37 ボスボロー邸
オドレ三女神と呼ばれ恐れられていた三人のうち、オビリアとメイナの二人が倒された。そのうえ、なにやら最強最悪の魔法使いであったオドレイヤも弱体化して負傷したらしく、休養が必要なためか表には出てこなくなった。
この事実は隠されるどころかマフィアたち自身の口によって喧伝され、街の覇者として君臨していたブラッドヴァンに衝撃を与えた。それがまさに衝撃の大きさを伝えるものでもあるが、絶対の支配者が絶対ではなくなった驚くべき事態であるのだから無理もない。
ブラッドヴァンに立ち向かうマギルマとしても、せっかくのチャンスを逃したくはない。敵が動揺しているうちに一気に攻め落としたい。街の視界を魔術的に覆っていたブリーダルの広範囲魔法が解かれた時点で、抗争はすでに短期決戦での決着を求められていた。
ならば、なおさら果敢に攻めるだけのことだ。
そして次なる相手はブラッドヴァンの幹部、ボスボローに決まった。
異空間クローゼットと呼ばれる魔法を得意とするボスボロー。小規模な異界を制御すると言ってもいい彼は自分が暮らしている屋敷ごと異空間に避難させており、自分から外に出てくるとき以外は手の出しようがなかった。
しかし、探索魔法の有効性が強化されたこともあり、これまで異空間に閉ざされていた入口が発見された。そのため、正面切って突入できる絶好の機会を逃さず、襲撃作戦が実行されることになったのである。
ところが、発見された入口は狭い。ボスボローが侵入者の存在に気付けば、改めて異空間魔法を使い、隠れる場所を変えるかもしれないといった時間的な制限もある。そこで現状すぐさま準備できる少数精鋭のチームで乗り込むことになった。
カズハを背負ったアレスタに加えて、イリアスとナツミの二人が彼をはさむように身を寄せる。
ヘブンリィ・ローブの魔法を用いて、姿を隠して実行する敵地への潜入作戦だ。
「アタシに感謝しろよな」
と、アレスタの背の上から見下ろすようにカズハが言えば、
「してるわよ」
などと、彼女を見上げてナツミが柔らかい声で答える。
いつもの打てば響くような口喧嘩が通用しない。買い言葉がなければ、売り言葉はむなしく響く。これには調子が狂うらしく、カズハもいつもの憎まれ口をたたくことができない。
スライム女のメイナによって放り込まれた地下牢から救出されて以降、自分の感情に対して素直になることにしたナツミだったが、どうやら露骨にカズハとの心的な距離を縮めにきているらしい。アレスタなどは二人がもっと仲良くすればいいと思うものの、つっかかってばかりいたカズハとしては彼女にどんな顔をすればいいのかわからずにいるようだ。
ぶらぶらさせていた足がぶつかったのをきっかけにして、カズハがナツミに向かって舌を出す。
「気持ち悪い奴」
「……あ?」
「お、なんだ? やるか?」
「だったらまず降りなさいよ」
あっという間に険悪になった。
口をへの字にしたナツミも眉を立て、お互いにつかみかからんばかりににらみ合っている。
「まあまあ、カズハちゃんも本心で言っているわけじゃないでしょうから」
彼女をなだめようと、隣を歩くイリアスがナツミの腕を引いて下がらせる。といってもカズハから離れすぎるとヘブンリィ・ローブの魔法の範囲外に出てしまいかねないので、気持ちばかりの後退だ。
オビリアを相手に善戦してくれたイリアスなので、ナツミも彼女になだめられると子供じみた苛立ちをおさえるしかなくなる。誰もいない方向につむじ風を起こして憂さ晴らしだ。
もちろんカズハをなだめるのは、彼女を背負わされているアレスタの仕事である。
「カズハもあんまり攻撃的なことばかり言っちゃだめだよ? 本当は仲良くしたいんじゃないの?」
