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17 真なる者

 一方そのころベアマークでは、リンドルに向かったアレスタたちとは別行動をとっていたサツキが一人で情報屋に赴いていた。そこでは情報屋の主人であるオーガンと、ちょうどデビルスネークに関する会話を繰り広げていたのである。

 もちろん、緊急事態とあって金に糸目をつけている余裕はなく、必要な情報料はサツキがいくらでも払うことに同意している。

 サツキは足下を見られて桁外れの情報料を要求されたのではあるが、出すべきときに出してこそ、入るべきときに入ってくるのが天下の回りものと呼ばれるお金である。

 そう考えるくらいにはサツキも金銭に執着していないし、そこまでケチな男というわけではないのだ。

 ふっかけたわけではないだろうが、どちらかといえば頑固者の部類だったサツキから、意外にも簡単に多額の情報料を得られることに気をよくしたのか、いつになく上機嫌で饒舌なオーガンが言い聞かせるように語るのは、悪魔の怪物デビルスネークのことだ。


「いいか、デビルスネークとして召喚された魔獣は、それで終わるわけじゃない。デビルスネークっていう悪魔の怪物は、やがて完全体の“真なる怪物”に覚醒するという恐ろしい神話があるのさ。あまりにも昔のことで証拠も何も残っていないからか、現代の人々には忘れ去られた神話だがな。それによれば、悪魔の怪物デビルスネークも本当のところは幼生に過ぎない。つまりだな、大きくなる前の子供みたいなものなんだよ」


「へぇ、悪魔の怪物が幼生だって? じゃあ、まさかデビルスネークは何かに進化するのか?」


「もちろん。そいつは俺たち現生人類が文明を作り始める以前に存在したという、かつての絶対的なる支配者さ。もはや魔獣ではなく、神獣といったほうがふさわしいくらいの怪物だな。もしもそれが本当の意味で目覚めれば、今の世界は確実に終わるだろう」


「まさか。世界が終わるだって? ……冗談なら許さないぞ?」


「そうだな、にわかには信じがたい。……たがよ、その真なる怪物が覚醒してしまえば、おそらく世界中の魔力を枯渇するまで吸い取って、最終的には人々を容赦なく食い殺すはずだぜ。おー怖いねえ、そんな怪物の召喚を考えている人物がいるかもしれないってのは」


 本気で怖がっているのかいないのか、オーガンはわざとらしく身震いをして見せた。会話を円滑に進めるためにと、サツキは事前に彼には必要な情報をすべて教えてある。

 アレスタがリンドルの村で出会った魔法学者であるブラハムの名前が、先ほど騎士団の手に入れた反魔法連盟の主義者リストに載っていたこと。そうして反魔法連盟の一員であるかもしれない疑いが生じたブラハムから、アレスタはデビルスネークに関する調査を頼まれていたこと。そのブラハムは召喚魔法を得意とするエイクの師匠にもなっていて、彼が団長を務める自警団の顧問に就任していたことなどだ。

 といっても、裏社会でも名の通ったベアマークで一番の情報屋である彼は独自の情報網を手広く構築しているようだから、わざわざサツキが教えなくても勝手に知っていたことが多いのだろう。

 そのくせ、ただの一つとしてアレスタやサツキたちに無償では教えようとしなかったのだから、どこまでもケチ臭い情報屋である。

 ぶり返してきた苛立ちを飲み込みながら、非難がましい目つきでサツキは彼の顔を覗き込んだ。


「しかし、なんだってリンドルに? こう言っちゃ悪いが、あそこは寂れた田舎だろ? 世界を滅ぼすような怪物が眠るには静か過ぎないか?」


「なんでもリンドルって場所は、ずっと大昔には高濃度の魔力が豊かに分布した地域でさ、代々に渡って召喚魔法を発達させた名だたる魔法使いの一族が住んでいたらしい。……といっても、その一族が残した召喚魔法の知識は時とともに失われたらしくて、今ではほとんど面影のない静かな農村だけどな。でも、事実として過去にはそうだったからこそ、あの辺鄙な村に今でもデビルスネークにまつわる逸話や寓話が残っていたんだろう」


