34 救出へ
メイナに捕まった二人を残してではあったものの、魔導書による転移魔法で全員無事に帰還させることに成功したフレッシュマン。出発したのと同じ拠点にて彼を出迎えたのは、香ばしい湯気を立ち昇らせるティーカップを片手に抱えた執事兼参謀のブリーダルであった。
悲喜こもごもといった一行の様子を見て、万全の勝利とはいえないまでも圧倒的な敗北ではなかったと見抜いた彼は、その戦果を率直に尋ねる。
「どうでしたかな?」
周りのメンバーには休んでいるように言って、素直に従った彼らが離れたのを見てフレッシュマンが答える。
「オドレイヤの魔力システムは破壊された。だが、ナツミを連れ去られた」
「なるほど……詳しくは?」
「ああ、手短に話そう」
そしてブリーダルはフレッシュマンから詳しい戦況とオドレイヤの状況を聞かされる。
それを聞き終えて、参謀である彼が判断した内容はこうだ。
「今こそ攻勢に出るべきでしょうな。その魔力吸収システムというのが再び組み直されては厄介です。このチャンスを逃すべきではないでしょう」
「うむ。それはもちろん、そうなのだが……」
視線が泳ぎ、煮え切らない態度で答えるフレッシュマン。
彼の心中を察したブリーダルはティーカップを渡して苦笑する。
「敵を倒すことよりも、まずは救出作戦が第一ですよ」
「うむ、そうだ」
パープルティーを受け取ってうなずくフレッシュマン。
安堵を隠さず素直に微笑んで、すぐに顔を気難しいものに改める。
「しかし、彼女らを助けるにしても場所がわからないのでは……」
「ご安心を。これからの街は魔法による索敵の目が、ある程度は有効になります」
「……というと?」
フレッシュマンの疑問に対して、ブリーダルは言葉より先に行動で答えた。
これまでアヴェルレスを覆っていたブリーダルの「広域かく乱魔法」を解除したのだ。
確かに、そうすることによって、連れ去られた二人を探す方法はゼロではなくなる。ただ、そうするということは、こちらの位置も敵側に知られてしまう危険性が生まれてしまうのだ。
「さて、長らく発動したままであった私の魔法は解除しておきました。これからはマフィアに対して先手を打ち続けなければなりません。その覚悟と実力がおありですかな?」
フレッシュマンはパープルティーをぐっと一息に飲み干してから、高々とカップを掲げた。
「私はいつだってこう答える。覚悟も実力も当然”ある”と!」
オドレイヤを運んだフーリーの転移魔法だが、それはアヴェルレスに循環する特殊な魔力の流れを応用したものであった。パープルティー・ヒルに立つ魔力吸収システムの根幹である幻想樹が失われた現在、それは予測のつかない不安定なものとなり、オドレイヤの側近たるフーリーといえども制御が難しく、全員を狙った地点に転移させることに失敗した。
オドレイヤと別れたらしいオビリアとメイナの二人が転移されたのは、仕事に不熱心なマフィアが途中で放棄した建設現場だった。建物の地下と一階部分は完成しているものの、二階から上は骨組みしかない。いっそ戦闘に巻き込まれ荒廃した廃墟だと言われたほうが納得できただろう。
メイナのスライムと化した腕に抱えられる格好となったナツミとアレスタの二人も、彼女らと同じ場所に降り立っている。おとなしく彼女たちに付き従っているのではなく、現在進行形でなんとかしようとナツミは風魔法で脱出を図るが、半液体のスライムが相手では、なかなかうまくいかない。
直前の戦闘で魔力を使いすぎたのもあるし、メイナはスライムの腕で人を捕まえておくことが攻撃するよりずっと得意なのもあった。
「かといって、このままというのもね……」
スライム状態に変化しているのだって、多少なりとも魔力を消費する。本気を出せば数日どころか数週間はスライムのままじっとしていられると豪語するメイナだが、それはそれとして疲れるのも事実なのだ。できることなら常に人間状態でいたい彼女である。
「どこかと思っていたけれど、ここなら一度、部下の仕事ぶりを見に足を運んだことがあるわ。確か牢獄代わりの頑丈な地下室があったはず。そこに二人をぶち込んでおきましょう?」
「それはいいですけど、オビリア様。殺さなくてもいいんですか?」
「だって、生かしておけばフレッシュマンをおびき寄せる餌になるでしょ? 私たちが今からここにマフィアを集めて、罠も張って、遅れて救出に来た彼らをぶちのめすのよ。それに――」
怪しく光ったオビリアの目がアレスタを射抜く。
「なんだか彼、殺すには惜しい力があったみたいだし。今すぐには無理でも、時間をかけてあなたが篭絡しなさいな」
「オビリア様ったら素敵!」
身をよじったメイナの動きに応じるようにスライムの腕がぎゅっと絞られて、ほとんど同時にナツミとアレスタは苦しがる。
