27 東部マフィアのボス、その名もエッゲルト・シー。
さて、ボスボローに現場の指揮を任せていた「強力な魔獣を街に放つ」という計画の無惨な失敗を知ったオドレイヤは機嫌が悪かった。
とにかく悪かった。
あまりにも悪すぎて悪すぎて、かえって機嫌が良いようにさえ見えるほど不愉快だった。
あらゆるものが彼の目には邪魔で不快で価値のないものに見えてならなかったに違いない。そういった世界への無差別な嫌悪感が彼をある意味では自由奔放にしてしまうのかもしれないが、そんな自由は彼以外の人間を不自由のどん底へと突き落としてしまいがちであった。
「まったくけしからん! 普通にノックをして扉をくぐるという発想はないものかね! マフィアの人間に常識や礼儀を期待する方が間違っているということくらい、同じくマフィアの人間である私もわかっちゃいるのだがね! それにしてもあのブラッドヴァンのドンだ。この世の全部、なにもかもが自分の思い通りと思っておる!」
東部マフィアのボス、その名もエッゲルト・シーは、贅を尽くした執務室の愛すべきふかふかソファに腰を沈めながら、今にも暴れだしそうなほど激しく憤った。年のいった男にしては美しく長い黒髪が、だらしなく波打って乱れる。すらりと細い手の指は無骨さを感じさせないものの、ふるふると怒りに震えている。
年端もいかない子供が地団駄を踏むかのごとく、心の底から溢れ出してくる感情を抑えられないとは一端の大人がみっともないが、こうして彼が我を忘れそうなほど激怒するのも無理はない。
なんとあの悪逆非道なオドレイヤが、前触れもなく東部マフィアの本拠地に乗り込んできたのである。しかも悪名高い彼の魔法でめちゃくちゃに暴れながら、それこそ東部マフィアを滅ぼしかねない勢いで。
中に入るのに許可など求めぬと、見かけた人間を片っ端から倒しながら強引な突破を試みている。
いかにも不機嫌なオドレイヤはきっと、東部マフィアのボスであるエッゲルトを探しているのだろう。奥へ奥へと進んでいることが何よりの証拠である。ここまでする理由はともあれ、目的はそうに違いないということは、相手をさせられる東部マフィアの誰の目にも明らかだった。
当然、それをただちに察したエッゲルトは落ち着いていられるわけもない。
なにしろ自分の命がかかっているのだ。
「このままでは殺されかねん。時期尚早などと言っていれば、ここで死を待つのみか。あちらさんから仕掛けておられるのだから、こちらからの裏切りではあるまい。正当防衛の迎撃だ。……ここでオドレイヤを倒す」
そう口に出してはみたものの、しかし普通に戦って勝てるものではない。
のんびりしてもいられず、ソファから立ち上がったエッゲルトは執務室の中をぐるぐると回った。
事情があってそう広くない部屋ということもあり、ぐるりと歩き回ったところで小さな円だ。一周するのはベッドから起き上がるよりも簡単で、すぐにソファのところへ戻ってきてしまう。危うく目まで回りそうになった彼は苦笑せざるを得なかった。
「攻めてくる”敵”が一人だけということが唯一の救いだ……でなければ考える間もなく死んでいた。とにかくオドレイヤだけの動きに注目していれば、いきなり不意をつかれることもあるまいて」
ようやく少しは冷静に考える余裕が出てきたのか、先ほどまでの燃えるような怒りが引いてくる。
これほどの大ピンチ、東部マフィアのトップとして冷静に対処せねばならぬのだ。なにしろ一歩間違えば即座に全滅してしまう。せめて延命の手段だけでも導きださねばなるまい。最強最悪の魔法使いが相手では、どう戦おうとも、勝利をつかむには運も味方してくれなければ難しい。それもとびきりな幸運だ。
そうこう考えている今も、彼の部下である無数の構成員たちがオドレイヤ一人を相手に四苦八苦していることだろう。懸命に戦っている彼らに裏切られては彼もおしまいなのだが、偏屈なオドレイヤは裏切り者を許さないことでも有名だ。
したがって東部マフィアの構成員たちはオドレイヤに狙われた以上、死力を尽くして戦うしかないのであった。それもこれも誰もが死にたくないがゆえである。
