35 炎の魔法使い、あるいは怪物
イリアスは追われていた。
誰に? その問いは正しくない。何に? のほうが説得力がある。
それは炎の塊に、である。
オビリアの火炎魔法が彼女を全身火だるま状態の”炎の魔人”に変貌させていて、それがイリアスを執拗に追っているのだ。魔物ではなく魔人というだけあって、かろうじて人型を保ってはいる。木材で作った巨大な人形に火をつければそうなるだろう、というくらいの「かろうじて」ではあるが。
ニックにカズハ、ナツミやキルニアたちは、すでにイリアスのそばから離れている。追いかけてくるオビリアは意志を持って動く火砕流と化しているようなものなので、噴火活動真っ最中の噴火口が歩き回っているにも等しいのだから、はぐれるもなにも、彼らにとっては「こんなところにいられない!」というのが本心であろうか。
けれど、彼らは敵の姿に怖気づいて逃げ出したわけではない。なにしろここはアヴェルレスの北部、ブラッドヴァンのおひざ元なのだ。一度そこにいるとばれてしまえば、逃げている最中であろうと遠慮なく四方八方からマフィアの横やりが入ってくる。それらに応戦したり回避したりしながらオビリアから逃げている間に、当然のように彼らはばらばらにはぐれてしまったのだ。
高速化魔法で逃げるイリアスは「どうやら自分が追われているようだ……」と判明した時点で、あえて一人になれるような道筋を選んだ。街にはマフィアと無関係の市民も住んでいるのだから、犠牲者の出ないように人気のない道を選ぶのも間違いではない。
だが彼女の進路を決めているのは彼女の意志とは言えなかった。
走り続ける彼女の前には、妖精のように輝く一つの光があった。オビリアの炎とは違う光。そう、先ほど彼女をアレスタたちのもとへ導いた探索型の魔道具による光が、今度は彼女へ逃走経路を教えてくれているのだ。これはきっと事態を察しているフレッシュマンの差し金だろうと、他にすがるものもないイリアスは彼を信じて、ひたすら先を行く光についていく。
すでに敵も一人。側近であるはずのメイナの姿は見当たらない。むしろ近くにいると邪魔だと判断したのだろう。もはや今のオビリアは斬撃に対して無敵である。下手をすれば、多くの魔法に対しても。
まさかオドレイヤを弱体化するための作戦によって、逆に強化される敵が出てこようとは思ってもみなかったので、これはもう不慮の事故のようなものだ。だがしかし、こんな異界まで来ておいて偶発的な事故で死んでしまうなんて、イリアスはまったくもってごめんであった。
死ぬと言えば――。
「アレスタはっ?」
彼の姿はとっくの昔に見当たらない。あまり足が速い印象もないし、ちゃんと無事でいるといいけれど……と思って、治癒魔法の使い手なのだから、彼ほど無事でいてくれることについて信頼感のある相手もいるまいと思い直した。
どちらかといえばニックのほうがずっと危ない。カズハもだ。だけど何とかなるだろう。彼らはあれで、たくさんの修羅場をくぐってきた経験と実績があるのだから……うん、ある?