「アレスタの兄貴、それは違いますぜ。こいつはいっつも私にいじわるするんだから」
「だけど助けに来たときは嬉しそうにしてたじゃないか。地下牢でも一番に彼女のところへ駆け寄って安心していたし。口には出さなかったけど、心配していたんだよね?」
問われたカズハはちらりとナツミを見て、どうやらイリアスと話し込んでいるらしい彼女がこちらに顔を向けていないことを確認すると、アレスタの耳元に顔をうずめるように口を寄せた。
「まぁ、その、姉貴が無事でよかった……」
それを直接言ってあげればいいのに、とアレスタは苦笑したが、
「聞こえたわよ」
小声だろうと聞き逃さない風の魔法使いである。
「なっ! 盗み聞きすんな!」
カズハは顔を真っ赤にして足を振り回す。ナツミを狙って蹴ろうとするけれど、アレスタに背負われたままではうまく足が届かない。
「こういうのも照れ隠しだと思うと可愛いわね」
「くー! もういい! そうやって姉貴はアタシをかわいがれ!」
ぷいっと顔をそらしてカズハはおとなしくなった。口喧嘩では埒が明かないと気が付いたというよりは、まさしく照れ隠しだったので、ナツミに図星を突かれて顔をそらすしかなかったのだろう。
「あ、ここじゃないですか?」
ようやく次元の壁が裂けた小さな穴の前に来た。本来は人が通ることを想定していないものなのか、狭い通路でしかなく、一人一人順番に入るしかない。
だから実際そうやって一人ずつ足を踏み入れたのだが、
「あ、あぶないっ!」
「えっ!」
最後になったナツミが全員を押し込んで、地面の上に倒れこむようになだれ込む。
「危なかったわね……」
「いったい何が……って、入口が消えた?」
四人が内部に入ったところで、次元の裂け目が音を立てて消失した。他にも出入り口はあるかもしれないが、一時的に閉じ込められたらしい。狙って発動されたトラップではなく、彼らが通過したことで自然とゆらぎが発生して、次元の切れ目が閉ざされてしまったのだろう。
事前の情報によると、ボスボローの利用する異空間は魔法の術者である彼が作り出したものであり、術者が魔法を停止すると、その瞬間に中にいる人や物は強制的に異空間の外に投げ出されるという。
つまり彼らは閉じ込められた異空間から脱出するためにもボスボローを倒さなければならないのだ。
「さて、とにかくここからは静かに行こう。何か罠があるかもしれないし、相手に気づかれずに奇襲できれば、それが一番いい」
「ええ。……二人は仲良くね?」
心配した様子のイリアスがカズハとナツミに顔を向けると、二人は返事こそしなかったものの、おとなしく頭を下げて首肯した。さすがに敵地の中でまで賑やかに言い争いをするつもりはないらしい。分別があるのはありがたいけれども、だったらいつも仲良くしてくれればいいのにと、世話焼きなイリアスはもう何度目かの気持ちに包まれた。
ボスボローの魔法によって作られた小さな異次元空間は狭いようで広く、広いようで狭い。
そそり立つ岩壁のような異次元の壁に囲まれた空間。その大部分を占めて、目の前には威風堂々と鎮座する三階建ての瀟洒な館がある。これこそがボスボローの住んでいる館だ。
広大というには手狭に感じる庭先には鎖でつながれた数匹のポチブルの姿があるが、いびきをかきながら眠っていて、こちらには気づいていない。音を立てぬよう静かに歩く四人の功績だけでなく、これは気配も消すカズハの魔法のおかげだろう。普段は不審者どころか来客でさえ訪れないだろうから、好戦的な魔獣も油断しているのかもしれないが。
イリアスは剣の鞘に手を添えながら左右をきょろきょろしている。あくまで警戒心であって、戦いたくてうずうずしているように見えるのは気のせいだ。
「建物の中に魔獣っているのかしら」
