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14 デビルスネーク

 そこにいたのはブラハム。

 今はもう姿の見えない愛弟子に向かって、気持ちばかりの謝罪を告げる。


「すまないな、エイク。もはや魔獣としての領域カテゴリーを超え、神獣などと呼ばれるデビルスネークともなると、この周囲に存在する環境的な魔力程度では質も量も少なすぎて、うまく召喚することができないのだよ。召喚するために足りない魔力の分は、だから術者の命と引き換えられる」


 そう言って、ブラハムは“それ”を見上げる。

 あまりにも大きく、そして幻想的な姿だ。

 エイクに召喚されたばかりのデビルスネークは、もうもうと周囲に立ち込めた濃い“もや”によって、その巨大な全体像を鮮明に拝むことが出来ない。

 けれど、ただ目の前に立っているだけだというのに、この世のものとは思えないほどの畏怖を覚えてならないブラハムは先ほどから全身の震えが止まらなかった。

 召喚された際の衝撃によって周囲の地面を円形状にえぐり返し、その余波であたり一面の木々をすべてなぎ倒して、あまりに圧倒的な存在感を放っている。

 それは一体の恐るべき怪物。

 視界を奪うほどに漂っていた魔力による濃い霧がすべて風に流されて消えてまうと、その異様な怪物の遥かなる姿が、呆然と見上げるブラハムの目にはっきりと確認された。

 巨大なヘビの頭を思わせる八つの首。それらはつながった腹部で一つの束になり、そのまま後背部へと長く太い尾を形成していた。

 まるで一匹の巨大な八つ頭のヘビ。

 たまらずゴクリとつばを飲み込んで、抑えきれない感嘆を漏らす。

 そこにいないはずのエイクへと語りかけるようにして、ブラハムは先ほどの説明の続きを述べ始めた。


「……つまり召喚者は、デビルスネークの誕生とともに死んでしまうのさ。だが悲しむことはないぞ、エイク。そうやって君の祖父も最後の召喚に命を捧げたのだから」


 ブラハムが言ったことは事実である。

 なにしろエイクの祖父が自身の手記に書き残した秘密の文章によれば、十年前、デビルスネークの召喚が成功するとともに自分は命を失うであろうことを、最初から彼は覚悟していたようなのだ。

 悪魔の怪物の召喚には自己犠牲が必要であると知った上で、彼は人生最後の召喚魔法に挑んだのである。

 ことの詳細は数ページに渡って書き記されていた。もともとは未完成部分であったと思われた手記終盤の白紙ページに浮かび上がった、青白く輝く魔法文字によるものだ。

 本来、古代から伝わる本格派の召喚魔法とは、使い魔となる魔獣を召喚する代償として、人間の生きた心臓をささげるものだったという。

 それも、ただの心臓ではない。特に一流の召喚師として熟成された人間の心臓を必要とするのだと。

 歴史に名を残すほどの一流召喚師は、めったに生まれない珍しい存在だ。そんな人物が同じ国の中に、あるいは同時代に何人も存在する可能性は限りなく低い。存在しても世界で数人程度が限度であり、時代の運が悪ければ、最高位のマスターと呼べるほど秀でた技量を持った召喚師など、ただの一人として存在しないことだってありうる。

 それほど貴重な上級召喚師の生きた心臓――つまり生命――を代償にしてのみ、やっと召喚することの許される最高ランクの召喚獣は、なるほど簡単には人前に姿を見せることなどないのだろう。自身を生贄にしてまで怪物を召喚したがる術者もなかなかいない。

 だからこそ伝説にのみ名を残し、時代を経て神格化されていったのだ。

 しかしながら不可能と可能の境界は、魔法によってゆがめられることが多々ある。

 偶然、奇跡、あるいは宿命。それをどう表現しても正しくあり、また十分でもないだろう。

 召喚師としては未熟であるはずだったエイクの生命を代償として、ここに伝説上の魔獣、悪魔の怪物デビルスネークが再び召喚されたのだ。

 一度はデビルスネークとの契約に通じた召喚師一族の血脈であるとはいえ、ろくに修行をこなすことなしに、この難しい召喚を成功させてしまったのである。ひょっとするとエイクに眠る召喚師としての可能性は、彼の祖父以上のものだったのかもしれない。