走りながらイリアスは小首をかしげる。ニックってくぐれる? 人生の悲惨なことリストって、どうせしょうもないことばっかりで埋め尽くされているんだろうし、ほんとに命がかかった修羅場って、これが生まれて初めての経験だったりして。
「――!」
もはや人語を発することのできない怪物が後方で何かを叫んだ。
「左に来るっ!」
と言って、地面を蹴ったイリアスは右に避ける。
直後というよりも同時に巨大な火の塊――火球といってもいいかもしれない――がイリアスの脇をかすって前方に飛んで行った。風を切る鋭い音と大気を焼き払う鈍い音をミックスして直進すると、それは正面に見えていた建物の壁にぶち当たって、轟音と衝撃を周囲一帯に爆発させた。
あまりの爆風に危うくイリアスも吹っ飛びそうになる。というか、身体の半分がやけどを負った。足を止めたくなるほどの激痛が走る。鈍痛ではない、刺すような鋭い痛み。左半身を無数の剣で貫かれたような痛み。
けれどそれは、
「ダイジョーブ!」
「ありがとう! テレシィちゃんと、どっかにいるアレスタ!」
アレスタの治癒魔法によって瞬時に治癒された。テレシィは彼女の胸元にしがみついていて、姿の見えない彼はいまだにイリアスのため治癒魔法をかけ続けてくれている。
ただし、あの時ほど全力ではない。
定期的に、微弱な治癒魔法を、つまり断続的に発動させてくれているのだ。
それは彼の魔力が限界に達しつつある証拠なのかもしれないし、さすがに彼の治癒魔法が効力を発する限界距離に達しつつあるのかもしれない。どちらにせよ急いで状況を打破しなければ生き残れないのが事実である。
ただ、今のオビリアには剣による物理攻撃が意味をなさない。炎そのものを刃物で何度切ったところで、結局は水でもかけねば消えてはくれないだろう。ならば剣しか武器のない彼女には厄介な相手である。
いっそこのままフレッシュマンのところまで駆けて行って、すごい魔法を使えるらしい彼に相手をさせるほうがよほど現実的な考え方だ。それまで一体どれほどの距離を走らねばならないのかという問題に目をつぶることさえできるなら。
いや、けれど、どうやら彼女の行く先を導く光は南へと、つまりマギルマの本拠地へと向かっているようにも感じられる。ならば本当にそれ(フレッシュマンによる迎撃)を狙っているのかもしれない。だとすると彼らはイリアスのことを買いかぶりすぎというべきか、いくら高速化魔法を使って人より速く走ることができると言っても、こちらを追いかけてくる相手は渦を巻き爆音を轟かせる炎となっているのだ。すでに人ではない。
山を下る猛スピードの火砕流を相手に徒競走をやったことなんか一度もないので、高速化魔法に頼って生涯で一番の全力疾走をしているイリアスとどっちが速いかなんて予測もできないけれど、はっきり言って、ちょっと追い付かれつつある。アレスタの治癒魔法がなければ、すでに路上で火葬されていた。逃げるイリアスにしても、こんなところで死にたくはない。
幸いなことに、時間とともに追ってくるオビリアのほうでも疲れや魔力の枯渇はあるのか、ほんの少しずつではあるものの、火勢という意味では最初より弱くなっている。魔力の暴走でパープルティー・ヒルが消し飛ばされたあの爆発のように、街そのものを吹き飛ばすような爆発力はすでに感じられない。
そうはいっても相手が相手だ。イリアス一人を焼死させる程度ならたやすくできるだろうし、たとえ攻撃面の意味で多少なりとも弱くなっていたとしても、荒れ狂う炎と化した彼女が相手では戦いようもないし、おそらく追い付かれた時点で彼女に勝ちはない。
低級魔法による攻撃であっても連発されれば脅威であるように、最後まで油断せず、とにかく追い付かれないよう逃げ続けるしかない。
「けれど! ちょっと! やっぱり無理かも! 私のこれって! 実は短期決戦用だから!」