「いくらなんでも中にはさすがにいないんじゃないかな」
もし建物の内部も魔獣だらけなら、それはもはやボスボロー邸ではなく魔獣館だ。きちんと牢屋にでも閉じ込めておいてくれれば魔獣の動物園と呼べるだろうが、そんなものを喜んで見学する趣味はない一行である。
「そうね、たぶんいないわ。ボスボローって言ったら仲間でさえ信頼しない典型的なマフィアだし、屋敷の中には使用人さえいないとか。この豪邸を一人で使っているらしいわよ」
そのナツミの説明を聞いて、アレスタの背の上で揺られながら何気なくカズハがつぶやいた。
「ふうん。寂しい奴なんだな。マフィアって何が楽しくて生きているんだか」
「そうよね。私たちにはこんなに仲間がいるのに」
あまりに堂々というものだから、カズハは思わずナツミをまじまじと見つめてしまう。
「……言ってて恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしい? まさか。誇らしいくらいよ。私はこういうものを守るために戦っているのだから。その中でもあなたは一番と言っても過言ではないくらい」
「一番はフレッシュマン……兄貴なんだろ?」
「じゃあ二人が一緒に一番よ。一番がたくさんあるって素敵ね」
「けっ、調子いいなぁ」
言いつつもバカにした様子はなく、どことなくカズハは嬉しさをにじませて苦笑する。はっきり一番と言われて、そんなに悪い気分でもないらしい。
と、不意に彼らの響かせる足音が変わった。もともと足音を立てないように忍び足を意識していた四人だったが、びちゃびちゃと水たまりを踏んだような音が響く。
照明を落とした薄暗い廊下なので、床に何かあることを見落としていた。
「ん? なにこれ? 泥水……?」
「排水がなっていないわね。異空間ってインフラが整っていないのかしら?」
鼻を衝く不快な異臭こそしないが、泥水は泥水。あまり気分の良いものではない。
しかもどこかから堰を切ったように流れ込んできているらしく、靴が汚れるのを惜しんだアレスタとイリアスが小首をかしげる。
しかしナツミとカズハは真っ先にその正体を見抜いた。
「西部マフィアのジャン・ジャルジャンだ!」
「泥水を使った魔法が来るわ、気を付けて!」
足首まで泥水に浸された廊下が舞台では、水の流れでどこにいるか判断できるため、姿を隠す魔法もあまり意味がない。イリアスとナツミはヘブンリィ・ローブの効果範囲内から飛び出して、それぞれの構えを取って敵の襲撃に備えた。
アレスタは背負っていたカズハを自分の隣に降ろして、一応は身を隠す魔法を継続してもらって隠れておく。前衛に二人、後衛に二人の布陣だ。もちろん現時点ではどちらが前衛になるのかわからないので、どこから敵が来てもいいよう前後左右に警戒は怠らない。マフィアは正面切った決闘よりも、不意打ちを狙った卑怯な戦い方を好むものも多い。
ということで今回もそうなる。
泥水が彼らの周囲で跳ね上がると、人や動物の形になって襲い掛かってきたのだ。
真っ先に反応したイリアスは二刀流と高速化魔法で、二人分どころか十人分に迫る勢いで泥人形をつぶしていく。彼女と背を預ける格好となったナツミは風の刃や大砲のように打ち出す大気の塊を使って、ある程度離れた位置にある泥人形を破壊していった。
サポートはともかく、戦闘そのものには不慣れなアレスタとカズハはそれぞれジャーロッドと小型のナイフを用いて、声を掛け合った二人がかりで、なんとか一つずつ破壊する。
「誰か怪我をしたら教えてください!」
「アレスタこそ死なないでね!」
「任せてくれ! ……って、ごめん! 足を取られた!」
意気込んだのが裏目に出たのか、注意がおろそかになって足首を泥水に固められた。
