入り口の付近には、既にもう名も知らぬ『彼女』はいなかった。


 あくまで滑り止めであり希望して入ったわけではないが、やはり大学の施設レベルは高校の時と比較するまでもなく、圧倒されるものがある。よくテレビやパンフレットなんかで大学の講義室がどんなものかは目にしていたし、別に目新しいものではないだろうと思っていたが、実際に目の当たりにして、これから過ごしていくと考えると、新鮮味が感じられた。オープンキャンパスも第一志望の学校にしか行かなかったのもあるだろうが。

 しかし実際に誘導されている途中で学部棟の様々な施設を発見するたびに、内心で興奮していた。エレベーターや自動ドアが教育機関でありながら設置されていることに感動するし、ましてや出席はICカード式だと知れば感動すらある。日常生活の中ではありふれたものも、新しい環境の中で取り入れられていると、新鮮味が倍増するのだ。

 さて、会場に入る前の一騒動を除けば、式自体恙(つつが)なく終わり、俺たち新入生は学部棟へと誘導されて大講義室へと連れて行かれた。様々な分厚いパンフレットを手渡され、あれこれと説明を受けて目を通しているが、さすがに同じような話が続くと退屈になってきた。聞き逃せばまずい話でもあるのだが。大体を要約すると単位を落とすなとか、必修は強制的に受講だとか、そんな感じの話ばかりが続いている。

 伸びでもしたい、そんなことを考えている時だった。

「もしかしてさ、君、さっき式の前に騒いでた人?」

 ビクリと体を震わせ、恐る恐る声をかけてきた方を見ると、眼鏡を掛けた黒髪の男が、楽しそうにこちらを見ていた。まさかアレの目撃者が隣に居たとは予想もしていなかった……。座る席は自由だったから、意図的にこの眼鏡の男が座ってきたのかもしれないが。

「ああ、いきなり声をかけて悪いね。オレは長畝(のうね)。とりあえず名前聞いてもいい?」

「……香月(かつき)

「うわあ、その目、めちゃくちゃ警戒してるわ。まあいいや、香月な。よろしくよろしく」

 まだガイダンス中だというのに、長畝という眼鏡の男は抑え目ながらも、気にせず愉快そうに話している。長畝の声はマイクで説明している担当者の声に程よく消されるくらいの声量だ。

 警戒するもなにも、いきなり見知らぬ人から話しかけられたら、きっと同じ反応をするだろう。先程のことを考えると、あまり人のことは言えた立場じゃないが。

「でさ、直球で聞くけど、あれ何だったん? やっぱりナンパ? それとも告白?」

 本当に直球の質問だ。馴れ馴れしいとか失礼だとか、そんなものではない。相手の領域に気にせず入ってくる。

「どっちでもない」

「あの茶髪のコの名前、『エイナ』って言うの? 結構美人だったけど」

 そこまで聞こえていたということは、かなり近い場所にいたのだろう。よりにもよって同じ学部の、しかも同じ学科の人に見られていたとは。

「知り合いに似ていただけで、あの人のことは全然知らない。ただの人違いだった」

「そりゃ残念だったね」

「ガイダンス、聞かなくていいのか?」

 前を向くように促してみるが、長畝は気にせずにこちらに視線を向けている。

「聞かなくたって、これ読んでれば判るっしょ。小学生じゃないんだし」

 パンフレットをひらひらと片手に持って見せる。

 長畝の言う通り、ガイダンスをしている担当者はただ資料を読み上げているだけで、別に話を聞かなくても、資料やパンフレットに目を通せば全部書いてある。それでも、念のために一つ一つ説明しているのだろう。

「んじゃさ。前列の左端から二列目、三つ後ろに座ってる人見てみ。たぶんこんな退屈な話よりも面白いものが見られるかもな」

「よく判らないけどさ……。えっと前列の左端から………」

 言われた通り長畝の言った席を探す。前列の左端から二列目――三つ後ろの席。まるでパズルの答えでも教えられているようだ。びっしりと敷き詰められたように座っている学生たちの中から、順番に目で追っていく。