イリアスのほうでも高速化魔法が切れかかっていた。実は今、とんでもない無茶をしている。
そもそもそんなに長時間使用できるものであるなら、強敵と戦うときだけに限定せず、イリアスはいつも自分に高速化魔法をかけていればいい。それができないのは当然ながら魔力が長続きしないからであって、短距離走が得意な人間に最初から最後まで全速力で長距離走をやらせてみればどうなるかを考えてもらえれば早い。
序盤はともかく、中盤ごろには失速する。スタミナがないのだ。
「え、そっち?」
心がくじけそうになっていると、行く先を導くようにイリアスの前を飛んでいた光が急に向きを変えた。それは路地の脇にある曲がりくねった階段を選び、ごうごうと音を立てる薄暗い用水路のほうに降りて行った。追いかけてくる相手が炎魔法だから、逃げるなら用水路か……なんて単純計算では安心できない。この程度の水、今のオビリアなら炎で干上がらせることもできるに違いない。
物理現象に左右された通常の炎ではなく、彼女が発生させているのは魔法による炎。常識的な考えや理屈はあまり当てはまらない。それこそフレッシュマンの魔導書で降らせた赤い雨のように、魔法には魔法で対抗しなければ。
「それにこれ! なんか逃げ道って意味では追い込まれてないかしら! 行き止まりって線がありそうなんだけど!」
実際、進めば進むほど道は暗く細くなってゴミは散乱している。
こちらの事情を何も知らないマフィアや浮浪者とすれ違うこともあるが、これはイリアスが彼らの無事を願って用水路に流れる濁流の中に投げ飛ばした。
「しばらく頭は水面下に引っ込めておいて!」
一応は忠告しておくのも忘れない。
どんよりと濁った見るからに汚い水に流されていくのはかわいそうだが、彼らも焼け死ぬよりはましだろう。
と、案内役となっていた光がいきなり空中で制止した。そこは入り組んだ用水路のトンネルとなった細い道の途中で、先はまだ続いているしゴールというわけではない。こんなところが終点ならイリアスは光が相手でも「ふざけないでよ!」くらいの文句を言っていた。
「あ、これ?」
薄暗くて遠くからはわからなかったが、じっくり目を凝らして見てみると、光の前には壁と一体化したような目立たない扉がある。前傾姿勢で走っていたイリアス自身も急制動をかけて、息つく間もなく手をかけてドアノブをガチャガチャ回すが開かない。ご丁寧にも鍵がかかっているらしい。高速化魔法を余計にかけた全力の回し蹴りでぶっ飛ばした。
扉の向こう側は幅の狭い通路で奥には下り階段もあり、どうやらさらに地下へ続いているらしい。
イリアスはその場で両手を組むと一瞬だけ目を閉じて、どうかここが袋小路の地下部屋ではなくて、希望へ続く地下通路であることを願った。
すでに埃まみれで煤まみれ、おまけにクモの巣まで髪に絡んでいる。アレスタも治癒魔法ばかりじゃなくて洗浄魔法でも身に着けてくれないかしらと愚痴りつつ、傷が治るだけでもすごいことだと自分に言い聞かせる。もちろん彼には感謝しても感謝し足りないほどの恩がある。だけど追われている今の状況ではイリアスもちょっと冷静ではいられないのだ。
ふと何倍もの光度で周囲が明るくなった。天井に設置された魔力灯が光をともしたのではなく、背後で勢いづく炎――オビリア――が蹴り破られた扉をくぐって追い付いてきたのだ。どうやって先を行くイリアスを正確に追ってきているのか、まさか炎に目でもついているのか。なんにせよ逃げるしかない。
しばらく進むと、再び目の前に一枚の扉。これは鍵がかかっているのかどうか、わからなかった。ドアノブに手をかける前にイリアスは高速状態のまま飛び蹴りして、扉をぶっ飛ばしたからだ。
「ギルドの鍵は私の蹴りにも耐えられる奴に変えておくべきね。でないとアレスタのプライバシーがなくなっちゃう」
冗談を言うくらいに余裕が出てきているのか、あるいはそれほど余裕がなくなっているのか。
