12 召喚魔法
あまり有名なものではないが、フレゴニアスと呼ばれる特殊な液体がある。
これは知る人ぞ知る、魔法的な性質を秘めた奇跡の水だ。
不透明に濁った茶褐色の液体。ところがそれだけでは使い道がない。フレゴニアスを役立たせるためには、紙を使う必要がある。
しかし準備は簡単で、フレゴニアスを染み込ませるだけでいい。
その液体の中に長時間じっくりと浸し続けることによって、フレゴニアスの魔力を帯びた紙は、ただそれだけでフレゴニアス・レターと呼ばれる魔道具となる。
ただし、実際にこれを魔道具として利用するには細工が必要だ。
完成したばかりのフレゴニアス・レターのちょうど半分あたりを軸にして、ぴったり同じ大きさの二枚組みになるよう紙を切り裂く。そうすることによって初めて、この魔道具はその効果を最大限に発揮するのである。
元となる一枚の紙からちょうど半分になるように破られて作られた二枚のフレゴニアス・レターは、それぞれが別の離れた場所に存在していたとしても、一方の紙面に書かれたものと全く同じ文面を、残る片方の表面にも浮かび上がらせることが出来るようになる。
二枚に裂いた紙を、それぞれ別の二人が一枚ずつ持っているとする。
たとえば一方が紙面に「おはよう」という文字を書き記すと、それがそっくりそのまま、もう一方の人間が持つ紙面にも「おはよう」という文字が浮かび上がるのだ。
これは前述したフレゴニアス・レターとして、古来より一部地域に伝わる土着のもので、自然起源の魔法を駆使した遠距離用の通信手段である。
上記の説明でいまいちわかりにくければ、配達員のいらない手紙だと考えればいい。
もちろん実際に利用するとなれば、距離的な制限がある欠陥品だ。
とはいうものの、帝国内部における限定的な連絡手段として使うのならば、時差も誤差もなく十分に通用するくらいの性能がある。
遠方の誰かと連絡を取り合う際に第三者や科学的な装置が関わらざるを得ないような、たとえば郵便などの物理的な連絡手段に比べれば、純粋に魔法のみを利用して通信するフレゴニアス・レターは、一段と秘匿性に優れた魔道具であった。
したがって、普段から隠れるように活動する反魔法連盟などの反社会的組織が、古来より現在までも好んで使用する魔道具となっている。
「ふむ……」
そんな手持ちのフレゴニアス・レターに新しく追加された情報に目を通した男が一人。リンドルに滞在中である魔法学者ブラハムだ。
連絡を受けた彼は先ほどから苦々しく唇を噛み締めており、普段の落ち着いた彼からは想像もできないほど焦っていた。
「どうやらベアマークで同志の一人が行動を先走ってしまったらしいな。このまま彼が騎士団によって捕らえられ、その動機などについて詳しく取り調べられれば、おそらく関連する私の素性も発覚するだろう。こうなってしまった以上、いつまでも魔法学者の仮面をつけて、のんびりしているわけにもいくまい……」
――これで遊びの時間は終わりだ。
一人吐き捨てるように呟いたブラハムは証拠隠滅とばかり、読み終えたばかりのフレゴニアス・レターを解読不可能になるまで破り捨てた。
すると、ばら撒かれた数々の紙片は、ひらひらと落ちて地面に触れるという直前、温度のない淡い色をした炎に包まれた。
細かく引き裂くと魔術的な反応によって発火して消滅してしまうという、フレゴニアス・レターの秘匿性に優れた性質による現象である。
「より完璧な結果を望むなら時期尚早ではあるが、騎士団に計画を勘付かれる前に動き始めるならば今しかないか……。このリンドルに滞在している私の存在もすでに知られているとすれば、ベアマークを出た騎士がこちらに到着するまで、あまり猶予はない」
ベアマークにおいて同士の一人が暴走したとの知らせを受け、慎重派のブラハムは自らに迫る危機を察知したのである。
今まで彼は反魔法連盟に所属する主義者であることを周囲に隠して行動してきたものの、それはいつまでも続かないと理解したのだろう。
ここに至って彼が選んだ結論は、ひそかに進めていた計画の前倒しだった。
一応の魔法学者として、あるいは自警団顧問として、今まで彼が熱心に指導してきたリンドルの青年召喚師エイク。