それに気づいたメイナはふふっと笑う。
「あら、ごめんなさい」
何でもないことのように言って、少しは縛り付ける力を緩めたものの、だからといって逃げられるものではない。
抵抗する二人の人間をスライムの腕で拘束したまま、悠々とした姿勢で歩いていくメイナは地下室へ続く扉を開いた。手慣れているのは、これまで何度も同じようなことをしてきた経験があるからだろうか。
「ところで、あなたたちに聞いておきたいんだけど、さっきのあれ、何?」
「……あれ、とは?」
「あそこにあなたたちが攻撃を仕掛けた目的とか、よくわかんない樹のこととか、あの無敵のオドレイヤがダメージを受けていたような感じとか、そういうのすべてよ」
問われてアレスタとナツミは至近距離で顔を見合わせた。
説明しようと思えば説明できないこともないけれど、ブラッドヴァンのマフィアを相手に正直に教えていいものだろうか。オドレイヤが何らかの事情で弱体化したことは察しているに違いないものの、こちらの手の内を明かすのはまずいのかもしれない。
「ま、いいわ。時間ならいくらでもあるでしょうし」
投げやりに言い捨てたメイナによって、難しい表情で顔を見合わせたままでいた二人は地下室に放り込まれる。階段は急だし、床は石造りで優しくない。アレスタは彼女をかばって痛い思いをしたが、それでも念のためナツミには軽度の治癒魔法をかけておいた。
「おとなしくしておくことね!」
分厚い鋼鉄の扉がすさまじい音を立てて閉ざされる。肉体派ではないアレスタの腕力ではもちろん、外側から厳重な鍵もかけられたようで、ナツミの風魔法を使っても脱出は困難だろう。
閉ざされた牢獄の内部とはいえ、ようやく自由の身になったアレスタとナツミ。二人きりになったところで向き合って雑談するほど仲もよくないけれど、この状況でまったくコミュニケーションをとろうとしないのは、お互いにとって不利益だ。
相手の顔が見えないよりはと、魔力で動く照明装置を見つけたアレスタはそれを点灯させた。今にも消えそうな弱々しい光でしかなく、依然として薄暗いが、ないよりはいい。
いつも前向きで気の強い女性に見えていたナツミだけれど、こういう雰囲気の中にいると、アレスタの目にも彼女が弱り切った女性に思えてくる。状況的にはピンチに他ならないので落ち込んでいても当然なのだが、実際そういうところを目の当たりにしてしまえば、アレスタにはどうしゃべりかけてよいものかわからない。
いっそ寝たふりでもしていたほうがいいだろうか。
そう思っていると彼女がおもむろに口を開いた。
「あなた、外の世界から来たんでしょ?」
「……あ、はい。異界の存在を知ったのも、こうしてユーゲニアに来たのも初めてです」
「へえ、変なの。こんな救いのない暗黒街アヴェルレスに、わざわざ観光をしに来たってわけでもないでしょうし」
「観光ではないですね。夕暮れに包まれた異界って幻想的でもあるから、見た目は悪いところじゃないですけれど、治安がこんなに悪いなんて思わなかったです」
「そんなに悪いの? 私たちにはこれが普通だから、必死で生きてるのがバカみたいね」
「馬鹿とか、そんな……。きっと不幸なだけですよ。アヴェルレスの人たちは、みんな理不尽な不幸に見舞われているように見えます。そしてたぶん、あなたたちは、その不幸を取り除こうとして戦っている。そうでしょう?」
「それは、まぁ……。こちらこそ、あなたたちを巻き込んで悪かったわ。あのときのことも」
冷たい床に座っているわけにもいかないと、魔法で軽い風を発生させたナツミはほこりを払って、その場に置き捨ててあった木箱に腰かけた。一つの木箱に二人並んで座るのも気まずいので、アレスタは近くの壁に背を預けておくことにする。
「あのときのこと……。あれってカズハを外の世界に追い出すためだったんですよね? つまり彼女をこの街の抗争から遠ざけたかった。それがわかっているから、一度は不意をつかれて攻撃された俺たちも、あなたたちのことを本気で敵対する存在ではないと思っているんです。平たく言えば、同じ目的のために協力できるんじゃないかって」
「……結局のところ、あなたがカズハに信頼されている限り、私はあなたを本気で裏切ったりはしないわ。オドレイヤを倒すために、しばらくカズハには街を離れていてほしかったけど、ここまで来たら積極的に協力し合ったほうがいいのかもね。なにしろ、あなたには……」
ちら、とナツミがそばに立ったままでいるアレスタを見る。
たぶん治癒魔法のことを言おうとしているんだろうなと察したアレスタは、改めて自分から説明しようと思って、背中を壁から離した。
そのときである。
「ゲンキダシテ!」
と、アレスタの胸元からテレシィが飛び出したのだ。