とにかく案内してくれる光を追って走っていたが、なんとその光が消えた。
「えっ?」
ここが目的地なのか、行き止まりだ。
そう広くない、奥に向かって細長くなっている長方形の部屋。でも逃げ場もないし、炎対策に役立ちそうなものも見当たらない。すでに誰も使っていなさそうな古い机と椅子と、空っぽの棚が放置されているだけ。
イリアスを歓迎する手料理の代わりか、机には埃だけが積んである。よく燃えそうだ。
「あっ」
しかもタイミング悪く、ここまで続いていたアレスタの治癒魔法もついに切れた。
逃げ場のない行き止まりで最後の命綱もなくなった。
背後からは敵を燃やし尽くそうと、火炎を手足のように躍らせながら迫りくるオビリア。
こうなっては不平の一つでも吐き捨てたい気分だが、
「ゴメンネ」
と言われれば、不満を口にするわけにもいかない。妖精であるテレシィが魔法の炎に負けるのかどうかイリアスにはわからなかったけれど、ここは小さな妖精を安心させてあげられるよう、頼れるお姉さんとして毅然として立ち向かいたい。彼女は魔法の使える元騎士ではあっても、基本的には人間であるから炎にこそ勝てないが、プライドを燃やすことにかけては得意なのだ。
とにかく部屋の奥まで進んでおいて、援軍の一人くらい駆けつけてくれることを期待しつつ、火を噴き炎を背負った紅蓮の怪物オビリアの到着を待つ。
「さぁ、来なさい!」
ここまで全身全霊で逃げておいてなんだが、とうとうイリアスは腹をくくった。
もともと治癒魔法なんてものは、なくて当たり前なのだ。
笑いながら追いかけてきているであろうオビリアの姿は見えなかったが、それより先に炎の熱と光が来た。床も壁も天井も、すべて石造りだというのに魔法の炎はお構いなしに灰に変えつつ燃焼させて渡ってくる。強烈な爆風とともに、崩れそうなほど部屋を震え上がらせる。
さすがにイリアスも死を覚悟した。こんなのが相手では、まっとうな手段では勝ち目がないと今日これが何度目となる再確認を重ねる。いくら重ねたところで悲観と絶望が重くなるだけなので、やっぱりその考えは首を振って振り払う。
最後の力を振り絞って高速化魔法をかけなおし、とにかく二刀流を構えて活路を探す。いくら高速で突っ切って風になろうとも、触れれば終わりの火焔が相手では無傷でもいられない。オビリアの腕を切り落とせたときはアレスタの治癒魔法があってこその作戦だった。治癒魔法がなければ、最悪一瞬のうちに彼女の体は灰と化すだろう。
だが、一撃を食らわせるくらいなら!
相打ち覚悟で突っ切れば!
そして駆け抜けようと一歩を踏み出しかけたイリアス。
「な、後ろっ!」
完全に彼女は不意を突かれた。いきなり背後が輝いたのだ。
出口も入口も目の前に見える扉が一つきりの一方通行だと思うあまり、すべての意識を前に注ぎすぎていた。まさか反対側から炎の魔の手が上がってくるとは予想だにもしていない。
得意の回避も間に合わず、ここで万事休すか。
しかし背後へ振り向いたイリアスは、安全のために距離を取るどころか、むしろ輝きに向かって飛び込んだ。敵の姿を見つけて飛び掛かったのではない。文字通りに飛び込んだのである。
いや、くぐるといったほうが正しい。修羅場ではなく、それは輝ける魔法陣。
そう、魔術的に作られたゲートである。
「無事だったか!」
やや倒れこむようにゲートをくぐってきた彼女を出迎えたのはフレッシュマンだった。隣には腹心である老齢のブリーダルもいる。その背後には万全の状態ではない様子の用心棒スウォラも控えていた。
つまりここは……敵地ではない。
まだ頭は混乱しているが、とにかく窮地は脱せたらしい。
「ええ! なんとかね! だけど私、ちょっと焦げてないかしら!」
冗談半分のつもりだったのに、実際ちらちらと火の粉が散っていた。イリアスはびっくりして肩や二の腕を左右の手で払って、火の粉が燃え広がるのを打ち消す。ついでに顔を上げてみれば、なんと今くぐってきたばかりのゲートから、炎がいくつもの腕を伸ばすように飛び出してきつつあった。