「ふーん。それで面白半分に怪物の話だけは残っていたってわけか?」


「さて、どうかな? 聞いたところによると、村の周囲に広がっている森の外れには古びた祠があって、その中に安置されている石碑には、今では使われていない古代の文字でこう書いてあるそうだぜ。『デビルスネーク、ここに通じる』って」


「森の外れの祠にねぇ……」


 いかにも秘境というか、時代とともに人々の記憶から忘れ去られてしまいそうな場所だと、そんなことをサツキはのんきに思った。

 当然彼は事情を知らないので、この時点では他人事だ。

 それには情報屋オーガンのほうも同意だったらしく、いかにも不思議がっていそうな口ぶりをして続ける。


「どうやらエイクって奴の祖父は、それをどこで知ったのか、デビルスネークという神話レベルの召喚獣を使役することへの誘惑に負けて、禁忌に手を出したのだろう。

 今のリンドルに召喚魔法を得意とする人間はほとんど残っていないが、それでも彼は遠い先祖の血を色濃く受け継いで生まれたらしいぜ。いわゆる魔法的な突然変異者といってもいいだろう。とにかく召喚魔法に関しては天才的な男だったと聞く。その界隈では世界的にも有名だった。当の本人は表舞台に出てこずに隠居してたがね」


「なるほどね。わかっていたことだが、優秀な魔法使いの誕生には色々と原因があるわけだ。おそらく彼の場合には、それは過去の実績を受け継いだ血筋だったってことだろ。……魔法使いは親に感謝しなくちゃな」


「そう言えるだろう。そして天才である彼は一世一代の召喚に挑戦して成功した。しかし彼一人の力によって召喚されたデビルスネークは魔獣として不完全体だったらしく、リンドルへ駆けつけた騎士団によって退治されてしまったのだ。結局、それっきり召喚者である彼自身の姿も見当たらなかった。きっと死んでしまったのだろう」


「そうそう簡単にはいかないよな」


 強力な魔法は誰もが憧れるが、決して万能ではない。時として術者本人にも危害が及ぶ諸刃の剣なのだ。

 そのことを知っていたサツキは腕を組んで納得した。

 しかし、十年前の事件は優秀な召喚師が一人で引き起こしたものであるとするなら、すでに天才的だった彼が死亡している今回の場合は、噂のデビルスネークが召喚される危険性はどれほどあるのか。

 たとえば村に滞在するブラハムが実際に反魔法連盟の一員だったとして、どこまで本気で召喚計画を練っているのだろうか。

 首をひねって考えていたサツキは想像するのを諦めたのか、聞こえよがしに大きなため息を漏らして、全く関係のないことを彼に尋ねた。


「ちなみにさ、さっきから気になっていたから俺にも教えといてくれよ。デビルスネークが進化することによって誕生する、その怪物の名前は?」


 よくぞ聞いてくれたと言いたげに、にやりと笑った彼はもったいぶってこう言った。


「そいつの名は、クァ=トゥルー。古代語で“真なる者”という意味さ」







 エイクの祖母アイーシャから手に入れた強力な魔力増強剤を自分自身に使うことによって、蓄えてきた魔力の暴走に耐え切れなくなった身体の内側から肉体そのものが崩壊した結果、一種のエネルギー体とも呼べる“輝く魔力の塊”となったブラハム。

 そんな状態の彼が吸収されるようにして怪物の体内に取り込まれると、大量の魔力を一度にして得た怪物デビルスネークは、その魔力を“覚醒”のために使用した。すなわち生物としての急激な成長を超越した“進化”であり、高次元生命体へのフェーズシフトを起こしたのだ。