 あんなにも従順でいてくれたエイクを失うには、まだ早すぎたのではないか――と、今後のことを考えるに至ったブラハムは少しだけ後悔した。

 これから修行を積めばエイクはもっと有能に成長して、それこそ本当に歴史に名を残すほどの召喚師となったかもしれない。そんな身勝手な未練を覚えたのだ。

 だがそれも一瞬のことだ。今さら時を戻せるわけではないのだから、過ぎたことをいつまでも引きずっている余裕はない。

 瞬時に己の気持ちを切り替えたブラハムは、懐に手を忍ばせた。大切に仕舞っていた小さなビンを取り出したのだ。

 そのビンの中には、とある粉末状の薬物が詰め込まれている。

 数回ほど軽く上下に振った直後にビンの蓋を開けて、召喚されたばかりで赤子のように動きの鈍いデビルスネークの鼻先へとビンの切っ先を向けると、そのまま中身をぶちまけるようにして投げつける。

 すると詰め込まれていた粉末状の薬品は若草色に輝きながら放物線を描き、まるで魔法の力によって操られるような軌道を見せると、そのすべてが漏れることなくデビルスネークの体内に溶け込んでいった。


「さぁ、ちゃんと効いてくれよ……。こいつはエイクの祖母に調合してもらった特級品だからな」


 ブラハムがデビルスネークに対して使用した粉末状の薬物は、一般的に“ひな鳥の目覚め”と呼ばれる、第一級の禁止薬物である。

 一定量を振りかけられた相手に対して、その薬物の使用者のことを、対象者にとっての親であると思い込ませるという強力な暗示効果を持つ魔道具だ。つまり強制的に主従関係を結ぶことが出来るのである。

 直接の召喚者ではないブラハムはこの薬物を使用することで、かりそめの飼い主として命令を下し、思いのままにデビルスネークを操ろうと考えていたのだ。もちろんそれを使用したブラハムにしても、耐魔能力の強いデビルスネークが簡単に制御できるなどとは思っていない。

 あわよくば――と期待していただけである。

 悪魔の怪物によって世界が蹂躙される様を見届けたかったからこそ、それまでは自分が殺されたくはなかったという、ただそれだけの理由だ。

 だから本当は使用しなくてもよかったのだ。


 ――あとは命じるまでもない。魔力が尽きるまで存在し続けるだろう。


 ブラハムは思った。

 生物としての――その範疇にあるのかは怪しいが――生存本能に従えば、エネルギー源としての魔力を生命維持のために必要とする魔獣デビルスネークは、もはや誰に命令されるともなく、自由気ままに必要量の魔力を求めて、世界中で大いに暴れてくれるはずである。

 人類が自然豊かで魔力の豊富な地域に都市を形成したとする学説が正しければ、この世界で持続的に活動するために大量の魔力と、あるいは魔力の代わりになるであろう食料としての人肉を必要とするデビルスネークは、そのどちらもが簡単に手に入ると考えられる大都市を中心に世界を渡り歩き、結果として様々に破壊の限りを尽くすのだ。

 そしてやがては破壊をもたらす神となり――。


「さぁデビルスネークよ、魔法に縛られた世界を解放してくれ!」


 この不平等な魔法世界を滅ぼしてくれることだろう。







 突然の襲撃者に騒然となったベアマークを出てから、どれほどの時間が経過しただろうか。

 俺とイリアスがやっとの思いでリンドルに到着したとき、最初に耳にしたのは不穏なざわめきだった。

 遠くかすかに誰かの悲鳴が聞こえたようにも感じられた。どうやら尋常ではない緊急事態が発生しているようである。

 いわゆる都会的な街であり日常的に人々の活気にあふれているベアマークとは違って、ここリンドルといえば、周囲一帯を広大な森と山々に囲まれた小さな農村である。大自然に囲まれた村人の気風はベアマークと比べて穏やかなこともあってか、ひそかに俺が気に入っている場所である。

 そんな牧歌的空気に満ちた村リンドルが、今ではなんともいえない異様な雰囲気に包まれているような気がしてならない。

 悪いことがなければいいが、悪い予感というものはよく当たる。


「アレスタさん、このまま村の中心部へ急ぎましょう。なんだか様子が変です」


「そうだね、行ってみよう」


 事情がわからなければ俺たちも動きようがない。

 村の異変も気になるものの、まずは反魔法連盟のメンバーであるかもしれないというブラハムさんへの疑いを晴らすためにも、直接彼に会って話を聞いたほうがいい。

 そう考えた俺たちは、ひとまずエイクさんのいるであろう薬屋へ向かった。





 魔法耐性のない人間や低級の魔獣に対して強力な催眠効果を発揮する危険薬物が、デビルスネークに対しても効果的だったことはブラハムにとって意外な事実だった。デビルスネークを酒に酔わせて退治したという昔話も、あながち間違いではないのかもしれない。