「焦りは禁物だ……並の手段では通じるはずもない……」
組織を統率しなければならないボスである自分の重要性は言うまでもない、ここで焦りに促されて無策のまま敵の前に姿を見せることの愚かさを知っているエッゲルト。ぐるぐると歩いていた足を止め、居心地のいい執務室のソファにどっしりと再び腰を沈める。
悲しいことだが、トップ同士が直接対決をしても東部マフィアに勝ち目はない。
一対多数の好条件を崩さぬためにも組織は維持されるべきで、一人一人に命令を出す役割のリーダーであるエッゲルトが真っ先に死ぬ訳にもいかず、もちろん最後の最後まで死にたくないという打算もあったが、とにかく彼は閉ざされた執務室から部下へと指示を出すにとどめるつもりなのである。
……が、さすがのオドレイヤと言うほかない。
いかなる攻撃を受けても無事に切り抜けてみせ、まるでものともしないのだ。
彼の足を止めうる者は誰一人としていなかった。
「なかなか手荒い歓迎だな。楽しくて仕方がない」
いわゆる「窮鼠猫を噛む」との言葉通り、一か八かと容赦なく挑みかかってくる東部マフィアの相手をしながら、どこか嬉しそうにほくそ笑むのは勝ち進むオドレイヤである。
死に際に媚を売る雑魚よりも、負けるとわかっていようが最後まであがく雑兵の方が好きなのだ。
明らかな格下が相手で無意識のうちに手を抜いているとはいえ、きちんと歯向かってくる東部マフィアと正面切って戦えたことで、段々と気分が高じてきたオドレイヤは楽しさのあまり、ますます足が速くなる。まるでお膳立てされたアトラクションを満喫しているかのようで、もう誰にも止められない。
敗色濃厚な雰囲気を見たエッゲルトはさすがに焦燥感に包まれる。
「いくら最強最悪の魔法使いといったところで、ちまたで噂されているように本物の不死身ということはあるまい。どこかに必ず弱点があるはずだ。それを探す。探して……殺す! そして私がアヴェルレスのトップに立たせてもらおう!」
腹を決めたエッゲルトはいよいよ攻撃に打って出る。
東部マフィアのトップにまで上り詰めた彼が使用するのは、遠距離から自在に操ることのできる刀剣を出現させる攻撃魔法である。彼はそれを「乱れ操り刀剣」と呼ぶ。
対象の周囲に最大で六本もの刀剣を出現させて、そのまま遠距離から攻撃することが可能なのだ。
特異な魔法体質のおかげか遠視の能力も備えているので、魔法を使う彼自身は攻撃可能な射程の限界まで敵から離れていて、どこか別の場所に身を隠していることができる。たとえ分厚い壁を隔てていたとしても、直線距離さえ魔法の範囲内であれば、ほとんど自由に対象を狙って攻撃可能だ。
とはいえ物質の中や相手の体内に直接刀剣を出現させることなどはできず、また、一本の刀剣は出現させてから一回振るっただけで消えてしまうほど持続力がない。そのため、一撃で仕留められない強敵を狙うには、対象の周囲へと立て続けに魔法を発動させていくしかなかった。
そこでエッゲルトは通路に仕掛けたトラップのように次々と、屋敷の奥まで続く障害物のように延々と、魔法による刀剣を出現させてはオドレイヤに襲いかかることにした。致命傷はともかく、せめて進撃を止められれば御の字という腹積もりもあった。
「なっはっは、こんなもの所詮は物理攻撃だ。異常発生した虫の大群のように数はあるが、邪魔なだけで脅威ではないな。私ほどともなると、歩きながら軽くあしらえる」
鼻で笑うオドレイヤは論より証拠と言わんばかりに、力を込めた視線だけで刀剣を弾き飛ばす。背後から襲ってくるものに関しては、振り返るまでもなく人差し指を向けて魔力弾のようなものを発射して弾き飛ばしてみせた。力の差は歴然である。圧倒的だ。
ならば物量だと考えたエッゲルトが休む間もなく魔法攻撃を繰り広げるが、それでもオドレイヤの余裕は崩せない。まだまだ勢いが足りないということだ。
ところが魔法による攻撃の手や防御の一撃をあつくしようとすればするほど、かえってゴールへの道しるべとなる。