そこを起点にして、せりあがってくる泥水がアレスタを飲み込もうとしている。液体は上から下へ流れるという自然の摂理に逆らって、上へ上へと意志を持って動く巨大な蛇のようだ。
「くらえ! この! ……うわ、アタシにもまとわりついてきた!」
果敢にナイフで挑んだカズハの健闘もむなしく、アレスタと一緒に二人は泥水に飲み込まれる。
あっという間に二人の下半身が盛り上がった泥水の中に沈み込んだ。暴れても意味はなく、顔まで覆われるのも時間の問題だ。
「アレスタ!」
彼らの危機を察して、身を翻して叫んだイリアス。
邪魔な泥の魔獣たちを切り捨てて、彼女が足を向けようとしたとき、そばにいたナツミが右手を挙げてイリアスの動きを止める。
「私にやらせて」
そう言って右手を振り下ろす。強烈な風が巻き起こって、アレスタとカズハの二人を小さな竜巻が包み込む。それは制御された暴風で、中にいる二人だけを残して泥水を弾き飛ばした。
「助かった! 姉貴! やっぱあんたは最高だ!」
「これが言われたかったのよ」
嬉しそうに口元をほころばせるナツミが得意げになってイリアスに振り返る。お礼を言われたくて、カズハを自分の力で助けたかったらしい。
ついでにアレスタもちゃんと助けてくれたので、イリアスにとってもありがたいのだが、
「それを言ったら私だってアレスタに感謝されたいところね」
ほんとは自分で助けに行くつもりだったのにと、周りの誰にも聞こえない程度につぶやいた。
「してるしてる! イリアスありがとう!」
「……なんで聞こえたの?」
「小さな声だったから私が届けてあげたわ。素直になるって幸せよ」
風を操る魔法使いである。
「余計な! ことを! ありがとう!」
本当は感謝されたいなんて、まさか本人に向かって言うことになってしまった照れ隠しに、何倍にも剣を振る勢いを増して泥水退治に精を出すイリアス。前線で敵と戦う騎士としては頼もしいものの、照れ隠しにしては怖い。アレスタに背負われたまま足を振り回すしかなかったカズハの照れ隠しは確かに可愛かった。
夕日の照り返しに頬を染める勇猛果敢なイリアスの姿に触発されたのか、ナツミも多勢を相手にする疲れを見せず、最小限の無駄のない風魔法で敵を無力化していく。アレスタとカズハも二人ほどには大活躍ともいかないが、せめて足手まといにはならないようにと、精一杯の戦闘に全力を出していた。
しかしジャン・ジャルジャンの泥水魔法は市民革命団を飲み込んだ強力な魔法だ。西部マフィアのボスだけあって魔力も高い。そう簡単には切り抜けられない。
「いい運動にはなるけれど、きりがないわ! まずは本体がどこにいるか探さないとね!」
イリアスはまとわりついてくる泥水を蹴飛ばしつつ、ねばりつく泥濘となったそれのわずかな流れを見抜いた。
この泥水がどこから流れてくるのか――つまり、隠れている術者がどこにいるのかを。
「二階! あっちの階段!」
「よし! ぶっ飛ばすわ!」
せやぁっと叫ぶと、両手を突き出して、風魔法を全力で発動させたナツミ。木でさえへし折る威力の突風が、長い廊下を突き辺りまで一気に駆け抜ける。
あまりの風速に耐えられなくなった窓も手前側から果てのほうまで順繰りに割れていったが、これは別に気にしなくていい。庭のポチブルたちも驚いて飛び起きるように目を覚ましたけれど、厳重に鎖でつながれていては身動きも取れず、興奮するに任せて事情も分からず大声で吠えるばかり。やや賑やかなバックコーラス隊でしかない。
「今のうちにみんな走って!」
風によって泥水の払われた廊下を駆け抜ける四人。だが新しい泥水が次々と階段の上のほうから流れ込んでくる。それを見る限り、術者であるジャン・ジャルジャンが二階か三階にいるのは間違いない。