 八つの頭をもったヘビの怪物デビルスネークは、その全身の大きさを徐々に倍増させながら、見る見るうちに姿かたちを変貌させていく。

 まず目について形を変えたのは、デビルスネークの長い尾である。尻尾の先端が丸まり、一つの大きな塊となると、それが新しい九つ目の頭になった。

 すると最初からあった八つの首も、それぞれに不気味さを増しながら、より巨大でいかつい頭部へと造詣を変化させる。

 いかめしい角が飛び出し、鋭く並んだキバは数を増やし、そして伸びたヒゲが風に漂う。

 物々しい見た目が、怪物にさらなる風格を与えていく。

 最終的に、それまで八つ首だったデビルスネークは、合計で九つの首を持つ新しい怪物の姿へと覚醒を果たした。悪魔の怪物という呼び名もふさわしくないかもしれない。

 ヘビを超えた神域の生命体、その名は竜。

 それは九頭竜。

 真なる者、クァ=トゥルー。

 それは、かつて発動された偉大なる“世界魔法”(大陸全土に影響する大規模魔術のことで、あらゆる国家が協力して世界規模の魔術式を展開させる。発動まで数年を要する国際的な一大事業であるが、それゆえに強力な効果を有する魔法)の効力によって、新しく大陸全土に広まった共通かつ唯一の公用語であり、魔法の力によって人為的に作られた世界統一言語“ユーリ”が成立する以前の、今では忘れられた古代言語に基づいた怪物の名前である。

 人間のものではないので正確な発音は誰にもできない。

 見る者を圧倒する、冒涜的な迫力。もはや直面した人間の精神を狂わせるほどの、すさまじい汚染力をもった瘴気を身にまとう真なる怪物。

 あらゆるものが別次元をうかがわせる。

 まともに戦える相手ではない。


「なんて怪物だ……」


 どちらかといえば周囲に満ちている魔力の“変化”や“流れ”に敏感なアレスタは、もやもやと立ち込めた瘴気に精神を汚染されつつあったのか、急激な立ちくらみに襲われた。

 散り散りに音が乱れ、視界がぼやけ始めているのだ。

 具体的な攻撃が繰り出されるまでもなく、ただそこに存在しているだけで、その真なる怪物は対面する人間に負の影響を撒き散らす。魔法への耐性がない人間だったなら、その姿を直視しただけで、ただちに正常な意識を奪い取られて気絶していたはずだ。

 アレスタは直感的に勝ち目がないと判断したのか、この場から逃げ出すことを考えて、その意見を問うべくイリアスの顔を見た。


「まだ大丈夫、今ならば間に合う――!」


 しかし、誰もが己の弱さにひれ伏すわけではない。それを強さに塗り替えて立つ人間も存在する。

 悪魔を超えた真なる存在、クァ=トゥルー。

 立ち向かう人間に畏怖の感情を与える怪物の姿を目にしてなお、決してイリアスは屈しなかった。

 臆病な気持ちに襲われて身を縮こませるどころか、むしろきつく歯を食いしばり、二本の剣を握り締める両手の力を強めて、先ほどまでとは比べ物にならないほど激しい闘志に燃えていたのだ。

 窮地に立てばこそ、かえって義憤に駆られて強くなるように。

 それがベアマーク騎士として活躍してきた彼女、イリアスの真髄である。

 彼女はそんな自分の一面に改めて驚きこそすれ、不思議には思わなかった。そうであってもらわなくては、こういった場合に誰かを助けることなど不可能なのだ。


「グギギギギ……!」


 声にもならない声、音にもならない音。この世のものならざる周波数をもっているのか、怪物の咆哮は、あたかも脳内に直接響いてくるようだった。

 威嚇か――と、わずかに進撃をためらったイリアスは眉をしかめる。

 野望のため己の命を犠牲にしたブラハムが、どこまで計画的に狙っていたのかはわからない。それでも結果として彼の自己犠牲的な投身は成功し、悪魔の怪物デビルスネークとは明らかに別種の、ある種の神々しさを感じるほどの化け物に進化させることに貢献したのだ。