何も知らないその彼を、反魔法連盟としてのブラハムが考えた計画のために利用するならば、もはや今しかないと結論付けたのである。
「エイク、どうやら緊急事態だ」
「どうされたのです?」
「先ほどベアマークの知人から、私宛に連絡が来た。どうやら町で反魔法連盟の主義者による暴動が発生したらしい。その報告によれば暴れている主義者は手ごわく、騎士団も手こずっているようだ」
「それは心配です。……大丈夫でしょうか?」
エイクの目に明らかな不安の色がともる。村を守る自警団リーダーの立場として、町の暴動がここまで飛び火しかねないと心配しているのだろう。
本来ならばとっさに励まして、悪い予感に顔を曇らせているエイクを導く立場にあるブラハム。
しかし胸に一物ある彼は、あえてエイクの不安を煽るように答えた。
「……大丈夫ではないかもしれないな」
「どうして、そう思うのですか?」
いかにも問題がありそうな様子で言われたのだから、心配になるのも無理はない。
眉根を寄せたエイクは不安たっぷりに問い返した。
「ああ、いや。実はな……」
もったいぶるようにそう言って、ブラハムはもっともらしく続けた。
「すでに数人の騎士が、主義者の起こした爆発に巻き込まれて負傷したらしい。そこに女性の騎士もいたという。過激派の仕業だな。残念ながら私はそう聞いている」
「じょ、女性の騎士もですって? そんな!」
女性騎士が主義者による爆撃で負傷したと聞いて、ベアマーク騎士であるサラの顔が頭をよぎったのだろう。誰よりも大切に思う彼女の身を案じてならないのか、すっかり慌てた様子で町へと駆け出そうとするエイクだったが、その腕をブラハムがつかむ。
どこか説教するように、ぴしゃりと言い聞かせるのだ。
「待ちたまえ、エイク。今の君が町に行っても、おそらく役には立たない。かえって足手まといになりかねないとは思わないのか。……そうだろう? ん、それとも違うといえるのかい?」
もちろんそれはエイクとしても自覚している。
未熟さを自覚していたからこそ、毎日の鍛錬を怠らなかったのだから。
たった一人でベアマークへ急ぎ向かったとしても、得意の召喚魔法すら満足に扱うことの出来ない今の自分では力不足であり、騎士団の役に立てる保証はないのだと。
「……で、ですがっ!」
しかしそれ以上は上手く言葉にすることができない。
力強い言葉を続けるほどの自信が、彼の内側に存在しなかったのだ。
なんとかしたいという情熱的な思いばかりがエイクの心を騒ぎ立て、冷静な状況分析よりも先に体を突き動かそうとするのではあるが、どうしても無意味に高ぶっていく気持ちだけが先行して、結果的には彼の冷静な決断を鈍らせてしまう。
何も言えないもどかしさもあり、その場で力なく目を伏せたエイクはただ静かに唇を噛み締める。
己の無力さを痛感してのことだ。
今の彼にはどうすることもできなかった。
息苦しいほどの沈黙は向き合う二人を包み込み、無言のうちにエイクは諦めるようにとブラハムによって説得されているかに思われた。
「……ふふ、わかっているさ」
ところが、意外なことにブラハムは柔らかい口調で語りかけた。
いきなりのことで何事かと耳を疑ったのだろう。うつむいていたエイクは驚いて顔を上げる。
そのすがるような目を見て、ブラハムは微笑んだ。
「もちろんだとも、駆け出したい君の気持ちだって理解しているつもりさ。このまま何もせずに事態の収束を待っているべきだと言うつもりはない。リンドル自警団の顧問としても、君個人の師匠としてもね」
「ブラハムさん……!」
今の今まで落ち込んでいたはずのエイクは、希望を得られたことが嬉しかったのだろう。おもちゃを与えられた子供のように目を輝かせる。
まるで従順な犬のような目を向けて、エイクは主君を疑うことを知らず、現在の師である彼に対して全幅の信頼を寄せていることがうかがえた。
そう、あたかも操り人形のように。
――扱いやすいな。
胸中で思ったことは口に出さず、ブラハムはエイクをなだめながら語る。