小さな妖精は二人の間をくるくると踊るようにして飛び回った後、それを珍しがって眺めるナツミの肩に腰かけるように座りこんだ。目を丸くする彼女の頬に身を寄せるようにして体重を預けているのは、なついている証拠かもしれない。
元気出してと言ったように、落ち込んでいる彼女を見て、優しいテレシィは励まそうと姿を現したのだろう。
「この子、あなたが治癒魔法を使う時に出てくる妖精よね?」
今となっては彼女に力を隠しても意味がないので、アレスタは素直にうなずく。
「そうです。俺、その子を通して自分以外の相手にも治癒魔法をかけることができるんです。それでカズハも助けられたし、他の人だって助けることができる。死んでしまう前なら、なんとか」
「ふぅん……」
話を聞いているのかいないのか、すでにアレスタを見ていないナツミは頬ずりしてくるテレシィの頭を人差し指で撫でている。口元が緩んで笑っているようにしか見えないのは、もしかすると本人には自覚がないのかもしれない。初めて見る油断した顔だ。年上だけど可愛い。
悪い人じゃないんだろうなと、アレスタはなんとなく確信した。
「あなたの治癒魔法があるなら、これからもカズハのことは安心して任せられるわ。それに、魔法吸収システムを破壊してオドレイヤが弱体化した今は、ますます勝てる気がしてくる。もともとは部外者であるんだから、私たちの抗争に協力しなさいと無理やり首を突っ込ませるのは気が進まないけれど、協力してくれるなら事実ありがたいわ」
「困っている人がいたら助けるのが仕事ですし、なんだかんだと俺たちはそういう性分だから、気にしないでも大丈夫ですよ。ただ、今はちょっと自信がなくなっているのもあって、期待されるほどの力になれるかどうかはわかりませんが……」
自信なさげな口ぶりに反応したのか、テレシィがナツミのもとを離れてアレスタの腕の中に飛び込んだ。
それを大事に抱えつつ、アレスタ。
「マフィアたちの抗争に直面して、なんだか自分の無力さを痛感したんです。今まで自分は特別な力があって、特別なことをできるんじゃないかと思いあがりつつあった。だけど、治癒魔法は万能じゃない。死んでしまえばそこまでだ。争いそのものを防ぐことができるわけでもないし……」
防衛騎士団のときも、市民革命団のときも、アレスタが駆けつけた時にはすでに壊滅していて、犠牲者をすべて救えたわけではなかった。ナルブレイドなど、まだ息のあった負傷者はできる限りの範囲で助けることができたものの、異界に突入してきたばかりのころの自分たちは、もっとうまくマフィアの抗争を終わらせるつもりだった。
それが思い上がりであり、実力不足を痛感させられる事実でもあった。
自分たちは特別でも何でもない。たった一人のちっぽけな人間なのだ。
「私たちも同じようなものよ」
そう言ったのはナツミだ。
いたずらを打ち明ける子供みたいに、彼女は悪びれたように笑う。
「つい最近まで、実は勝てるわけがないと思っていたの。だって敵はあのオドレイヤよ? ほとんど死を覚悟していたんだから。フレッシュマンの前では絶対に言えないけど、彼にだって本当は戦うより逃げ延びることを考えていてほしかったくらい」
冗談めかして言っているけれど、それは大部分では本音に近しいものであるのだろう。だとすれば彼女はアレスタを仲間と見て心を打ち明けてくれたのだ。
これまではお互いに詳しい自己紹介もなく、流れに身を任せて協力体制を取っていたが、今なら彼女についても、いろいろとしゃべってくれるかもしれない。地下牢に閉じ込められ気も滅入っているのに加えて、話す以外には他にすることもないのだから、ここは気になることを聞いておくタイミングだろうか。
そう思ったアレスタは遠慮がちに尋ねることにした。
「ナツミさんとフレッシュマンのお二人は、確かもともとブラッドヴァンに所属していたとか聞いたんですけど、そうなんですか?」
「ええ、そうよ。もっとも、昔も今も、私は本気でマフィアに心酔していたわけじゃない。ただ、ある時フレッシュマンがスカウトされたのよ。最悪なことにオドレイヤにね。あのころはカズハの身を安全にするためには、敵対せずにマフィアの誘いに乗るしかなかった。そして私は彼についていったの。家族というより、あの人の恋人だったから」
カズハを含め、ナツミもフレッシュマンも盗賊団を名乗るカロンを父として育った同じ家族だが、もともとは三人とも親を知らぬ孤児であるため、彼らの間に血のつながりはないという。
「それから、どうしてマギルマに?」
「幹部まで成り上がったフレッシュマンだったけれど、何かをきっかけにオドレイヤとの対決姿勢を明確にしたのよ。それが何だったのか、実を言えば私にもわからない。今に至るまで教えてもらえていないの。でも彼を信じるには十分だった。ブラッドヴァンが悪なのは誰の目にも明らかな事実だったし、オドレイヤを倒せるなら倒しておくべき。そうでしょ?」