 しかしそれでは困るのだ。

 たかが人間ごときを相手にして簡単に退治されるようでは、わざわざ苦労してまでデビルスネークを召喚した甲斐がない。

 悪魔の怪物には、悪魔らしく強くあってもらわなければならない。

 だが何故だろう。こうして従順な態度でブラハムの目の前に佇むデビルスネークには、不思議と少々の頼りなさが感じられた。ある種の弱さといってもいい。

 もちろん低級な魔獣などとは比べ物にならない戦闘力を秘めているのだろうが、悪魔と呼ばれるデビルスネークがもっているであろう本来の強さを、未だ完全には発揮していないように見受けられた。


 ――どうやら本格的に魔力が足りないらしい。


 召喚するために大量の魔力を消費してしまうのは当然だが、無事に召喚された後も、この世界で活動するための実体を持続させているだけで、常時大量の魔力を必要とするデビルスネーク。さすがに上位存在であるだけに、魔力効率が悪い。

 どうやらブラハムが予想していた以上に魔力消費が激しいらしく、すでに必要な量の魔力が枯渇しがちであった。まだ何もしていないこの状況で不安定なのだから、いざデビルスネークが本来の能力を出し切って暴れようと思えば、さらに大量の魔力を必要とするだろう。

 今の状態では怪物としての存在が不完全なまま、当初の予定よりも早い段階で魔力が尽きることとなり、あっさりと跡形もなく消滅してしまいかねない。騎士団によって退治される以前にデビルスネークが自然消滅してしまう危険性があった。

 その問題を一時的にも解消するには、有効的な手段はたった一つであるように思われた。

 エネルギー源となる魔力の補給。

 あるいは、それに代わるとされる人肉の摂取である。


「こんな弱々しい寝起きの状態では、今すぐベアマークに突撃させるのは危険のようだな。破壊する前に退治されてしまいかねない。よし、ならばデビルスネークよ。お前は手始めにリンドルを更地になるまで蹂躙しろ」


 もちろん普通のヘビと同じく発声器官の発達していないデビルスネークは唸るばかりで、言葉によって答えることはない。そもそも魔獣が人間の言語を理解しているのかなど誰にもわからないのだ。


「まぁいい。どのみち勝手にやってくれるだろう。私はしばし立ち寄る場所がある。それまで退治されるなよ?」


 返事代わりにうごめきだしたデビルスネークを尻目に、とある目論見のあったブラハムは森を走り抜けて目的地へ急いだ。

 向かった先はエイクの実家。村一番の薬屋である。

 店内ではエイクの祖母アイーシャが店番のため部屋の隅にある椅子に座っており、客のいない静かさの中でうとうとしていた。ところが、慌しく息を切らせて駆け込んできたブラハムに気が付くと、目を覚ました彼女は顔を上げて微笑んだ。

 彼女は愛する孫エイクの敬愛する指導者として、家族同然にブラハムを信頼していたのである。

 現時点では、デビルスネークが召喚されたことは村に知れ渡っていない。召喚の代償としてエイクが犠牲になったことも、すぐには露見しないだろう。

 しかしながら、それとて時間の問題である。そろそろデビルスネークが深い森を抜け出して、見つけた村の人間を手当たり次第に襲い始める頃合だ。

 雲行きが怪しくなる前に話をつけてしまおうと、ブラハムは単刀直入に切り出した。


「アイーシャさん、よろしければでいい。この店にある強力な魔力増強剤を、すべて私に譲っていただきたい」


「……おやまぁ。なにやら緊急の事情があるようですが、あれは業務用で副作用が強いですよ? こちらに並べてある一般向けのお薬が安全ですからね、使うならこちらがお勧めですが」


「いえ、それでは足りないのです。ありったけ、とにかく強烈なものを頼みます」


「ですがねぇ……」


 眉を曇らせたアイーシャは、唐突で不可解なブラハムの要求に困惑せざるを得なかった。

 魔力増強剤とは、魔法使いが自分の体調が悪いと感じたときに服用する風邪薬のようなものであり、弱った魔力を薬の力で増幅して、魔法の調子を整えるための医薬品だ。だが本来、そのために必要としているのなら、微力なものを少量でも使えば事足りるはずだ。

 しかしブラハムは店にある強力な魔力増強剤をありったけ譲ってほしいなどと、いかにも尋常ならざる量を要求しているのだ。

 普通ではない。普通でなければ、簡単にはうなずけない。

 長年の経験から薬の調合魔法に関する知識と技術を持ち合わせ、調合師の資格と責任を正しく備えているアイーシャにとって、彼女の販売する薬品が悪用されうる危険性について過剰なくらい敏感となるのは、たとえそれが信頼する相手であろうと仕方のない反応だった。