気がせいて一段飛ばしで駆け上がる四人だが、階段にはすでに敵が待ち受けていた。泥水で作られた顔のない人形や魔獣たちだ。しかもこれは先ほどよりも頑丈に固められた泥の塊で作られている。見た目に応じているのか、敵からの反撃も以前より威力がアップしていて、一撃でしとめるというわけにもいかないようだ。
「今度は簡単にってわけにもいかないみたいね!」
「対処が難しいってほどでもないけれど!」
右と左を分担し合ったナツミとイリアスが二人で先頭に立って、泥で作られた敵を容赦なく破壊していく。ほとんど一方的と言っていい戦果であって、たまに受ける傷はアレスタが見逃さず即座にテレシィを飛ばして治癒をする。
そんな三人に比べると、遅れて後を追うだけのカズハは一人あまり活躍できていない。
しかし、彼女はつまらない意地を張って無茶をするような真似をしなかった。
「任せるときは任せてもいいんだな……」
「あの二人はちょっと頼もしすぎるけどね」
そう言うとカズハが肩をぶつけてきた。
「アレスタの兄貴も頼もしいですぜ!」
「うん、そうあろうと俺はがんばっているところだからね!」
自分より小さな少女に信頼されたとあっては、アレスタにしても奮起せざるを得ない。もちろん彼の治癒魔法はこれまでにもたくさんの人間を救ってきた。自分の役目は治癒だからと拠点に引きこもり続けているわけでもなく、こうして実戦に出てギルドのリーダーとしても申し分のない働きぶりだ。
けれど彼は純粋な戦力としてはイリアスに頼り切りであると思っていて、もっと自分が頼られるような男にならねばならないと考えていた。
だからこんなところで足踏みをしていてはいけないのだ。
「イリアス、敵はどこっ?」
「たぶんあっちよ!」
見上げても、三階に続く階段には泥水が流れていない。つまり敵は二階にいる。
イリアスとナツミが先を争って二階の廊下に身を乗り出すと、まさしく廊下の果てに両手を広げる男の姿があった。
「ジャーン、ジャジャーン! 人が隠れて休養させてもらっていたところへ、よくぞ邪魔をしに来てくれた!」
西部マフィアのボスにして、泥水魔法の使い手ジャン・ジャルジャンである。
歓迎するような余裕を見せる口ぶりだが、あくまでも虚勢だろう。市民革命団を襲撃してから今までずっと異空間に隠れて休養していたのは事実で、魔力が回復しきっていないところへ奇襲を受けた彼は彼なりに追い込まれているらしく、冷汗代わりの泥水がジャン・ジャルジャンの顔をねっとりと覆っていた。
アレスタたちが何か反応する前に、にやりと笑った彼は広げた両手を打ち合わせて話を打ち切る。
「早速だが死んでくれ! 最初から全力でやらせてもらおーじゃないか!」
そして襲ってくるのは泥水魔法だ。天井まで迫るという高さの泥水の波――激しい濁流が、廊下を破壊しながら襲い掛かってくる。
幸いにも、アレスタたちのいる長い廊下は距離がある。敵の攻撃がこちらに到達するには、わずかながらも時間がかかる。
だからといって、たっぷり余裕があるわけでもないのが悩ましいところだ。
これまでとは違って、真正面から風をぶつけても意味がないほどには濁流の勢いが強い。なんとか一人分のスペースを切り開くことくらいならできるだろうが、泥水のすべてを追い返すことはかなわず、下手をすると四人とも飲み込まれてしまいかねない。
そこでナツミは即座に判断を下した。
「あなたたち二人は三階に避難して! そのうちにイリアスと協力して奴を倒すわ!」
「わかりました! こちらを気にせず奴を頼みます!」
イリアスもね! と言い残して、アレスタはカズハを引き連れて三階への階段を駆け上がる。