「街に来てほんの数日ですけど、明らかにそう思います」
率直な気持ちでアレスタがそう答えると、彼の頬を柔らかな風が撫でた。
「ふふ、だとしたらあなたの目は冴えてるわ。私たちではなく、あなたを頼ったカズハもね」
「私たちではなく……ってこともないと思いますよ。素直な性格じゃないからカズハは口にはしないでしょうけれど、たぶんあなたたちのことを信頼しているんだと思います。今だって、きっと俺なんかよりもナツミさんのことを心配してますよ」
それには直接答えないようにして、ナツミはうなずく。
「ええ、私たちは一人じゃない。少なくない仲間がいる。それを受け入れるなら、何度でも立ち上がれる。さぁ、立ち上がる時のために備えておきましょう? たぶんそれは驚くほどに早く来るから」
おそらくこれは、地下牢に閉じ込められた自分たちを鼓舞するための前向きな言葉だったに違いないが、ある種の確信をもってアレスタは彼女の意見に同意する。
「イリアスが本気なら、すごい勢いで駆けつけてくれそうだ」
言いつつ苦笑する。半分は冗談であったけれど。
実際、それはすごい勢いだった。カズハを背負ったイリアスは己に高速化魔法をかけて、全速力で駆けていた。目の前には進むべき方向を示す光が見えている。ブリーダルの「広域かく乱魔法」が解けたことによって、魔道具による探索魔法が使えたおかげであった。
一人先を行くイリアスを追いかけるのはニックだけでなく、獣化して走るキルニア、そして魔道具で武装したマギルマの構成員たちである。アレスタとナツミが捕らわれた場所はブラッドヴァンの支配する街の北部であったため、道中でも散発的にマフィアとの戦闘が始まる。それを彼ら魔道具部隊に任せ、イリアス率いる本隊が一刻も早く救出に向かっているのだ。
ちなみにスウォラは魔人化の影響でしばらくは休養が必須であり、フレッシュマンは対オドレイヤ戦に専念するため拠点に残っている。ナツミのことを心配する彼だが、広域かく乱魔法が解除された今、マギルマのトップが不用意に動き回るのは危険だ。しかも敵地に無策で足を踏み入れるわけにもいかない。度重なる戦いで魔導書のページも残り数枚となり、戦力的にもあまり期待できないのだ。
そんなわけで彼は本部で指揮に徹することとなっている。
「ここね!」
放棄された建設現場は夕焼け色に照らされ、廃墟じみていた。周辺にたむろしていた雑魚マフィアを問答無用で切り捨てておいて、彼女はその中へと慎重に足を踏み入れる。
そこにオビリアとメイナの二人がいた。どうやら先ほどまでの戦闘でたまった疲労を回復させるべく、作りかけの階段に腰かけて休養しているらしい。
ヘブンリィ・ローブを発動しているカズハがイリアスの背の上で顔を近づけて、そっと彼女に耳打ちする。
「イリアスの姉貴、まずは敵の様子を見るべきだ。そして後ろの奴らが追い付いてくるのを待とう。アレスタの兄貴たちが危険な状況だったらすぐにでも切り込むべきだけど、どうやらそうでもないらしいし……」
念には念を入れ、およそ身の丈ほどの瓦礫に隠れる彼女たちの前で、こちらに気づくことなくオビリアとメイナは話し込んでいる。途切れ途切れに響いてくる会話の内容から、差し迫った状況でないことだけは伝わってきていた。
「そうね、わかってる。私もそうするのが一番だと思う。奇襲ができても、たった一人で魔法使い二人を相手にするのって危険だものね」
そう言いながら、イリアスは鞘から剣を引き抜いて二刀流を構えている。
慌てたカズハは小声で叫ぶ。
「ねぇ、姉貴! せめてアレスタの兄貴たちがどこに捕らわれているかを先に確認してからでも遅くないってば!」
「それ、カズハに頼んじゃう。魔法で隠れたまま、近くにいるはずの二人を探して」
背中からおろしたカズハを正面に迎えて、ひざを曲げたイリアスは同じ高さで彼女の目を覗き込んだ。子供相手ではなく、同じ目的を持った仲間として信頼を託してくる。
「そうされちゃ断れないな。……姉貴、健闘を!」
「ええ、二人で祈り合いましょう」
勇ましく笑って二人でこぶしをぶつけ合う。カズハは音を立てぬよう抜き足差し足で廃墟の中へ入っていく。魔法の効果は絶大で、目を凝らしていたイリアスにも、彼女の姿はおろか気配さえ感じられない。
これなら大丈夫と安心したイリアスは自分の仕事に集中する。
奇襲は最初が一番大事。出ばなでくじけば、二人を相手に苦戦は必至だ。
「くっ! げほっ! ごほっ……!」
「あらあら、オビリア様ったら大丈夫ですか?」
不意にオビリアが苦しそうにせき込んだ。
あまりに激しくせき込み続けるので、彼女を心配してメイナの意識もそれる。
――今!