「……っ!」

 言われた場所へと視線が到着すると、思わず変な声が出かけた。

「ビンゴっしょ?」

 長畝はにやりと不敵に笑ってグッドサインをして、無駄に爽やかな笑顔を浮かべている。

「よくこの大人数の中から見つけたな……。この講義室だけで百人以上はいるんだぞ……」

「偶々だって。それよりも、まさか同じ学科同士とはね、本当に知り合いじゃないん?」

「そうだとしても、きっと俺が一方的に覚えているだけかもな」

 目で追った先に座っていたのは、瑛那と瓜二つの姿をしており、ホールの入り口で対面したあの女性だった。退屈そうに肘を置いて、説明しているものとは別のパンフレットをパラパラと流し読みしている。やはり容姿こそは瑛那にそっくりだが、仕草を見ていると中身は別人だと感じさせられる。

「うーん、やっぱり可愛いって言うより、あのコは美人ってタイプだよねえ。彼氏はいるんかなー」

「さあね」

「その様子だと興味がないってわけじゃあないね」

「心を読もうとしないでくれよ……」

 顔に出てしまっていただろうか。今まで妄想の中だけにいた恋人とそっくりの人が現実にいたら、気にならないわけがない。この気持ちを共感してくれる人が世の中にいるかは知らないが。

「長畝の言う通り、興味がないってわけじゃない。そうでもなきゃ、あんなことは普段の俺には出来ないしさ。ただ、こいつの理由だけは言えない」

「ま、ただならぬ因縁ってやつがあんのかね」

「適当に想像しておいてくれて構わないよ」

 長畝は捲っていたパンフレットを閉じると、口の端をにっこりと吊り上げ、眼鏡越しに楽しいものを見つけた子供のような目を向ける。

「んじゃ香月、折角の大学生活、お互い楽しんどこうぜ。悔いのないようにな」

 子供が悪戯でも思いついた時のような顔をしている。話しかけてきた時からこちらの思考を読んでいるような行動が引っかかって、真意を測りかねこそはするが、悪意がないのだけはなんとなく察せる。信用するべきか否か、それを判断するのは難いが、共にキャンパスライフを送る上で仲間がいるに越したことはない。持ちつ持たれつということもあるだろう。

「そうだな、長畝」

 短い同意を交わして、俺には大学に入学して最初の友人が出来た。


 引っ越して一週間しか経っていない自宅へと帰ると、途端にどっと疲れが湧いてきた。窮屈に感じていたネクタイとワイシャツのボタンを外して、ベッドの上に倒れ込んで天井を向き、大きく息を吐いた。

 ようやくこの部屋にも馴染んできたが、実家のような完全な落ち着きは得られない。所詮は借り物の部屋だ。自分の物のように思えて、実のところは他人の物を間借りしているだけなのだからか、なんとなく気を遣ってしまう部分が残っている。

『さすがに初日は疲れた?』

 なぜか俺と同じようにワイシャツ姿になった瑛那が天井の近くでぷかぷかと浮いている。ただ違うのは、ワイシャツは着ているのに、それ以外は下着しか身に付けていないことだ。

 ――なんだ、そのカッコ……。

『こっちの方が喜ぶかなって思ったけど、ダメ?』

 ――いや、別に良いんけどさ。むしろありがたい。

 時折下着を見せないように、ワイシャツの端で隠そうとする仕草や、露わになっている程よい肉付いた滑らかな脚に思わず視線が行ってしまう。普段からこのように瑛那を鑑賞することは出来るのだが、触れられないのが弱点だ。

『どこ見て言ってるの?』

 ――主に下半身辺りかな。俺だって健全な男なんだから、妄想の中でくらい好き勝手するよ。

『むう……じゃあ勝手にしてよ。それよりも驚いたよね、あの人』

 ――瑛那にそっくりだったよな。名前は判らないままだけど、まさか学科まで同じとは思わなかった。でも似ているのは外見だけで、中身は全然違う感じがしたね。

『気になる?』

 ――そりゃね。

 ベッドから起き上がって、中古で買った冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、少しだけ口に含む。疲れた体にはよく冷えたミネラルウォーターが沁みた。