想定を超える威力を発揮するオビリアの魔法が、ゲートの向こう側から押し出されようとしているのだ。
「破壊します」
つぶやいたブリーダルは返事も待たずに有言実行しており、あらかじめ爆弾でも仕込まれていたのか、輝き続ける魔術的なゲートが、それの描かれたブロック塀ごと破壊された。
これで敵の追撃は防げたと確信したフレッシュマンは、まだ火の粉と格闘しているイリアスの代わりに、ほっと一息をつく。
「本来は敵地へと隠れて攻め入るために用意しておいた秘密のルートだったんだけれどね。こうやって逃亡ルートにも転用できたわけだ」
それを聞いてイリアスも遅ればせながら胸をなでおろす。
「それは本当にありがとう。おかげで助かったわ。だけど私のために大切なルートの一つをつぶしてもよかったのかしら?」
「いや、君を助けるだけで終わりではないよ」
「え……?」
秘密のルートのおかげで、なんとか無事に切り抜けられたイリアス。しかし、このままオビリアを放置しておく限り、同じような窮地は誰にでも何度でも手当たり次第に際限なく訪れることとなる。
しとめられるのであれば、この機会を逃すべきではない。
彼らも同じように考えていたのだろう。
「やれ」
との、短く命じられた声とともに、遠くで爆音が響いた。もともと街の向こう側はオビリアの炎魔法のおかげで煙だらけだが、それらを切り開くように空に向かって黒い煙も立ち上がる。彼の合図で何かが行われたことがわかるが、事情を聞かされていないイリアスには、「きっとあそこが今まで私がいた地下室のあるところね」という推測を立てる程度しかできない。
事情を知っているらしいマギルマの参謀ブリーダルが不敵にほほ笑む。
「爆破して開いた穴から、用水路の水をあの地下室に向かって大量に流し込むんですよ。そういう構造になっているのでね」
「だけど、彼女が今さら水ごときで止められるとは……」
「我々も思っていませんよ。ただ、これで少なくない時間稼ぎと、流れ込んでくる水に対処するしかない彼女を魔力的に疲弊させることは可能です」
言い終えるかどうかという時、再び爆音。
「崩れましたな。さすがの彼女も水に続いて土砂が降りかかってくるのでは、脱出するにも骨が折れるでしょう。骨が残っているかはわかりませんがね」
ぼんやりとイリアスは思い出していた。火災現場における消火活動には水をかける放水が一般的だが、酸素の供給を遮断するという意味では、大量の土砂をかぶせるのが効果的だという雑学的な話を。
ただし、魔法の力で燃える炎に理屈は意味をなさない。なにしろ燃料は酸素でなく魔力。彼女が本気を出せば、たとえ窒息状態であっても、降りかかる大量の土砂さえ溶かして地上に生還するだろう。
骨が残っているかはわからない……それこそ、火葬も土葬も通用しない炎の化け物であったなら。
それをわかっているのか、フレッシュマンが魔導書を開いた。
「さて、私の出番だ」
パラパラと残り少ないページをめくって、お目当ての魔法を見つけると高らかに呪文を唱える。
「ドドルディオ・フィアゲン・ガッテオン!」
呪文に応じて魔導書から光が放たれたと同時、遠く煙が上がっている地点から、一瞬だけではあったものの強烈な光が漏れた。今度は爆音などはしないけれど、あそこで彼の魔法が発動したのだろう。
上手くいっているのかどうか、ここからではよくわからない。
剣をしまいつつイリアスは尋ねる。
「何をしたの?」
「大地を踏み固めた。酸素どころか魔力も通さないくらいに固く蓋をした。魔導書の説明によると地ならしのための土木用魔法だったけれど、こんな使い道があったとはね」
「土木用……」