刀剣の魔法が守ろうとしている方向へと進めば、術者であるエッゲルトの居場所へたどり着くはずだ。
そしてオドレイヤはたどり着ける。誰にも一切邪魔されることなく。
「ここか!」
と、いよいよ最奥にあった部屋の扉に手をかけた。
「よっし、かかった!」
そうして室内に踏み込まれ、ついに絶体絶命の窮地に追い込まれたはずのエッゲルト。
しかし彼は実際のところ諸手を上げて喜んだ。
なぜならそこに彼の姿はない。
すなわちオドレイヤは知らず知らずのうちに誘導され、彼の執務室ではない別の部屋に入り込んだのだ。
いや、ここはより正確に”入り込まされた”というべきだろう。扉を開けた瞬間に強力な引力が発生して、否が応でも部屋の中へ引きずり込まれるオドレイヤ。そして彼の身体が完全に室内に入ってしまうや否や、逃げ道を封じるかのように扉が勢いよく閉まった。
そう、ここはトラップ部屋だ。違う部屋どころか、そもそもこの館の中にエッゲルトはいない。
東部マフィアお抱えの魔法使いを何十人と酷使して、前々から念入りに準備して発動させた高度なトラップ魔法である。さすがのオドレイヤといえど、この罠にかかっては無傷ですむまい。
「やれ、絶死監獄! 奴の息の根を止めろ!」
張り切ったエッゲルトの掛け声とともに、絶死監獄の魔法が発動する。
まず第一に、なるべく広範囲の結界を発動させて確実に対象を閉じ込める。
そして第二に、結界内部の空気を抜き取り、真空状態を作り出す。
それから第三に、結界の壁を徐々に狭めていくと同時に拘束を強める。
最後にはつぶれてなくなる。
これで並の人間なら死を免れない。内側からの脱出は不可能だ。
「こんなものではなぁ!」
ところがオドレイヤはやすやすと結界の壁を破壊した。
ほんの短時間ではあれ、真空状態をものともしなかったというのか。
やはり魔法使いとしての格の違いは絶望的であるらしい。
「ええい、破ったか。しかしそれすら予測済みである! それはただの足止め! 今こそ本命だ!」
めげることなくエッゲルトは続け様に部下たちに命じて、事前に館全体に仕掛けておいた術式爆弾を次々と爆破させた。凄まじい轟音をたてて巨大な建物が崩壊する。
不覚にも屋敷の奥まで入り込まされ、崩壊から逃れられなかったオドレイヤはがれきの下だ。簡単に圧死するとも思えぬが、埋もれてしまえば身動きできまい。
そこへ東部マフィアで生き残った魔法使いたちが一致団結して、思い思いの魔法で追い討ちをかける。
一人一人では勝てなくとも、これほど束になってかかれば打ち負かす可能性はある。
「妥協するな、容赦するな、油断するな、全力を尽くせ!」
とにかくとどめを刺すまで攻撃の手を止めてはならない。
炎だろうが氷だろうが大岩だろうが念力であろうが、果たしてどれがオドレイヤに有効なダメージを与えうるのかは誰にもわからないのだ。だがやはり、それがどんな魔法攻撃であれ、相手が自由に動けないであろうタイミングを狙って畳み掛けてしまえば……。
無論、エッゲルトも得意の”乱れ操り刀剣”をとどめと言わんばかりに発動させた。あいにく崩壊の下敷きとなったオドレイヤの姿を確認することはできないが、こうやって手当り次第に攻撃していれば一つくらい当たるだろう。
そうして時間とともに勝ち誇り始めたエッゲルトがすっかり油断していたとき、突如として彼の背後に人の気配がした。その気配はエッゲルトが気がつくより前に、あきれたような調子で声をかけてくる。
「えげつないことをするのね」
「なっ! 貴様、どこからっ?」
姿の見えない遠距離から部下に向かって指示を出していたエッゲルトが息をひそめていたのは、執務室と呼ぶには寂しい地下室であった。頑丈な造りではあるが、簡単に発見されないようにと地下深くにあるため、とにかく狭いのが難点だ。基本的には安全策をとりがちな彼の根城にして、こういうときのための隠れ家である。
入り口である地下への扉は魔術的な封印を施しており、誰も通れなかったはずであるのだが……。
「そんなの普通に通気口から入ったわ。驚くことでもないでしょう?