 もちろんアイーシャは心から疑っているわけではない。

 彼女は自身の大切な孫であるエイクのよき師、よき友であるブラハムに対して並々ならぬ信頼を寄せていた。人並みならず感謝さえ覚えている。いつも孫が世話になっているのだから、何か恩返しをしなければならないとさえ……。

 それゆえ、きっぱりと断ることも出来ずに困り果ててしまった。

 ところがブラハムは即答できない迷いを見せた彼女の表情に、無理を通せば要求が通ることを読み取った。恩義を受けた相手から頼まれれば強く断れない彼女の優しさは、狡猾な男にとって、付け込むことのできる隙に他ならない。

 親しみを感じさせる控えめな笑顔とともに、実に穏やかな声色を駆使して、


「安心してください、悪いことには使いません。もちろんお金は支払います」


 などと前置きを述べると、


「これもすべてはエイクのためなのです」


 と畳み掛けた。

 これにはアイーシャも説得されるしかなかった。

 年老いた彼女にとって、もはや目に入れても痛くないほどに可愛い孫であるエイクの存在は、すでに何よりも優先されるべきものであったからだ。彼のために必要であるとされたなら、ひょっとすると彼女は自分の命でさえも差し出したことだろう。

 魔力増強剤を用意すると言い残したアイーシャは、一旦奥へと姿を消した。強力な薬品は悪人によって盗まれることを警戒してか、用心のため店頭に並べていないらしい。薬屋としての管理責任が問われてしまうからだろう。

 ゆったりとした動きの彼女を見るに、すべてを用意して戻ってくるまでしばらくかかるに違いない。それまでブラハムは特にすることもなくなってしまう。

 ひたすら黙って手持ち無沙汰にアイーシャの帰りを待つ間は、小ぢんまりとした店内に、まるで人里を離れた大自然に溶け込んだような静けさが漂う。すでに悪魔の権化たるデビルスネークが召喚されたとは思えないほどの静謐さだ。

 おそらく彼女が孫を思う無償の優しさが、この空間を、愛に溢れる特別な世界に切り取ってしまったのだろうと思う。それは穏やかな日常のひと時であり、これこそ人が本来住むはずの“家”だ。

 もしもこの世界すべてが真実の平和に包まれていたなら、彼はそれを受け入れて幸せに命を全うしたことだろう。

 だが、現実は理想を裏切る。

 かけがえのない夢を吹き飛ばし、願いには罰を与えて地獄を見せる。

 この世界は正しき道理を捻じ曲げる“魔法”によって蹂躙されており、その悪しき魔法に魅せられた人間によって不幸が蔓延する。

 不安定で歪な構造をした魔法世界では、おそらく誰一人として、真実の幸福を手に入れることが出来ない。誰もが幸せを享受する永遠の繁栄など不可能だ。わずかでも魔法の存在が確認される世界では、それを不安視する誰もがみな等しく、大なり小なり心に病理を持った状態で生きねばならないのだ。

 相手を簡単に傷つけることの出来る魔法さえなければ、人は戦争をしない。

 人々の魔法に優劣さえなければ、人は差別をしない。

 愚か者が魔法の力に魅了されることさえなければ、人間の欲望にも歯止めがかかっていただろう。

 魔法の存在しない幸せで平和な世界を作ることこそ、反魔法連盟の一員となったブラハムが望んでいた夢物語だ。

 否、もはや夢ではない。

 すでに彼は、そのように魔法のない世界を作り直す段階に取り掛かった。

 自らの命を犠牲にしたエイクによって召喚されし悪魔の怪物デビルスネークが、やがて世界中の魔力を枯渇させれば、魔力を必要とする魔法も消え去ってしまう。あらゆる人間が等しく魔法の力を失った新しい世界が来る日を夢見ていたブラハムは、それを願っていた。

 魔法なき新世界のためならば、一度は全人類が滅ぼされてしまっても構わない。まっさらな大地から、新しい生命の誕生を一からやり直す未来をも、その後の平穏のため我々は受け入れるべきなのだ。