「まぁ、とにかく聞いてくれ。実は先ほどベアマークから受けた連絡には続きがあってね、魔法学者としての私に騎士団から依頼が来たのだよ。町に現れた主義者をなんとかしてほしいとね」
「ベアマークの騎士団が、わざわざブラハムさんに救援を求めたということですか」
ああ、とうなずいてブラハム。
「なんでも暴動を起こしている主義者は非常に強力な爆破魔法を駆使するらしく、生身の人間が立ち向かうには厄介な相手らしい。騎士団が対処に苦慮するほどだ、もちろん魔法に詳しい専門家の私でも苦戦するだろう。そこで君の召喚魔法の出番というわけさ」
「ええと、この僕の召喚魔法を使うのですか……?」
「そうだよ。君の召喚獣を使って主義者を制圧するのが、誰も傷つかない一番安全な方策だろうからね。……同意してくれるね?」
「はい、もちろんです!」
とは即答したものの、それから一秒と待たず顔色を曇らせるエイク。
自分の力が必要とされて嬉しい反面、それとは別に何か重大な心配事があるようだ。
「……ですが、ベアマークの騎士が苦戦するほどの相手となれば、今の僕が扱うことの出来る召喚魔法で役に立てるでしょうか?」
「なるほどね。強い魔法使いを相手にして、自分の未熟な召喚魔法が通用しないかもしれないと考える君の不安はもっともだ。しかし――」
折角エイクが乗り気になってくれたのだ。ここで諦めてもらうわけにはいかない。
魔法学者でありながら魔道具に頼らなければ何一つとして魔法を使うことのできないブラハムにとって、すでに騎士団に追われる立場となっているかもしれないこの状況では、少しくらい無理をしてでも弱気なエイクを奮い立たせるほか手段はない。
そうやって彼に上級の召喚魔法を発動してもらわなければ、今までの滞在期間すべてが無に帰してしまうのだから。
もちろん頼みの綱としてエイクに多大な期待を寄せているブラハムにとっても、未熟だというエイクの召喚魔法の実力は重々承知している。
エイクが自警団リーダーとして努力を続けてきたことは知っているし、彼が優秀な召喚師であった祖父の血を受け継いでいることも知っていたのだが、残念ながらエイクの使用する召喚魔法は長らく独学によるもので、まだ本格的なものではないということも知っていたからだ。
ブラハムが心から切望する「高位の召喚魔法」が成功する公算は、限りなくゼロに近いだろうことを彼は知っていた。
しかしブラハムは賭けてみることにした。
まがいなりにもエイクは優秀な召喚師である祖父の血を引いている。
一説には“病は気から”というように、通常を超える本気の気持ちを込めさえすれば、高度の魔法を発動するための秘められた能力が覚醒する可能性だって残されていないこともなかったのだ。
ようやく……といったところで、ブラハムはこれまで一人で考えてきたことをエイクに向かって提案する。決して安易に首を横に振らせない。それしか他に方法はないとでも言いたげな重々しい雰囲気で。
「君の胸中に不安があろうとも、やってみなければ仕方がない。結果とは挑戦して初めて得られるものだ。とりあえず今の時点で出せるものの中で、最も強力な魔獣を召喚しようじゃないか。いいね?」
「……はい、挑戦してみます。自信がないなどと言っていられません」
「うむ、無事に召喚が成功することを祈るよ。いや、どうか成功させてくれ。期待しているよ。……違うな、ここはこう言っておこう。君ならば必ず成功する。どんな召喚魔法だろうが、間違いなく」
「……はい!」
必ず成功すると、心から尊敬する師であるブラハムの口から力強く保証されたためか、もはや弱音を吐いて失敗するわけにはいかないと考えたエイクは気を引き締める。
もちろん、それは、単純にブラハムの信頼に応えるためというだけではなく、町の平穏を守るため、自分も活躍したいと願ってのことでもあった。
それから、もちろん、いつだって彼は何よりもまず、愛するサラの身の安全を憂えていたのである。
――サラ、どうか無事でいてくれ。
サラの身に何事もなければいいと願う一方で、美しいほどの正義に憧れるエイクは、自分自身が彼女にとっての頼れる騎士になるという夢も見ていた。
――僕の召喚魔法で町の危機を救ってみせる!