頼まれたイリアスは握りこぶしを作って答えた後で、隣に立つナツミに視線を投げかけた。視界の端には、こちらに向かって轟音を立てながら迫りつつある濁流がある。もう時間がほとんどない。普通に立ち向かっても飲み込まれるだけだと思うが、一体あれにどう挑もうというのか。
仁王立ちするナツミはイリアスに向かって指を一本立てた。
「私たち二人を風の膜で包んで、あとは濁流を正面突破するわ」
「単純明快ね。ほれぼれするわ」
「でしょ?」
二刀を構えたイリアスが先頭となって、身をかがめたナツミが彼女の背後につける。そして風の魔法を発動させると、前方には濁流を突き破る暴風の槍が渦を巻いて形となり、背後には追い風が発生し二人を強引に走らせ始めた。
間もなく、泥の壁となった濁流と衝突。しかし飲み込まれることなく、二人は荒れ狂う泥水の中を、風が切り開く細く小さな道を駆け抜けた。
風をまとった高速の矢となって濁流の中を突き進む。
濁流に混ざって流れてくる巨大な泥の塊は、それが自分の役目だろうと、気合を入れるイリアスがその高速化された反射神経と剣さばきで破壊する。
まさか濁流の中で彼女たち二人がしぶとく生き残っており、それどころかまっすぐに突き進んできているなどとは想像していないジャン・ジャルジャンは、すでに勝利を確信して高笑いに興じていた。オドレイヤにならって「なっはっは!」と胸をそらしてのどを震わせている。いや、ここは私らしく「なー、はっはー!」と伸ばして笑ったほうが様になるな、などと考える余裕さえあった。
それもすべては敵が死んだものと勝手に思い込んでいるからであり、
「笑っていられるのもそこまでよ!」
「なんとーっ!」
突如として泥の海からイリアスとナツミが二人そろって飛び掛かってきたときには、すっかり度肝を抜かれたジャン・ジャルジャン。ただちに劣勢を悟った彼は彼女らの攻撃を回避するべく、大量の泥水を自分のもとに引き寄せる。
しかしそれよりイリアスが速かった。
すれ違いざまにイリアスは二刀を上下平行に横倒しして振りぬくと、泥水に逃れようとしたジャン・ジャルジャンの足を切った。茶色く濁った泥水が血に汚れて、その場に立っていられなくなった彼はバランスを崩して倒れこむ。
続けて彼女の背後から飛び上がったナツミが風の刃を上下左右から挟むように振りかざす。
とっさに泥水を飛ばして防御しようとするも、何も出ない。
「泥水は枯れた!」
これで終わりと思われたジャン・ジャルジャン。
しかしナツミの攻撃は空を切った。
「異空間ダストシュート!」
その声とともに、ジャン・ジャルジャンの姿が掻き消えたのだ。風の刃が彼の身体を切り刻むという瞬間、何らかの魔法によって、強制的に異空間から退出させられたのである。
ナツミは風の刃を飛ばしながら叫んだ。
「ボスボロー! 覚悟しなさいな、あなたをやっつけに来たわ!」
その声に応じてボスボローが姿を現す。ぶかぶかの寝間着をまとったひげ面の男だ。
「寝首を掻きにきた不埒者どもめ! ここを貴様らの墓場にしてやる!」
まさに寝起きの彼は得意の魔法である異空間クローゼットを発動させると、その中に閉じ込めていた無数の魔獣を解き放つ。姿を現したのは、黒い翼を持ったナイトイーグルだ。ボスボローの周りを飛び回る魔獣が生きた盾となり、ナツミの風の刃は彼に届かなかった。
けれど翼で空を飛ぶ魔獣など、風を操るナツミにとって敵ではない。
「ひれ伏しなさい、雑魚ども!」
叩きつけるような下降気流を発生させ、一羽残らずナイトイーグルを地面に叩き落した。翼は折れないまでも脳震盪を起こしたのか、凶暴なる猛禽類の魔獣たちは一斉に気を失った。
「ならばこれはどうだ!」
続いて彼が異空間から取り出したのは、強烈な電気を発生させる長いムチだ。本来は魔獣相手の攻撃用に作られたもので、共和国に存在する狩猟ギルド製の高価な魔道具である。