 あの怪物の中には、もはやエイクの意思など微塵も残ってはいないだろう。

 もはや人間への攻撃にためらう善意や葛藤など、少しとして持ち合わせてはいないだろう。

 あとは反魔法連盟の主義者ブラハムが期待したとおりに、文字通りの真なる怪物として、圧倒的なまでの力をもって世界を滅ぼしてくれるに違いない。騎士団にさえ止められない凶悪な化け物が、ここに誕生してしまったのである。

 しかし、それでもアレスタたちには希望の灯が残っていた。

 勝利へのかすかな道筋が、確かに彼らの眼前に輝いていたのである。

 なにしろデビルスネークの状態でさえ魔力に枯渇していたのだから、それ以上の存在であるクァ=トゥルーとなれば、やはりすでに必要なだけの魔力が足りないがゆえの反応を見せていたのだ。

 それは緩慢とした動きの不自然さだけではない。

 ただれた皮膚からは血のように体液が滴り、徐々に崩壊が始まっているようにも見えた。

 そもそも瘴気が濃く見えるのは、残存する魔力の濃度が低いためである。たとえば人間の呼吸は酸素を取り入れて二酸化炭素を排出するものであるが、こうした怪物にとっての呼吸と呼ばれるものは、多くの場合、魔力を取り入れて瘴気を排出するものなのだ。

 すなわち、こうして瘴気が色濃く見えるのは、大気中に残っている魔力の量に対して、瘴気の割合が多くなっていることを意味している。

 つまり、その分だけ純粋な魔力濃度が減少しているのだ。

 人間が通常規模の魔法を発動させる分には、ごく少量の魔力濃度でも事足りる。よほどの枯渇状態でもない限り、魔法使いが環境的な魔力不足を理由にして、普通の魔法すら全く使えなくなるような状況はなかなかない。

 それはたとえば、人間にとっては酸素が薄く感じる高山地帯であっても、無理をすれば走ることはできるのと同様である。

 そもそも一般的な地表においては酸素がなくなって真空状態となる場所などないのと同じように、普通の状態である地上において完全に魔力がなくなることはない。

 だが、それはあくまで人間の場合に限定した話である。

 この物質世界において普通に存在するだけでも大量の魔力を必要とする神獣では、人間の魔法使いなら気にも留めない程度の魔力不足でも、すぐに存在の崩壊が始まってしまうものなのだ。

 もちろん、不安定なものを安定化させる方法はある。存在の維持に必要な分だけ、定期的に一定量の魔力を補給すれば、ひとまず問題はなくなってしまうのである。

 それを本能的に察知しているからこそ、クァ=トゥルーは自身の存在を物質世界に定着させるため、必要量となる大量の魔力を求めて動き始める。ここから最も近い場所に存在する「魔力が豊かな土地」とは、まさしく人の集まって誕生した商業都市ベアマークである。

 本能的に大気中を循環する魔力の流れを感じ取った怪物は、まるで花の香りに群がる虫のように、まずはベアマークを目指して動き出した。

 だがそこへ、その怪物の前に立ちはだかる一人の少女。


「この怪物を、町に向かわせてはならない……!」


 今度こそ恐れを振り払ったイリアスである。

 このとき、イリアスは十年前に出現したデビルスネークの騒乱に巻き込まれた父のことを思い出していた。それとともに、十年前の惨劇で犠牲になったリンドルの村人たちのことをも思った。