それこそが、ある種の英雄の証であるとエイクは考えていたのだ。
愛する者のピンチに颯爽と駆けつける――キザな夢だと他人から笑われようが、エイクはそれを実現できる千載一遇のチャンスかもしれないと、こっそり期待に胸を躍らせていたのもまた事実である。
ようやく自分の召喚魔法が役に立つときがきたのだと、窮地において活躍することの出来る喜びに胸を躍らせつつあったのだ。
しかしいつまでも夢に酔っている時間的余裕はない。
くだらない妄想を振り払うべくコホンと咳払いしたエイクは広場の中心に向かうと、肩幅ほどに両足を広げて立ち止まり、右手を前に伸ばすや両目を閉じて瞑想を始めた。周囲に満ちている自然のざわめきと一体化しながら、ゆっくりと召喚魔法を展開する。
今までに経験したことのない、彼にとって最大規模の召喚魔法だ。
周囲に超常のエネルギーとして漂う魔力の流れが目には見えない風となり、凄まじい音を立てながら彼の呼びかけに反応する。
鮮やかな色の明滅が、きらめく光の奔流が、あるいは立ち込める音や熱といったものが、術者であるエイクの指し示す前方の一箇所を中心にして、ごうごうと激しく巨大な渦を巻き始める。
ここまでは順風満帆。集中できているからか、とても調子がいい。
魔力の流れと頃合を見計らって、ここぞとばかりに勇ましく彼は叫ぶ。
「いでよ、デコルギウス!」
瞬間、召喚魔法の発動は完了する。
あたかも雷鳴が直撃したかのような衝撃が走り、裂けるように目の前の空間が激震すると、直後にはそこに一体の召喚獣の姿があった。
エイクの二倍はあろうかという巨体、牙のように伸びた二つのまがまがしい角、全身を覆う焦げ茶色の剛毛。
荒々しい呼吸と血走った野性味のある両目が、その猛獣が内に秘めているであろう溢れんばかりの闘争心を否応なく教えていた。
たとえるなら、それは二足歩行の巨大イノシシ。
祖父の記した召喚獣図鑑に載っていた、暗黒獣デコルギウスである。
「やった、成功した……! やりましたよ、ほら見てください!」
今まで一度として成功したことのなかったレベルの魔獣を召喚させることができたのだ、並大抵の嬉しさではなかったのだろう。
その場で飛び跳ねそうなほど無邪気に喜びを表現するエイクは、まるで年端も行かぬ少年である。
だが難しい召喚魔法に成功した彼の成長を褒めていいはずのブラハムは首を横に振り、喜ぶどころか険しい表情を見せる。
「まだだ、まだ油断するな! エイク、そいつから目を離すな!」
「――えっ?」
「グシャアアアアッ!」
それは大地を揺らすほどの咆哮。デコルギウスの雄たけびだ。
ただの威嚇だけではない。それは直後の行動に現れる。
召喚されたばかりの魔獣デコルギウスは獰猛な目を輝かせ、召喚者であり主従の関係にあるはずのエイクをひとにらみすると、そのまま襲い掛かってきたのである。まるで目の前に絶好の獲物を見つけたかのように、嬉々として、荒々しく息を弾ませながら巨体が動く。
ヴォルフなどとは違い、相手は高ランクの魔獣である。
上から下への単純な腕の一振り。ただそれだけで、生身の人間なら致命傷を負いかねない。
――すぐに逃げなければ危険だ。ただちに逃げなければ……!
常識的に考えれば、魔獣との戦闘経験が不足しているエイクにとっては命の危機である。ここから逃げ出すべきだと頭の中では思いつつも、予想外の事態に驚いたエイクはどうすることもできず、情けないことには動けなくなるほど腰を抜かして、尻餅を打つように倒れこんでしまうのだった。
ぎこちなく足が震えて立ち上がることも出来ないまま、すっかり狼狽して泣き叫ぶことしかできないエイク。
「どうした、デコルギウス! 僕はお前のマスターだぞ! やめないか、デコルギウス! お前は召喚の主である僕に歯向かうというつもりかっ!」
だがデコルギウスは従わない。
魔獣を顕現させる召喚には成功したが、そこで終わり。それを使役する召喚術には失敗した。すなわち不完全な召喚魔法である。
高位の魔獣を使役すべき召喚師としてのエイクの未熟さが、本来ならば使い魔として召喚されるはずだったデコルギウスを制御することが出来ず、このような暴走を許してしまったのだ。
魔獣は本能的に人間を襲う。高ランクの魔獣になれば凶悪性も増す。
そもそもデコルギウスは召喚そのものよりも、召喚後に使役することのほうが難しい。とても扱いにくい危険な魔獣だったのである。
「……期待していたのは事実だが、さすがに無理があったか」
中途半端に終わった召喚魔法の結果を見て、意気消沈した様子で言ったのはブラハムだ。
凶暴な魔獣に襲われている状況が状況だけに、切羽詰った精神状態であるエイクの耳には届かない。もし彼の耳にブラハムの落胆した言葉が届いていたのなら、師匠に見限られたと知って絶望の淵に叩き落されていたことだろう。
この瞬間にもすがるものがあったエイクは幸運だったといえなくもない。
「た、助けてください!」
地べたに尻餅をついたまま、顔だけ振り返って助けを求めるエイク。
そこに立っていたのは思案顔のブラハムだ。
恐怖のあまり必死な形相を浮かべるエイクと目があったブラハムは、ふと我に返って駆け寄ろうとするが、手を差し延べられるほど近くまで来たところでピタリと立ち止まると、その先の行動を躊躇してしまう。
――私はどうしてエイクを助けようとしているのだ?