自慢の一品を見せびらかすように彼はムチを振り回し、飛び散る電撃が容易には近づけさせない。
ただしそれは普通の人間に限っての話だ。
「さすがに電撃よりも速くは動けないけれど、あなたの動きを見切る程度なら!」
軌道の読みにくいムチそのものではなく、ムチを振るうボスボローの動きを見てイリアスが彼の攻撃をかいくぐる。くぐった先には無防備なボスボロー。今度は新しく何かを取り出す時間もない。イリアスの一撃で腕を切りつけられ、たまらずムチを取り落とした。息を合わせたように風の刃も襲ってくる。
これをぎりぎり致命傷を避けることで生き延びたボスボロー。首を狙った鋭い風の刃が、彼の無精ひげをそり落とした。とはいえ、二撃目も同じように回避できるとは限らない。
そこで彼は残るすべての魔力を解き放って魔法を発動させた。
「異空の底に突き落とされろ!」
直後、イリアスとナツミは足の支えを失って、どこへともなく落下し始める。
ボスボローは自分の立っている足場を除いて、すべての床を消し去ったのだ。それも館の床だけでなく、館の建っている地面そのものを消滅させた。侵入者に対しては強力な魔法である一方、これは異空間そのものを崩壊させかねない奥の手だ。
魔力を使い切ったボスボローも息を切らせて、崩れずに残った狭い足場に膝をつく。
「これで奴らも消えてくれた。あとは誰もいなくなった私の邸宅でゆっくりと休ませてもらおうか」
ふう、と息を漏らす。その音が不自然に長く響いた。いや、響き続けている。
風の音……そうだ、それはナツミの風魔法の音である。
「この程度で私たちを倒せると思わないことね!」
「奴の魔法は空も飛べるのか!」
ナツミは風を制御することで空を飛ぶこともできる。だが、残念ながら鳥のように自由自在というわけにもいかない。魔力も大量に消費するので、低空、低速、短時間の限られた飛行術だ。
「あなたのおかげで助かったわ」
と言うイリアスは、風魔法で空中に浮かぶナツミに背後から抱きかかえられている。その状態で剣だけはボスボローに向けており、足をぶらぶらさせながら勇ましく戦う意志だけは失っていないので、やや滑稽に映るのも否定はできない。
「あそこに私を下ろして。とどめは私が――」
「いいわ。私がやる」
ちょっと落ちそうになったイリアスを抱えなおして、ナツミがボスボローを睨みつけた。
ボスボローの周りに風の渦が発生する。
「待て、やめろ! 私はブラッドヴァンの幹部だぞ! 見逃せば便宜を図ってやることもできる!」
「いらないわ!」
そして彼女の放った風の刃がボスボローの身体を切り刻んだ。
肉体を裁断された彼が息絶えたのと同時、術者を失って、彼女たちの入った異空間が音を立てて崩壊し始める。世界が閉ざされるような一瞬の暗転。けれど空間ごと押しつぶされるような心配はなく、衝撃の後で視界が明るく開けると、イリアスとナツミは最初に通った入口のあった場所に戻っていた。
術者であるボスボローを倒すことで、無事に異空間の外へと脱出することができたのである。
「お、なんだ? 全部終わったのか?」
「どこまでも落っこちていくのかと思った……」
しゃがみ込んでいるのはアレスタと、がっちり彼にしがみついているカズハだ。三階に逃れて離れていた二人も、イリアスたちと一緒に戻ってきたらしい。
つい直前まで、ボスボローの床を消滅させた魔法によって底なしの空間へと落下し続けていたらしく、さすがに顔は恐怖で引きつっていたけれど、ようやく安堵に胸をなでおろしているようだ。
「ねえ、イリアス。二人も落ちて……というより、たぶん風を操って飛んでいたのかな?」