 あのような不幸な事件の再来を許してはいけない。

 彼女は己が騎士の一人となったあの日から、幼いころ不幸に巻き込まれた自分のように悲しむ人間を、もう二度と生み出してはならないと誓ったのだ。

 だからこそ自分が倒れるその瞬間まで、代わりに誰かを守るためならば、イリアスは果敢に一人で立ち向かうことができるのである。

 明らかに無謀な行為だとわかっていても、彼女の瞳は揺るがない。

 両手に剣を、心に誓いを。

 たった一人で真なる怪物へと戦いを挑んだ。


「イリアス、危ない!」


 懸命に制止するアレスタの声も、イリアスには届かなかった。

 いや、たとえ彼女の耳にアレスタの言葉が届いていたとしても、彼女は従わなかっただろう。

 なぜならこの行動は、彼女にとって、アレスタを守るための行動でもあったのだから。いくら治癒魔法を使うことのできるアレスタでも、今回ばかりは敵が敵、さすがに危険すぎるだろうことを彼女は理解していた。

 だからこそ、彼女は身を挺して切り込んだのだ。

 義務感というよりは、彼女なりの優しさかもしれない。誰かを思う優しさは時として、人を何よりも強くしてくれる。


「高速化魔法!」


 イリアスは自分に反応速度を高速化する魔法をかける。身体を巡る魔力が潤滑油になって、あらゆる動作のスピードが上昇する彼女の得意魔法だ。

 その速度を最大限に活用して、まずはイリアスが先手を取る。

 身の丈十倍はあろうかという怪物を相手にしながら、二刀流で素早い剣戟を繰り返すイリアスは、意外にも一方的な攻勢を見せた。

 彼女が行動を開始してしばらく、巨体をもてあますクァ=トゥルーが手をこまねいているようにも感じられたからだ。


 ――これなら勝てるかもしれない。


 祈るようにアレスタは思ったが、もちろん怪物もやられてばかりではない。イリアスへの反撃が穏やかなのは巨大さゆえの遅さであって、彼女に比べて能力的に弱いわけではないのだ。逆に言えば人間相手に慌てる必要がないという余裕の証拠でもあった。

 そして、それは次の展開を促す。

 厚いうろこに覆われたクァ=トゥルーの大きな胴体の至る所から、まるで触手のような細い“腕”が、次から次へと芽吹くようにして何本も伸びたのだ。それぞれの先端には鋭い鉤爪が備わっている。おそらく獲物を狙うためのものだろう。

 怪物に現れた更なる変化は、当然それだけで終わらない。

 クァ=トゥルーの背中から、骨だけの翼が突き出したのだ。怪物は空を飛ぼうとして羽ばたこうとするが、骨格ばかりで羽のないそれは大気をつかむことが出来ず、ただ不気味に轟音を発生させるだけだった。