という、ささやかな疑問が脳内を駆け巡ったためだ。
そもそも村にとって部外者であったブラハムにしてみれば、エイクに肩入れしてきたのは己の野望のため、彼に完璧な召喚魔法を習得させたかったからであった。それが失敗に終わったと判明した以上、あえてエイクを助ける意味があるのかどうか、わからなくなったのだろう。
「うわぁっ!」
耳をつんざくエイクの悲鳴。
鋭い爪を振り下ろしたデコルギウスの一撃を食らったのだ。
とっさに頭部を庇うように左腕を出して、かろうじて致命傷を避けられたものの、強力なデコルギウスの攻撃によってエイクの左腕は血を吹いて感覚を失った。
そんな彼の近くで立ち止まっていたせいだろう、ブラハムは左腕を負傷したエイクの血を浴びる。
その鼻をつく血の生々しさが、彼の鈍っていた思考を復活させる。
「とはいえ、見殺しにするわけには……!」
ブラハムは懐から葉巻状の魔法式炸裂弾を数本取り出すと、なおもエイクに襲い掛かるデコルギウスに狙いを定め、立て続けに投げつける。
いくつかのきらめきが走る。それは小規模な魔法爆発だ。
「グガァァァッ!」
本来ならこの程度の攻撃で足止めできるような魔獣ではない。人間相手に無敗を誇る魔法剣士でさえも苦戦するほどの、圧倒的な強さを秘めている怪物なのだ。
しかしこれもエイクの召喚魔法が未熟であったためであろう。ブラハムの投げつけた魔道具を受けたデコルギウスはあっけなく消滅した。
その魔獣本来の強さを発揮するほどの、完全なる状態での召喚ができていなかったのだ。
失敗したとはいえ、これは結果的に不幸中の幸いであったといえないこともない。そう考えて苦笑したブラハムは肩をすくめるしかない。
そんな複雑なブラハムの心情など露知らず、当面の脅威から解放されたエイクは盛大に胸をなでおろす。
「――か、はぁ、助かりました……。ありがとうございます」
「いや、礼はいらない」
意識してのことではないが、少しだけ冷たく言い放ったらしい。
それを己に対する叱責だと理解したのだろう、恥ずかしさもあってエイクは身を縮こまらせた。
だが一方で、ブラハムはすでに別のことを考えていた。
エイクの召喚魔法がうまくいかない以上、騎士団の襲撃に備えて彼はなんらかの次なるアクションに出なければならない。このまま村にとどまっていてもいいことはないし、これ以上エイクを彼の計画のために利用しようとしても、どうせ役には立たず無駄だとわかっていた。
もちろん次なる行動の選択肢の中には、今すぐにでも一人で村を出て、どこか遠くへと逃げ延びて騎士の追跡を振り切る手段も含まれていた。
何もかもを見捨てて逃げる、なんとも消極的な選択だ。
「とにかく、これを傷口に巻いておきなさい。応急処置に役立つ携帯用の魔道具だ。さすがに大きな負傷を一瞬で完治させるほどの効力はないが、それでも止血と消毒くらいには効果があるはずだからね」
「助かります」
ブラハムが取り出した包帯のような長い布を受け取ると、エイクはそれを負傷した左腕に巻きつけた。フレゴニアスとは別種のとある植物から採取された、強烈な魔力を帯びた液体が布にしみこませてある特別製だ。
あらゆる傷を一瞬で治してしまう奇跡の治癒魔法ほどではないが、その人間がもつ本来の自然治癒力を促進させる程度には効果を発揮する。
つまり擬似的な治癒魔道具である。
そのおかげだろうか、心なしかエイクの左腕から痛みが引いていった。もともと大きな傷ではなかったという幸運もあったのだろう。
「あとで病院に行くといい。それは治癒するというよりは、麻酔に近い効果だからね。きちんとした治療を受けなければ駄目だ」
「わかりました」
「気にするな。私も気にしていない」
――これでおしまいか。
心中でつぶやいたブラハムは少しだけ名残惜しげに、なんとなく脇に抱えていた手記を取り出してパラパラとページをめくっていく。
それはエイクの祖父が書き残した召喚図鑑である。
エイクが負傷した際に飛び散った血か、あるいは応急手当の際に付いた血であろう。その手記は所々がエイクの血で赤く染まっていた。
貴重な書物を血で汚してしまってもったいないと思いつつ、どうせもう使うことはないから構わないだろうとも考えるブラハム。
そんな調子で特に意味もなくページをめくっていたときのことである。
「こ、これは……」
たまたま目に留まったページ。
見慣れたはずの古ぼけた手記を覗き込んで、ブラハムは驚愕した。
なにしろ今まで何も記されていないと思っていた白紙のページに、ほのかに青白く輝いた光文字が浮かび上がっていたのである。
それはエイクが流した血の色に染まっているページであった。
――まさか己の血族にのみ閲覧を許すため 、“血の封印”を施していたのか?