 ブラハムはそういう考えに染められた人間である。


「お待たせしましたね」


「いえいえ。ありがたくいただきます」


 考え事をしていたブラハムは自分の両頬を叩くと、現実に意識を戻した。夢見心地では足元をすくわれてしまう。安心して気を抜くのはすべてを終えたあとだ。

 死後で構わない。


「はい、どうぞ。危険ですからね、これは慎重に取り扱ってください」


「もちろんですとも」


 彼女から受け取った魔力増強剤のすべてを懐に仕舞いこんだブラハムが、このまま薬屋を出ようと扉に向き直ったときだ。

 どたばたと足音を無遠慮に響かせて、すっかり動揺して汗だくになった一人の村人が駆け込んできた。


「おや、ブラハムさんではありませんか! 自警団団長のエイクがどこにいるのか、ご存知ありませんかっ? とんでもない緊急事態なのですが探しても見当たらないのです!」


「緊急事態?」


「そうです、村の外れに怪物が!」


 これにブラハムが答えるより早く、血相を変えてアイーシャが立ち上がった。


「か、怪物!」


 精一杯の悲鳴は年相応にかすれており、その目には恐怖が色濃く反映されていた。

 長い年月を生きてきた彼女が、その人生において最も恐れるものを見詰める視線……。

 あらゆるものに対して魔法が優勢となっている世界においては、誰もが魔法に対して清濁を含めた様々な思いを併せ呑む。その多くが魔法の力を持つ人間に対する不信感と脅威、あるいは嫉妬と嫌悪であり、究極的には身内に対してさえ素直になれず、何をしですかわからない魔法使いを心の底から信頼して尊敬できる人間は少ない。

 なぜならばそれは、たった一人の魔法使いであってさえ、いとも簡単に平穏な日常を破壊しうる危険な存在であることを、誰もが歴史を通して理解しているからである。

 あるいはそんな魔法使いへの恐怖や危険認識を飛び越えて、やはり最も畏怖すべき人外の対象が、現代となっても依然として存在していた。

 無能力者に優越しているはずの魔法使いを含めた全人類が、同じ立場で共通して畏怖するほどの大いなる存在。

 それは人ならざる上位の魔物、魔獣や神獣である。

 彼女が持っている怪物に対する異常なまでの恐怖心を知ってか知らずか、すっかり落ち着き払っているブラハムは穏やかな表情だ。


「アイーシャさん、いきなり怪物などと聞いて不安でしょうが、とにかく落ち着いてください。まずは詳しく彼の話を聞いてみましょう」


 そう言って、視線を流したブラハムは村人に説明を促した。

 当然ながらブラハムには怪物の見当が付いているのだが、そこは演技である。


「最初に森の動物達が騒がしいって気が付いた人がいて、何人かで森の様子を確認しに行こうとしたらしいんです。そしたら森のほうから、なにやら八つもの巨大なヘビの頭が見えたようで……。あまり確かなことは言えませんが、そいつは十年前に村を襲ったデビルスネークじゃないかって」


「ひ、ひぇぇ……」


 顔面蒼白となったアイーシャが壁に寄りかかるようにして震えている。十年前の恐ろしい記憶が蘇りつつあるのだろう。きっと彼女が特別臆病なのではない、デビルスネークという怪物はそれほど驚異的な存在なのだ。その恐怖を知らせる最盛期の伝承によれば、世界を飲み込むほどの怪物だという。

 そんな彼女のおびえ切った様子を横目で見ながら、しかし対照的に冷静沈着なブラハムは、おどおどと挙動不審になりかかっていた男に尋ねた。


「……それで、怪物による具体的な被害は出たのかね?」


「あ、はい。今は手の空いている男連中を中心に据えて、一時的な自警団を結成し、村への侵入を防ごうと怪物を相手に戦っています。……ですが、すでに数名の負傷者が出たようで、自警団の体勢を立て直すためにと、こうして団長のエイクを探しているのです」


 ――エイクは探しても見つからないさ。


 などと嘲笑するように思いながら、ようやく怪物としての本格的な活動を始めたらしいデビルスネークの勇ましさを想像せずにはいられないブラハム。


「そうか、なるほど。ちゃんと人間を食い漁ってくれているのか」


 村人からの報告を聞いて思わず笑いそうになったブラハムだが、人前だということを思い出したのか、さすがに笑いを噛み殺す。

 まだまだ安堵するには時期尚早だ。

 さすがに怪訝そうな顔をして様子を窺ってくる村人に対して、少しだけ愉快になった機嫌のいいブラハムは両手を広げて高らかに宣言した。


「これからの時代に安心するといい。エイクも安心しているはずだ。期待していいぞ、さすが自警団の団長だ。彼ならば理想郷の礎となった」


「ブラハムさん……?」


 何かを言いたそうに口を開いた男を遮るようにして、ブラハムは顔を玄関口へ向けた。のんきに話し込んでいる場合ではないと言いたげだ。


「エイクの代わりに私が行こう。案内してくれるね?」


「もちろんです。そう頼みたかったところでしたから」


 快く返事をした村人に先導される形で、ブラハムは薬屋を後にした。

 そんな二人を半ば呆然と見送りながら、薬屋の店内には、恐怖によって言葉を奪われたアイーシャだけが残された。

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