 しかし、それがいつ完璧な翼に変貌するかもわからない。

 とどまることを知らないまま豪勢に魔力を消費しているのか、立ち込める瘴気がより濃くなっていく。

 その深みの中で、息苦しさに襲われたアレスタは驚きに声を振り絞った。


「まだまだ変化するつもりかっ?」


 九つの竜の頭がそろったところで、全体のフォルムが完成されたと思われた怪物。

 なのに、まだまだ真なる怪物としての最終形態が残っているというのか、まるで粘土をこねるかのようにして、少しずつ外見を変えていく。

 より強く、より巨大に。


「させませんっ!」


 もちろん敵である怪物の“成長”を黙って見守っている義理はない。

 イリアスはより激しく、より力を込めて剣を振るった。

 ところが、イリアスの与えた傷が次から次へとふさがり再生していく。真なる怪物の自然治癒能力だ。デビルスネークのときとは違って、もはや痛みを感じている様子すらない。

 まるで砂の山に剣で切込みを入れているかのように、手ごたえというものが一切感じられなかった。

 果たして本当にこのまま剣による攻撃を続けていて終わりが来るのだろうかと、傍から見守ることしか出来ないアレスタは不安に思った。

 それでもイリアスは諦めない。勝つための努力を見失うことなどしない。

 度重なる剣戟が結果として無駄に終わることとなろうとも、だからといって攻撃の手を緩めなかった。

 諦めることが負けに直結することを知っているからだろう。

 だがしかし、当然ながら攻撃を繰り返すイリアスは疲弊していく。たぐいまれなる集中力にしても、いつまでも緊張したままで持続するものではない。

 さすがに人ならざる真なる怪物が相手では、気持ちだけではどうにもならない部分があったのだ。


「俺には何もできないのか……?」


 そんな彼女を見守るアレスタは、戦いに参加せず背後に隠れるようにしているしかない己の無力さが悔しくて、思わず歯を食いしばった。

 彼には有効な武器もなく、戦うための魔法もなく、鍛えてきた肉体も、学んだ戦術もない。イリアスの攻撃に加勢しようとも、かえって邪魔にしかならない。

 世界で唯一使えるという治癒魔法はあるのだが、それも自分自身にしか使うことができない。どうやってもイリアスのために治癒魔法を使ってあげることができないのだ。

 アレスタは固唾を呑んで趨勢を見守ることしかできなかった。

 すると、程なくしてイリアスがわずかな動揺を見せる。


「くっ、動きが早くなってきた……っ?」


 それまでは飛び回る羽虫を軽くあしらう程度だった怪物の抵抗。

 だが、めげずに剣を振るい続けてきたイリアスの存在を有害な敵であると判断したのか、ここにきて怪物からの本格的な反撃が始まる。

 明らかな攻撃の意思、つまり殺意だ。

 一つの首がイリアスを捉えた。

 見下ろすように大口を開けて、霧状の液体を発射した。

 青紫色に臭気を帯びたそれは、毒の霧だったのかもしれない。かろうじて直撃を回避したものの、わずかに吸い込んだらしいイリアスは痺れに襲われてたじろいだ。

 たじろいだのは一瞬だが、その一瞬が致命的。

 わずかな隙が死を招く。

 無数に伸びた怪物の触手が束になって、それらが一斉に放物線を描くようにして、たじろいだイリアスへと襲い掛かったのだ。


「イリアス、よけてっ!」


 駆け込んだアレスタは身動きの取れなかったイリアスを突き飛ばすようにして逃がすと、そのまま彼女の身代わりとなって、夥しい触手の攻撃に晒された。腕を、足を、はらわたを、どこまでも容赦なく貫かれて血反吐を吐く。たとえようのない激痛が彼を襲う。

 しかし、これでイリアスは無事だったはずだ。

 アレスタは気を失いそうになりながらも、そのことを思って安堵する。

 ところが、とっさにアレスタが体を張って助けたはずのイリアスにも触手の魔の手が伸びる。

 それに気付いた彼女は慌てて回避しようと努力したが、うまく姿勢が定まらず、ふらふらと倒れこんで膝をついた。思っていたよりも毒の影響を強く受けてしまったらしい。

 その場で苦悶の表情を浮かべたまま、避けることも防御することもかなわず、ついにイリアスは動き出せなかった。


「イリアス――!」


 そう叫んだアレスタの目の前で。

 いくつもの触手が勢いを増して突撃し、身にまとっていた鎧ごとイリアスの身体を串刺しにするように貫いて、胴体を貫通したままその動きを止める。

 全身の至る所に穴を開けられた彼女は激痛に顔をゆがめ、大量の血を吐いた。

 最初こそ貫かれた触手を引き抜こうと両手に力を込めたイリアスだったが、やがて万策とともに力尽きたのか、うごめく触手によって串刺しにされたまま、彼女はぐったりとして意識を失った。

 真なる怪物は動きのなくなったイリアスを無造作に遠くへ投げ飛ばすと、まるで何事もなかったかのように体の向きを変えて、ゆっくりとベアマークへの進軍を再開した。

 もはやイリアスやアレスタのことなど眼中にはないらしい。

 己に立ち向かってくる邪魔者は一匹残らず退治し終えたとばかり、いかにも悠々とした様子で移動を開始すると、クァ=トゥルーはアレスタたちのもとを離れていったのだ。

 二人に絶望だけを残して――。

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