――なるほど、ゆえに私一人で調べてもわからなかったわけだ……。
なんとエイクの祖父は、自身の血を受け継ぐ者にのみ極秘の召喚術を伝えようと、己の子孫の血が触れたときにのみ文章が浮かび上がるという血の封印を手記に施していたのである。
したがって、彼の孫であるエイクの血を受けた結果、秘匿の召喚術に関する記述が白紙のページに浮かび上がったのだろう。
それは本来なら部外者であるブラハムが目にすることはなかったであろう禁断のページ。
緊張とないまぜになった興奮からであろうか、彼は自然と口数が少なくなっていた。
「……ブラハムさん、大丈夫ですか? なにやら血相を変えているように見えますが、いったいどうしたというのです?」
心配されて言われたものの、ブラハムには自分がどのような表情をしているのか想像できなかった。
しかしながら、それはエイクを心配させるには十分なものだったらしい。
「いや、少しな……」
――召喚魔法の優劣とは、究極のところ世界との相性である。
かつてこの世界の誰かがそう言い表したように、召喚魔法の上達には個人の努力よりも、生まれ持っての才能が重視されている。
ここでいう“世界との相性”とは、召喚魔法の発動を通じて世界を巡る魔力波動と対話することにより蓄積される、親から子へと世代を超えて受け継がれる遺伝的なものであり、つまり召喚師一族としての“血のつながり”こそが何よりも重要な武器となるのだ。
召喚術を使う術者個人単位ではなく、その一族に伝わる血脈と、使い魔である召喚獣との契約を繰り返す行為の歴史的な集大成こそが召喚魔法である。また、それには魔法が発動される際に見られる“魔力の流れに関する個人的特徴”、いわゆる“魔紋”(指紋のようなもの)が重大な意味を持っていると考えられていた。
一応の魔法学者であるブラハムからすれば、贔屓目に見ずともエイクには才能があると思われた。偉大な祖父から受け継いだ召喚技術が発掘されないまま眠っているに違いないと。
現代魔法学における召喚魔法についての優勢的な解釈を信じて疑わなかったブラハムは、この差し迫った状況の中、受け継いだ才能だけはあるであろうエイクこそがキーパーソンであると確信するしかなかった。
ベアマークで仲間の主義者が目をつけられてしまった以上、急がなければブラハムとの関連性に気付いた騎士によって身柄を拘束されてしまう危険性がある。
だからこそ彼は計画のためエイクをそそのかさずにはいられなかったのである。
それゆえに彼は、ここにきて、再び拙速な手段に頼らざるを得なくなったのだ。
「エイク、左腕は大丈夫そうか?」
「はい、大丈夫です。すでに血は止まり、ひとまず痛みはなくなりました」
「それはよかった。安心したよ。……すぐ動けるね?」
「ええ、まぁ、もちろんですが……?」
意味深なブラハムの口ぶりから何かを察知したのか、はっきりとした受け答えも出来ず、もごもごと答えたエイクは怪訝な表情を浮かべる。
さえない反応なのは、召喚魔法に失敗したばかりで自信を失っているというのもあるのだろう。
もちろん最終的には説明をした上で納得させなければならないが、ここでエイクにしぶられても面倒なのは時間のないブラハムだ。
すべてを教えてから移動するよりも、移動してから現場で教えたほうがいい。そのほうがエイクの説得は簡単に終わるだろう。
咄嗟にそう判断したブラハムは決断だけでなく行動も機敏になすべきだと考えたのか、軽く叩くようにしてエイクの肩に手を乗せた。
「ひとまずここを移動しよう。詳しい話はそれからだ」