イリアスはぽかんとした目で彼の持つ魔導書へ視線を注いだ。勝手に戦闘用の魔法ばかりを集めた魔導書だとばかり思っていたけれど、まぁ、百科事典的にあらゆる魔法を集めた魔導書だったのかもしれない。それはマフィアとの戦いで有利に働くのかどうか微妙なところではあったが、ここは前向きに考えるべきだ。
ほら、マフィアとの戦闘でぼこぼこになった道路を修繕するのだって大事な仕事だし……などと、聞かれてもいないのに彼女は魔導書の使い道に思いを馳せる。根が真面目だからだろう。
うつむいてぶつぶつやっているイリアスよりも先に前を向いたフレッシュマンは魔導書をぱたんと閉じた。自信にあふれている様子から察するに、手ごたえを感じているらしい。
「さあ、ひとまず現場を見に行こう。踏み固めるといっても、彼女の死体を確認するまでは安心して眠ることも難しそうだ」
「死んでても悪夢を見ちゃいそうだけれど、私……」
なんといっても、あんな炎の化け物に追い掛け回されたのだ。しばらく安眠はできそうにない。これほど過酷な経験は、騎士団に所属して多くの敵や魔獣と戦ってきた彼女にも初めてだった。
「悪夢を追い払う魔法でも使ってみるかな?」
「え? いや……。ごめんなさい、そういうのは、ちょっと」
というか魔導書にはそんな魔法まであるのか、いよいよ本当に便利帳ね、などと驚きつつ感心するイリアス。魔法を使うたびにページがなくなるということで今は相当に薄くなっているが、もともとは分厚い魔導書だったのかもしれない。これがあれば多種多様な依頼にも対応できるし、ギルドにも一冊くらいほしいところだと彼女はうらやましく思った。
とはいえ、本来なら魔導書を使えば使った者は強烈な呪いに苦しむので、呪いに対抗策を持たないアレスタやイリアスには使いこなせない。それを知ったら彼女は不気味だと言って問答無用に切り捨てていたかもしれないが。
そんなことを考えながら話しながら、やや時間をかけて目的地を目指す。土中に閉じ込めるのは長時間であればあるほど効果的なので、今さら急ぎすぎても意味がない。
「あら、みんないるみたいね」
いやでも目立つ爆音や煙を目印にしたのか、フレッシュマンたちと一緒にイリアスが現場に向かってみると、はぐれていた全員が集まっていた。
もしかすると、いや、高い確率で、みんなはイリアスを助けるつもりで集まってくれているのだろう。ありがたい仲間たちだ。自分一人でオビリアに追われることになって恨み言の一つでも言いたかったのは忘れることにした。
寛大な気持ちってこういうことね、と冗談じみて微笑んだイリアスは嬉しさをかみしめる。
「よかった、無事だった!」
一番にそう言って駆け寄ってくるのは笑顔のアレスタだ。テレシィが彼のもとへ飛んでいく。そのまま胸に飛び込む小さな妖精の姿を見て、私もあんな風にアレスタに抱き着いてあげようかしらと思ったのは自分の胸に秘めたイリアスである。
ともかく笑顔を返すことは忘れない。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ。すごく無理をさせたと思う」
「そうそう、すっごく無理をした! だけどイリアスに何かあったら大変だし無理もするよ」
「これからもきっとさせてしまうから、申し訳ないわ……」
「いいんだよ、その分イリアスは活躍してくれるから! それに比べてニックときたら……」
アレスタに続いてイリアスのもとへやってきていたニックが突然水を向けられて、いかにも不服そうな顔を見せる。
「え、僕? ちょっと待ってよ、僕だって今回は結構役に立ったと思うけど。ほらほら、アレスタたちの地下牢の鍵だって僕が開けてあげたんだしね」
あまりにも誇らしく自慢するので、これにはイリアスも黙っていられなかった。
「それもほとんど私の手柄じゃない?」
「アタシの手柄でもあるぜ」
ニックの手柄がなくなっていく。
イリアスとカズハの容赦ない言葉に同意しつつ、責めてばかりもかわいそうなのでアレスタはニックを励ましておくことにした。