 冷蔵庫の中には、まだいくつかのミネラルウォーターや緑茶などが備蓄されている。逆に、それ以外のものはまだあまり入っておらず、客観的に見ると生活感があまり出ていないように見える。

『やっぱりあの人のこと可愛いと思う?』

 ――遠回しな自画自賛だな、それ。そりゃ瑛那に似ているから思わないこともないけどさ、ででも似ているだけだし。それ以上に思うことはないよ。

『それならいいけど……』

 不安げに視線を逸らすと天井からゆっくりと降りて来て、ベッドの上に寝転んだ。ただし実際のベッドには、物が乗ったような跡もなければ、乾いた布の擦れ合う音もしない。瑛那はただ「俺だけに見えていて触れられる現象」なのだから、あまり肯定したくないところだが、やはり概念だけで言えば幽霊に近いものがある。

 飲みかけのミネラルウォーターを冷蔵庫に仕舞い、ベッドの上で転がったまま、前髪を弄っている瑛那の近くに腰かける。これだけ鮮明に見えていて、表情も豊かで、本物の人間のような仕草までしているのに、見えているのは俺だけしかいない。時折、それが少しだけ寂しく感じてしまうことがある。

『またいつものこと考えてる』

 ――バレた?

『判るよ、それくらい。どうしてあたしが実在出来ないんだろうとか、考えてたんでしょ?』

 ――お見通しだよなあ。

 自分の作りだした妄想の産物なのだから、思考くらい読まれたっておかしなことはない。

『何度も言うけど、あたしはこれで満足してるよ。悠斗だけがあたしを認識さえしていてくれれば、それだけで幸せなんだもん』

 そう言って寝転んだままで俺の腕を掴んで引っ張ってくる。俺も抵抗せずに、そのままベッドに倒れると、背中からは瑛那の感覚が伝わってくる。紛れもなく瑛那は存在している。少なくとも、俺たちの世界の中では。

 彼女の手が蔓を伸ばす植物のように体へ絡み付き、そのまま体を密着させられる。体の熱量も、感触も、微かに香る匂いもある。もしもこれら全てまでもが俺の妄想だけで作りだした錯覚なら、いっそのこと自分の内包する世界の中に閉じ込められて、そこで永遠に生き続けたって構わない。

『それは、ダメだよ』

 ――どうして?

『悠斗は今度こそ自分のために幸せにならなきゃいけないから』

 ――自分のための幸せってさ、判らないんだ。だからこんな生き方しか出来ないのかもしれない。幸せなのは良いことだけど、具体的に思いつくものがないんだ。

『じゃあやっぱり、見つけないとだね』

 ――何を?

 問いばかりを投げかけてしまう。

『悠斗が望む幸せ』

 途端に体を抱きしめていた力と、背中に感じていた彼女の存在が失われた。

 いや違う、失われているのは俺の感覚そのものだ。全身の力が抜けて、瞼が重くなる。いつものパターンだ。彼女と接しているといつも途中で逃れられない眠気が襲ってくる。電気を消さないといけない、晩ご飯もまだ食べていない、それなのに、体は重く起き上がれそうにないし、もうそんな気力が残されていない。

 瑛那、お前は俺にとっての誰なのだろうか。ただの俺の願望によって出来た妄想の産物でしかないのか。それとももう一つの人格なのか、幻覚なのか……。それにしてもどうして彼女と夜に会えば、突然眠たくなってしまうのだろう。

 いつも訊こうと思っているのに、朝になると忘れてしまっている。そして夜になって君が現れて眠気を感じる頃になると、この現象について訊くのを忘れてしまう。ならば、今はまだ訊けるのではないだろうか――いや、もう口が開かない。

 なぜならもう俺は、既に眠っているから。

『おやすみ、悠斗』

 一瞬、頬の辺りで彼女の唇の感触を味わった。もしかすると、これは既に夢の内容なのかもしれない。

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