アレスタがイリアスを指さして尋ねた。イリアスは今もなおナツミに抱きかかえられたままなので、それを見たアレスタにも事情が察せられたのだろう。
子供みたいに後ろから抱きしめられている姿を見られて、ちょっと恥ずかしいイリアス。顔を赤らめる彼女がナツミの肩をポンポンと叩いて無事を伝えると、ようやくナツミは彼女の体を離した。彼女も彼女でイリアスを落としてはならないと、一生懸命だったのだ。
「とにかくみんな無事でよかった。それで、イリアスたちはどうだったの?」
アレスタとカズハは濁流に襲われた時点で階段を駆け上がって逃げていたので、あのあと戦いがどうなったのかを知らない。せめて彼女たちがどんな活躍をしたかくらいは知っておきたいアレスタである。
どこから説明したものか、口を濁らせたイリアスに代わってナツミが簡潔に答える。
「ジャン・ジャルジャンは惜しくも逃がしたけれど、ボスボローは私が殺したわ」
「そうですか……」
簡単に言ってくれてはいるものの、実際には大変な戦いがあったに違いない。しかし戦いを終えてきたばかりで質問攻めにするのもためらいがある。まずは休んでもらうことも大事だろう。
実を言えばイリアスはイリアスでもっと詳しく戦いの経緯を説明したいところもあったけれど、自分とナツミの自慢話になったら褒められたがっていると思われかねないと、結局口を開くタイミングを失った。あくまでも彼女は根が真面目なだけなのだ。
そんな二人を差し置いて、勝利の知らせに笑顔を見せるカズハは大喜びで手を打った。
「さっすが姉貴! やってくれると思ったぜ! これでマフィアも皆殺しだ!」
「カズハ!」
「……ん?」
呼び止められたカズハはナツミのほうへ振り返る。
ナツミは彼女のもとへ近寄って、その肩に手を乗せて優しく言い聞かせる。
「人の命をないがしろにするマフィアは死ぬべきだと私は思っているし、実際に手を下した私が言えたことじゃないけれど、人を殺して喜ぶようなことはやめなさい。あなたはこれから不幸でない世界で生きていくことだってできるのだから、皆殺しだとか、マフィアみたいな人間と同じようなセリフを口にしないで」
こんな街でこんな状況だから、ナツミとて、悪人の死を喜ぶカズハを本気で叱っているのではない。
それは彼女にとっての願いだ。
血生臭いアヴェルレスの非日常な日常を脱して、愛するカズハにはいつか平穏な世界を当たり前に享受してほしいとの、せめてもの願いだ。
「だけど姉貴はすごいぜ。私の誇りだ」
「カズハ……」
見つめ合う二人。言葉が続かないでいる。
見かねたイリアスが二人の間に立って剣を引き抜くと、高々と空にかざした。
それは異次元世界ユーゲニアに特有の夕焼けじみた明かりを反射して輝く。
「私たちの剣は自分の利益のためだけに、無差別に振りかざすものじゃない。誰かを守るため、覚悟とともに悪を見定めて討つ。そうでしょう?」
反対側に立ったアレスタが続ける。
「何が善で何が悪かは常に自分で考えて、絶対に間違わないようにしなければならない。でも、だからこそ圧倒的な悪には恐れることなく立ち向かわなければならないんだ。それが力を持ったものの責任と義務であるのなら」
もちろんそれはアレスタやイリアスにとっても難題だ。言っていて本当にそんなことができるのかと疑いたくもなる。けれど一方で、自分が励まされているのかもしれないと感じたナツミは偽悪的にもなりきれずに苦笑した。彼ら二人に任せておけば、きっとカズハも一人前にまともな大人に育ってくれるに違いないと期待を込めて笑うことができた。
だから最後に自分がやるべきこと、やり残していることを改めて見定める。
「少なくとも、オドレイヤ。あいつだけは止めなくちゃならないわ」
アヴェルレスの平和のために。
あるいは彼女らの正義を果たすために。