イリアスは身を低く伏せて突撃した。風を切るそれは突風。
まず狙うはオビリア。強力な火炎魔法の使い手。
ただし慢性的に調子が悪く、とっさの事態には対応できない!
シュッ!
短く鋭い音が鳴った。それはイリアスの剣が薙ぎ払われた後に響いた空気の叫び声だ。
「痛い!」
切られたにしては深刻さに欠ける声はオビリアのもの。
それもそのはず、彼女はイリアスの一撃をぎりぎりのところで回避した。
剣が届く寸前にイリアスの気配に気づいたメイナが、弾力あるスライムの塊で彼女を弾き飛ばしたのだ。放棄された廃墟の床は凸凹状態の石造りで、突き飛ばされたオビリアは腰を打って、さらに激しくせき込んだ。これではイリアスに反撃どころではない。
ならば敵はメイナだ。
当然のようにスライムの腕を振りかざしてきた彼女に対処する。
「そう簡単に私は捕まらない!」
イリアスは的確に剣を振るって、メイナのスライム状に伸びる腕を切り払う。縦横無尽に無数の腕に分かれたスライムだが、冷静かつ迅速にイリアスの回避と迎撃が成功し続ける。
得意のスライム攻撃で敵を捕まえようとするメイナの攻撃をものともしないのは、さすがに歴戦のイリアスである。
「私だって簡単にやられたりしないわ!」
叫んだメイナはスライム化した右足を使って落ちていた石塊を拾い、左足を軸に身体を回すと、遠心力をフルに使ってイリアス目掛けて投げつけてきた。
「そんな小石程度で! 私が!」
これは切り捨てず、最小限の動作で避けるのは間に合ったが、実は危ないところだった。致命傷でなければ当たってもいいくらいの気持ちでいた彼女は、いつものように治癒魔法によるサポートが前提の負傷覚悟で戦っていたのだ。
今はアレスタの援護は期待できないと、剣を握りしめて意識を改めるイリアス。
ただ、戦う相手がスライムだけあって、剣で作られた傷はすぐにふさがり意味をなさない。切り落とされたスライムの先端部分なども、磁石に引き寄せられる砂鉄などのように、すぐ本体に飛びついて元に戻る。
「相性は最悪みたいね」
「私にとっては最高よ」
にやりと笑うメイナ。おそらく彼女は剣の攻撃ではとどめを刺せないだろう。特殊な魔法が相手では仕方がない。勝ちたければ戦術を変えるしかないだろう。
しかしイリアスはめげずに深く切り込んだ。一刀目は振り下ろし、二刀目は切り上げで、真正面から相手の顔を狙う。これにメイナは後ずさるよりも身体全体をスライム化して無効化した。
危険な斬撃をやり過ごして、即座に人間状態に戻ったメイナは無傷。やはり攻撃は無駄だ。
しかし、イリアスの狙いは別にあった。
「いただいたわ!」
イリアスが掲げる剣先には、ひもでつるされた棒状の金属が引っかかっていた。メイナが首に下げていた地下牢の鍵である。おそらくアレスタたちを閉じ込めている扉を開くためのものだ。
「なっ! ……でも、どうする気? 鍵だけを手にしたところで、私をどうにかしなければ扉にはたどり着けないわ!」
倒すのが先か、救出に向かうのが先か。当然ながら敵の妨害があることを考えると、少なくとも彼女たちを無力化してからでなければアレスタたちを助けには行けない。
奪い返そうとするメイナの攻撃をいなしつつ反撃を加えていると、そこへ待ち望んだ援軍の到着がやっと来た。
「イリアス、お待たせ!」
「え、ニック?」
最初に聞こえてきたのが彼の声だったので、まさかニックが一番に追い付いてくるとは予想していなかったイリアスは驚いた。ニックにしては到着が早い。それとも私ってそんなに時間をかけていた? そう考えるイリアスだったが、顔だけで振り返ってみて改めて驚いた。
なんとニックは獣化したキルニアの背に乗ってきたのである。いつもの彼より早いわけだ。キルニアもよく彼を背に乗せたものだが、彼らは何やら通じ合っているので上下関係も何も気にしないらしい。
「とにかくニックはこの鍵でアレスタたちを!」
「わかったよ、それは大役だね! で、どこに扉があるんだろうか!」
「自分で! 探して!」
一瞬だけ止まっていたメイナの攻撃が再開して、しかもそれは先ほどに増して苛烈なものであったので、対処で精一杯のイリアスも、もう彼にかまっている余裕がない。鍵を投げ渡した後はニックの奮闘に期待するしかない。
「こっちだニック!」