それにしても、まさかあの大きな館がおとりで、その隣の掘っ立て小屋に秘密の地下室への入り口があるなんてね。オドレイヤ様の邪魔をしないようにと寄り道したのだけど、びっくりだわ。ふぅん、粗末な寝室だこと。内装だけがご立派なのが、かえって笑える」
警戒心を丸出しにしたエッゲルトが振り返った壁際、そこに立っていたのはオドレ三女神の一人。魔法の力でスライムに変身することができるというメイナだ。
しかしまだ崩壊に巻き込まれたオドレイヤの生死は不明で、少なくとも現時点ではエッゲルトが身を潜めているこの場所にも気がつかれていない。ならば彼女を相手にして交渉の余地はある。このままお互いに殺し合うのでは無粋に過ぎるというものだ。
「待ちたまえ、なにもそう急いで争うこともあるまい。……聞いているぞ、メイナ。お前がお前の上官であるオビリアをブラッドヴァンの次期ドンにしたいと考えていることを。
いつまでもオドレイヤに媚び諂っていていいのか? よくはないよな、野心を飼いならすのは大変だよ。これを機会に奴を裏切れ。そして私と手を組め。ともにオドレイヤを倒そうじゃないか」
「へーえ、それはそれはまぁ……」
魅力的かどうかはともかく、この提案には彼女も考える余地はあったのかもしれない。
ほんのちょっとだけ首を傾げて迷ったそぶりを見せて、それからメイナはとても優美に、そしてかわいらしく笑って答える。
「少なくとも……今はだめね!」
そしてメイナはテーブルの上の置物すべてを遠慮なく蹴飛ばした。大きな音を立てて、テーブルの上に整然と立てていたロウソクやお香、ナイフを突き刺した地図などが壊されて地面に落ちる。
それを見たエッゲルトはすっかり狼狽して、たまらず大口を開けた。あたふたと激しい動揺が見て取れるのは、滑稽にさえ見えてくる。先ほどまでの威厳が台無しだ。
しかし落ち着いてもいられない事情がある。
「なんてことを! それは居場所を隠すための魔術装置! オドレイヤにここがばれる! 殺される!」
「うふふ、じゃあね! たぶん大変な羽目になるでしょうけれど、どうかお元気で!」
くすくすと小馬鹿にしたように言い捨てると、身を翻したメイナは魔法によってスライム状態に変身して壁を登り、地上へと続いている小さな通気口へと逃げ込んでしまった。
笑い事ではないと叫ばずにはいられなかったが、叫んだときにはすでに彼女の姿は消えている。
こうなっては腹を決めるしかない。自分一人で果敢に戦いを挑むまでだ。
「それより、そうだ、がれきの下のオドレイヤはどうなった?」
いつの間にやら、もうもうと煙が立ちこめる崩れたがれきの上に人影が立っていた。
当然、それはオドレイヤである。当たり前のように無傷で立っている。
「死にはしないか、あの程度では! さすがだよ、あいた口が塞がらない!」
エッゲルトは今度こそ強大な敵を倒そうと、ひたすら遠距離から魔法攻撃で狙い続けることにした。
だが、それは懸命な努力に反して長時間続かなかった。
精一杯の抵抗むなしく、最終的に負けた彼は地上へと引き上げられたのだった。
「命乞いはせぬ……!」
これで私も死ぬのだな……そう思ったエッゲルトは諦観する。
オドレイヤは裏切り者を許さないし、許されないからには人としての扱いを期待してはいけない。どうあがこうが彼の敵はいつだって無惨な手段で命を絶たれてきた。
それなら無駄な抵抗はせず、いっそ潔く殺された方が幸せだ。どうせ一瞬ですむ。
「してどうするのだ、馬鹿者。顔を上げろ」
「なっ……は?」
「楽しませてもらったので怒りも失せた。こんなところで死んでもらってはつまらん」
「つまら……ないと……? つまり……?」
「そもそも所詮は八つ当たりだ。本気で東部マフィアをつぶそうと思っていたわけではない。むしゃくしゃしていたので手当り次第に戦闘不能にしておいたが、ほとんどの人間が生きてはいるはずだろう。万が一にも情けなく命乞いをしてきたら殺してしまおうと考えていたがね、なっはっは!」
そう言ってしまうとオドレイヤは豪快に笑い飛ばした。暴れ回ったおかげか機嫌もいいようで、エッゲルトを騙すための演技でもないようだ。
攻め込まれて危うく死ぬところだった東部マフィアにしてみれば笑い事ではないものの、どうやら本当に命だけは助かったらしい。感謝したくもなるが、さすがにそれは倒錯的だ。これもオドレイヤの気まぐれの一つかもしれない。
「しかし防衛騎士団の監視は東部マフィアに一任していたはず。それが今回、あの防衛騎士団は魔獣退治に討伐隊を出したという。自分より下の人間の暴走を許しちゃいかんな。マフィアの威厳が廃れる。東部マフィアは責任を取るべきだ。……反論はあるかね?」
「ええ、いえ、もう全くその通りで」
「これから私は防衛騎士団をつぶしにいく。いい暇つぶしになるだろう。お前も来い」
「……ぜひとも、ご一緒させていただきましょう」
あまりの出来事に相変わらず開いた口は塞がらなかったが、うなずかずにはいられない。
なにしろあの最強最悪の魔法使いであるオドレイヤと戦って、しかも負けたにもかかわらず、それでも生きていられるというのだから。惨めさを嫌って命乞いはしないつもりだったが、かといって向こうから与えられた許しを拒否するほど達観してもいない彼である。
こうして東部マフィアのボスであるエッゲルト・シーは怒りが喜びにかわったオドレイヤに連れ従って、ブラッドヴァンに楯突いたユーゲニア防衛騎士団の粛正に向かうこととなった。
すなわち、反逆者の皆殺しを目的とした襲撃である。