「いや、でもやっぱり俺はニックに感謝してるから! 助けに来てくれたんだもの!」
「そうだよね! 助けに行ったって事実がなによりの手柄だよね! 僕も勇気を出したんだ!」
「助けに行ったって言うと自分の足で走ったように聞こえるが、道中は俺の背に乗ってなかったか?」
何気なくキルニアが口を挟むと、ついにニックはしょげ返った。
「勇気は出したんだよ、僕……」
「いや、まぁ、うん、それって大事なことだよね! ニックもすごいよ!」
半ば本当にそう思いながらアレスタはニックの肩をたたく。なんだかんだ言っても、アレスタにとってニックは大事な友人だ。いつまでも落ち込んでもらっているのは見ていて気の毒になるし、敵との戦闘が続く状況で集中力を欠いているのは危ない。いつもより治癒魔法の頻度が増える。やる気と元気を出してもらうのは必要なことだ。
さて、そんな彼らとは別に、フレッシュマンもナツミとの再会を果たしていた。
「いい仲間を得たわね」
「そう思えるのは否定しがたい事実だ。ともに戦ってくれる彼ら彼女らには、感謝もしよう。私にとっては君が一番だがね」
それだけ言って二人は短い会話を切り上げると、隣に並んで立ち、魔法によって踏み固められた地面を見下ろした。
彼らの前ではスウォラが片膝をついて、地面に手のひらを押し当てている。
「魔力の反応は……ほとんどないな。生きてはいないだろう」
「よし、では掘り返そう。圧死か窒息死か別の死因かは知らないが、彼女が逃げ延びたのではないということを我々は確認しなければならない。我々の身の安全のためにも、そして、ブラッドヴァンの戦意をそぐためにもだ」
確かにオビリアがやられたとなれば、ブラッドヴァンとはいえノーダメージともいかないだろう。なにしろ彼女はブラッドヴァンの幹部。前線に出てこないフーリーを別にすれば、戦力的にも実質的にオドレイヤの右腕であったようなものだ。
部下が運んできた魔道具を駆使して穴を掘り返していると、それほど時間もかからずに目当てのものが姿を現した。
オビリアの死体――だけれども、それは目を閉じる顔以外のほとんどの部位が燃えていた。
動かない彼女の遺体が炎に包まれていたのだ。
土の中に埋もれていた状態であってなお、彼女の魔法は止まっていなかった。
「触ってみても熱はない。木の枝を近づけてみても燃えない。これは炎ではなく、彼女の魔法の残照……あまりに強烈な魔力に染まった身体が、死後もなお自動的に魔法を発動させているのだ。幻影とまで言い切ってしまうと語弊があるがね」
「つまり危険性はないと? ふふん、なら、特別製の墓を用意する必要もなさそうだ。あらためて処刑する必要もね」
しかし誰もが遠巻きに見ていた。警戒を忘れていないというよりも、単純に何かを恐れて。
ほとんど炎に包まれているとはいえ、身体中に痛々しい戦傷を受けている死体なのだから、わざわざ近寄って見てみたいと思えるものでもないのだが……。
ふいにブリーダルが顔を上げた。
「私に一つ、考えが」
「なんだろうか? まさか治癒魔法をかけて、傷が治らなければ死んでいる、傷が治れば生きているというように、彼女が本当に死んでいるかどうか試すべきだとでも?」
アレスタの治癒魔法は死者の蘇生をすることまではできないため、そういう確認の方法に使用することができる。わずかでも命が残っていれば、本人の意思とは無関係に治癒魔法が傷を治してしまうので、つまりオビリアの傷がアレスタの治癒魔法に反応するかどうかを見て、彼女が生きているか死んでいるかを確かめることが可能なのだ。
「いえ、それはそれでやってもらうべきでしょうが、それだけではありません。マフィアらしい彼女にふさわしい墓の用意ですよ。どうか私に準備させてください」
常に夕暮れに覆われた異次元世界ユーゲニア。さらに一段と深みを増したように感じられたのは、果たして彼らの勘違いだったのだろうか。