やや遠くから呼ぶ声はカズハのものだ。どうやら地下室への扉を見つけたらしい。鍵を手に喜んでニックは駆け寄っていったが、自分より年下の少女に呼び捨てにされてもしっくりくるのは彼だからこそだろう。
視界の端でニックを見送った瞬間、メイナとは別の方向から、イリアス目掛けて新しい攻撃の気配が来る。
「燃えて散りなさい!」
ようやく立ち直ったらしいオビリアの炎魔法だ。これをイリアスは危なげなく回避する。幾分か威力が抑えられているのは、まだまだ体力や魔力が完全には回復していないことに加えて、射線上にメイナがいて巻き込みかねないからだろう。
スライム状態に変身していても、魔法の炎は無効化できるものでもないらしい。
「あなたはそっちを! 私はこの炎の魔法使いをどうにかするわ!」
剣では埒が明かないスライム女のメイナはキルニアに任せておいて、イリアスは両手から火花を散らしているオビリアと相対した。万全でない状態の彼女が相手なら、一対一で優勢にけりをつけることができると判断した結果でもある。
だが、隣り合って二者同士が向き合ったその時、スライム化を解いたメイナが待ったをかけた。
「私に提案があるわ!」
キルニアはそれをなんとなく察したが、攻撃の手を止めたイリアスとオビリアは、それぞれ似たように怪訝な顔をメイナに向けていた。
地下牢へのカギも奪われて、きっと間もなくアレスタとナツミも相手に加勢する。このままでは自分たちが劣勢に陥ると判断したメイナは真剣勝負ではなく妥協案を提示するのだ。
「オドレイヤがくたばるまで、私たちの間では一時休戦するってのはどうかしら! ふふ、いっそ手を組むってのも素敵ね! あなたたちが一緒にいてくれれば、確実に私たちがアヴェルレスの天下を取れるわ!」
「お前、それをさっきはなかったことにしたくせに! よく言えるな!」
と、キルニアはパープルティー・ヒルでのことを思い出して憤った。
そんなことあったかしらと言わんばかりに、飄々としてメイナは言ってのける。
「今になって改めて誘うことができるのって、あなたたちの頑張りのおかげよ!」
「調子のいいことを言ってくれるぜ! お断りだ!」
信頼できない人間と手を組むなんてありえないと断言して、キルニアは吐き捨てた。これで交渉も決裂だ。
二人の話は終わったと見たイリアスも剣を構えなおして、戦いに備える。
しかし、そのとき異変が三人を包んだ。
「……メイナ、今、あなたは何を言ったの?」
異変の発生源の先には、尋常でない怒りに燃えるオビリアの姿があった。
めらめらと、それは目に見えるほどの激情である。
今度ばかりはメイナも焦りを隠せない。
「えっと、それはでも、オビリア様……!」
「まるで、オドレイヤ様を軽視するような言い草。いいえ、死ねばいいと思っているような口ぶり。信じがたいけれど、それって……」
額に青筋を浮かべて、オビリアは目を見開いた。
「反逆! たとえメイナでも許せないわ!」
そして彼女は爆発した。
オビリアを中心に荒れ狂う炎が周囲を焼き尽くす。
あまりに突然のことであったため、イリアスとキルニアの退避も間に合わない。
「風で防ぐけど、一緒に飛ばされないように踏ん張って!」
危機一髪というタイミングで、強烈な暴風が激しく迫る炎を寸前で追い返した。
地下牢を脱してきたナツミの風魔法である。
「とにかく、いったん下がろう! 今の彼女はちょっとやばいよ!」
そう提言するのは彼女の横にいるアレスタだ。その後ろには、いかにも同意するといった様子のカズハとニックがいた。もちろんイリアスやキルニアも同感で、あんな噴火にも似た炎の爆発を見せられて、逃げる必要性を感じていないわけがない。
しかしすでに周囲はオビリアの炎によって包まれていた。逃げたいと思っても、肝心の逃げ道がふさがれているのである。
「あはははは! なんだか初めて気分がいいわ! 調子がいい! このまま街ごと業火に包めそうなくらい! 魔力がとってもあふれてくるじゃない!」
四方八方へと、最大級の火炎魔法が吹き荒れる。廃墟の壁も階段も、容赦なく破壊されていく。
ただならぬ炎の熱により急速に上昇気流が発生して、彼女のもとに引き付けられるような強風が巻き起こるほどである。
「オビリア様……!」
魔法使いどころか、もはや自然災害と呼べるほど危険に燃え盛る彼女の姿を目にして、恐れるどころか感激に震える存在が一人だけ存在した。彼女を慕うメイナである。
荒れ狂う猛火の中にあって、メイナの周囲だけ、炎は意志を持ったように避けて広がっていた。炎による熱も魔術的に操作され、彼女の頬を赤々と照らすばかりでとどまっている。直前まで本気で激高していたオビリアだったが、さすがに自らの魔法で大切にしてきた部下を殺せるほど無慈悲でも短絡的でもなかった。
「だけど二度目はないわ! メイナ、私たちはオドレイヤ様を勝利に導くの! それだけのために戦うのだからね!」
「……はい!」
感涙に打ち震えるメイナはもう何も言えなかった。言う必要性を感じなかった。これまでとは違って不調を感じさせない今の彼女なら、きっと一人でも街を支配することができる。今さら小細工など意味がない。彼女はようやく最強の魔法使いになったのだ。
ごうごうと炎が渦巻く中、カズハがみんなに聞こえるように声を張り上げる。
「きっとこれまでオドレイヤの魔力吸収システムはオビリアの魔力も吸収していたんだ。しかも、あまりにも強力すぎる彼女の魔法を警戒して、不調をきたすほどに大量の魔力が吸収されていた。だからそれが破壊されて、あいつは初めて自分の全力を出せるようになったに違いない!」
「だったら……」
「これからは彼女の本気が来る。なんとかしないとまずい!」
確かにまずい。ますます温度を上げている炎は離れていても肌を焼いてくる。まぶしい恒星がすぐそこに輝いているようで、顔をそらしていても目を開けていられなくなるほどだ。
なんとかならないだろうかとアレスタは考えて、この場における打開策を一つだけ思いついた。自分の得意技を生かして活路を切り開けるかもしれない。
だが、一人では不可能だ。
「イリアス、俺を信じてくれる?」
これにイリアスは即答した。
「あなたを信じる!」
もうあまり時間がない。すべてを焼き尽くさんとして踊り狂う炎が前後左右から差し迫っている。だけどそれは状況にせかされた言葉ではなく、彼女本来の絶対的な意志による言葉であった。
ならアレスタは、その期待に応えねばならない。彼女の信頼に報いなければ。
「よし! テレシィ、彼女を頼む」
「マカセテ!」
踊るように姿を現したテレシィがイリアスの胸元にしがみつく。
「アレスタ、何をするつもり?」
ごくりとつばを飲み込んだイリアスはアレスタに目を向けている。
炎に囲まれて全員が見つめる中で、アレスタは力強く宣言する。
「これから君に全力の治癒魔法をかけ続ける!」
「かけ続ける?」
「そうだ! かけ続ける! 俺の魔力が続く限り、あるいは相手から即死級の攻撃を受けない限り、君は一時的に治癒され続けることで無敵となる! この炎の壁を突破して、オビリアを止めてくれ!」
言っているアレスタ自身、これは一つの賭けであると自覚していた。
魔力が尽きてしまえば、彼女は無事で済まない。一瞬でも治癒魔法の効果が遅れれば、激しい炎に身を焼かれ命を奪われてしまうだろう。一度でも死んでしまえば蘇生はできない。治癒魔法を発動させ続けるからといって、絶対的に無敵となる不死の状態が約束されているわけではないのである。
だけどイリアスは信じると言ったのだ。
死ぬかもしれない大胆な作戦を聞いて、恐れや不安が一切ないと言えば嘘になるけれど、この期に及んでアレスタにも彼女にも迷いはない。
「わかった! アレスタ、合図をお願い!」
「頑張れイリアス、俺も頑張る! さあ、行ってくれ!」
「うん!」
治癒魔法がかかると同時、イリアスは最大出力の高速化魔法を自分の身に発動させた。
そして炎の壁へと身を突入させていく。
踏み込んだ瞬間、炎にまとわりつかれた顔が、腕が、足が、焼け、ただれ、形を失って溶けそうになる。これまでに経験したことのない激痛が全身を突き刺すように襲い掛かる。
だが、その度ごとに暖かい光がイリアスを包み込んで、あまりにも圧倒的な力で彼女を癒す。
炎より熱いのではないかと思えてくるようなアレスタの治癒魔法が彼女を守る。
わずかにでも火焔に触れれば熱が皮膚を貫き骨まで焼かれ、しかし瞬時に絶大なる治癒魔法があらゆるダメージをなかったことにする。
たった一本の髪の毛さえも、まつげさえも、敵を睨み据える瞳さえも。
絶対に傷つかない。絶対に折れない。どれほどの死地でもくじけない。
だから彼女は加速した。ぐっと身を乗り出して、奥へ奥へと踏み込んでいく。
その先に――。
「見えた!」
火炎に包まれるオビリアの姿。
常時発動する治癒魔法に全身を守られたイリアスは彼女を狙って右手の剣を振り下ろした。
「なんて女! 危ない奴!」
けれど、すんでのところで躱された。その場で転げ落ちるようにオビリアは身を引いたのだ。
反撃の炎が彼女から前方に向かって噴出する。
しかしそれは届かない。
高速化魔法を全開にしたイリアスの動きは常人の及ぶスピードではない。それより早く回転する勢いで振り下ろされた左手の剣が狙う。先ほどより一歩踏み込んでの深い一撃だ。
「んなあっ!」
痛ましい絶叫。防御のために突き出したオビリアの右腕が切り落とされた。激痛によって魔力の制御に狂いが出たのか、周囲へ吐き出されていた炎の勢いが目に見えて減衰する。
すかさず追撃。今度は回避も反撃も間に合わぬ。
右手の振り上げとともに剣先が走る。音速にも迫る速度で切り上げられた剣によってオビリアの左腕は切断され、血と炎をまき散らしながら弾き飛ばされた。
「あ、ああっ! なんてことをしてくれるの!」
「魔法を止めなさい! でなければあなたの命はないわ!」
イリアスは一方の剣を両腕を失ったオビリアの喉元に突きつけ、残る一方の剣を少し離れた位置で動けずにいるメイナに突きつけた。
周辺にあふれていた炎が風に吹き消されたように勢いを失っていく。
両腕を失うほどの負傷により、ついに魔法の発動が停止したのだ。
「ふ、ふふ、ふふふ……」
ところが、絶体絶命のオビリアはくぐもった笑い声を響かせた。
空へと向かって高く燃え上がっていた炎の壁が消失し、吹き荒れていた熱波もなくなったことでイリアスの勝利を確信して駆け寄ってきたアレスタたちの前で、地面に跪くオビリアは突きつけられた剣をまったく恐れていなかった。
失った二本の腕を惜しがることさえ。
「命がないのは、あなたのほうじゃないかしら!」
膨れ上がるのは、オビリアを中心に再び爆発する大量の魔力。
カッ――と灼熱。
「な、なにっ?」
正体不明の強い力によって、突きつけていたイリアスの剣が振り払われた。同時に発生した爆風で、後ずさることを余儀なくされる。
爆心地に立つオビリアからは、二つの燃え盛る炎が右と左で腕の形となって噴き出し、先ほど腕を切り落とされたばかりの左右の肩から伸びていた。肉づいた生身の腕より太くて長く、おそらく剣戟で切り落とされることもない、新しい二本の腕だ。
それは炎の魔法で作られた魔力的な腕である。
「私は、今度こそ本物の炎の魔法使いになれたのだわね……!」
口から火を噴きつつ出されたのは、おぞましいまでの凄みを感じさせる声。ただならぬ彼女の様子にイリアスも警戒して距離を取る。
不用意に攻撃しても、今の彼女は”炎”となることでダメージを無効化できるのではないか。
それこそ、スライム化を得意とするメイナのように。
「オビリア様! ここはいったん引きましょう!」
そのメイナが駆け寄って退避を進言したのも無理はない。オビリアの顔は青ざめ脂汗がにじみ、いまだに消えぬ炎を背負っているとはいえ、見るからに苦しそうだった。オビリアを苦しめていた魔力吸収システムが破壊されたにしても、彼女はまだ万全の状態とは言い難いのかもしれない。
だが、現実的に考えると、ここで引くべきはアレスタたちのほうである。
「イリアス、戻ろう! あの二人を相手に俺たちだけじゃ危険だ!」
「負けを認めるってわけじゃないけど、すっごくそんな気がする!」
くるりと身を翻したイリアスは全員を護衛しながら駆け出した。
「だけど、それを許すような私じゃないわ! 今までは不調のせいで、勝ち戦でも撤退しなければならなかった! でも、今なら全力の先にもたどり着けてしまえる気がする!」
「オビリア様!」
「決して逃がしはしない! 少なくとも私の腕を切り落としてくれた女剣士だけは、たとえ体が燃え尽きたって許さないわ!」
彼女を思って制止するメイナの声は届かない。
不調を覆い隠すほどに魔法を発動させるオビリアは大規模な火炎を身にまとった。
炎の魔法使いというよりは、もはや業火そのものといったほうがふさわしい姿となり、逃げる獲物の追撃を開始する。