5 滞在者ブラハム
世間的にはそう有名でもないリンドルといえば自然に囲まれた小さな農村のひとつであり、わざわざここへ来る訪問者の目的といえば、避暑か保養のどちらかというのが一般的だろう。
本格的に商売を始めたいのなら隣のベアマークへ行くし、学問を志すなら帝立大学のある帝都に行くべきだろうし、休日を利用して観光に行くつもりなら、リンドルの他にもいいところがたくさんある。
ゆえに出身地でもなければ訪問先として、わざわざこんな田舎の村を選ぶ理由は少ない。
そういった事情はリンドルに生まれ育った村人にしても異論がないようで、近年は若者の流出による人口減少が問題となっていた。豊かさを求めて村から巣立っていく人間は増加する一方で、外から村へ移住してくる新参者はまるで存在しなかった。
それでも世に変わり者の途絶えることはなく、ここリンドルにも長期にわたる滞在者がやってきた。いきなり村に家を建てて永住するとはいかないものの、およそ一年分もの宿泊料を一括で前払いした猛者がいたのである。
ぶかぶかのブーツにほつれたコート、浮浪者のような覇気のない顔には無精ひげ。もとは目的地の当てもない自由奔放な旅行者らしく、目に付く所持品といえばくたびれた鞄一つで村にたどり着いたらしい。
彼はその名をブラハムといった。職業その他は本人以外に不明である。
それでも名前以外には身元不明である彼が村人に要注意人物として怪しまれないのは、その飄々とした憎めない人柄ゆえだろう。
毒気がない彼は不必要な敵を作らず、自然と村に溶け込み始めていた。
「やぁブラハムさん、今日もまたお出かけかい?」
「ああ、これから少し森へ」
「森かぁ。村の外は危ないからね、行くなら気をつけて」
村の滞在拠点である宿の従業員に声を掛けられたブラハムは軽く会釈すると、忠告を理解しているのかわからない身軽な服装で真っ直ぐ森へと向かった。
保守的な村落社会というものは往々にして部外者に対して閉鎖的になりがちなものだが、近年の村の存亡に関わる人口減少問題に頭を悩ませていた彼らにとって、むやみに排他的になっている場合ではなかったのだろう。
たった一年限りの滞在者であるはずの彼を見て、村人たちは未来につながるであろうリンドルへの移住計画の第一人者として歓迎した。
よそ者に過ぎないブラハムにしてみれば、込み入った村の事情など知ったことではなかったが、それは大変心地よい丁重な扱いだった。
いつかこの村に家を建てて永住するのもいい、口にはしないが彼本人も胸の内ではそう考えていた。
「さてと、目的地は本当にここか? ずいぶん荒れているようだが……」
ふらふらと覚束ない足取りで森にまで出た彼は、なにも山菜摘みに興味を持っていたわけではない。他人には語らない、彼なりの興味関心を持って行動するのである。
道らしい道もなくデコボコなまま整備されていない人里離れた深い森の中、くたびれたブラハムは辟易しながらも草木の生い茂る獣道を歩き続ける。
その手には村長から預かった一冊の古ぼけた書物。
素性を明かさぬ怪しい滞在者であった彼が、連日連夜開かれた酒の席で親睦を深めること数週間、先日やっとのことで疑り深い村長から貸し出しを許可された村の伝承録である。
足を止めて彼が確認するように開いたページは、遠い昔に記されたであろう森内部の地図。
森そのものが荒れ果てた現在では地図を見たところで方角と距離を判断するくらいにしか役立たないが、それでも手探りで当てもなく森をさまようよりはましである。
念には念を入れて、こうして実際にリンドルを訪れたブラハムは詳細な捜索と調査のために一年間の猶予を作っていたが、その心配も現在ではなくなっていた。
今のところ彼の計画はとんとん拍子に進んでいる。
ブラハムが目指すは村はずれ、森の中にあるという古びた祠であった。
「助けてくれっ!」
ところがそろそろ目当ての祠に到着するというときになって、ブラハムは前方から響いてきた青年の叫び声を聞いた。
ブラハムの場所からは姿が見えないため詳しい事情はわからなかったが、悲鳴を聞く限りには切羽詰った様子であることから判断すると、どうやら茂みの奥で青年が何者かに襲われているらしい。
とっさにそう判断して急ぎ足で悲鳴のほうへと駆け寄ったブラハムの目に映ったものは、犬歯むき出しの凶暴な狼の魔物に覆いかぶさるように乗りかかられ、地面に倒された仰向けの姿で必死に抵抗している青年だった。
あれはヴォルフか……と、青年を襲う魔物に冷たい視線を向けたブラハムは、それが低級ではあるものの危険には違いないと理解した。
「まったく、どこの誰だか知らぬが手を焼かせてくれる」
そしてブラハムはコートの内ポケットに手を突っ込むと、そこに仕舞っていた小さな箱を取り出した。その箱の中にぎゅうぎゅう詰めにされて入っているのは、いくつもの葉巻状をした短い棒である。
一瞬ためらう思案顔を見せつつ、ブラハムはその一本を指で摘み取る。
「少しばかり内臓魔力を消費してしまうが……まぁ、命には変えられぬ」
自分へと言い聞かせるように呟いた彼はその葉巻の片側を噛み千切ると、今も青年を襲っているヴォルフに向かって投げつけた。
すると空中で爆発したそれは周囲にキラキラとした破片を撒き散らして、そのまま雨あられのように降り注ぐとヴォルフの体を貫通する。
すると青年を襲っていた魔物はぐったりと倒れ、たった一撃で殺されてしまうのだった。
しかし使用された魔法による効果の一つなのか、無残に退治されたヴォルフの下に倒れていたはずの青年は無傷である。
「今のは対人殺傷能力のない魔道具だ。君の体に害はない、安心しろ」
おびえた青年に警戒心を植え付けないようゆっくりと歩み寄りながら、ブラハムは葉巻の箱をコートの内ポケットに仕舞う。
そして仕留めたばかりのヴォルフの死骸を見下ろし、倒れたままもがく青年の上から死体をどかしてやろうと右手を伸ばしたところで――。
「……なに?」
ブラハムの右手がヴォルフの表皮に触れる直前、その死骸が輝く無数の光となって、跡形もなく消え去ってしまうのだった。
いくら周囲の異常な魔力によって動物が突然変異した魔物とはいえ、普通の魔物なら殺したところで死体まで消滅することはない。
――ならば、この魔物は? なぜ消え去った?
ある種の期待を胸に抱き、ブラハムは青年に視線を投げかけた。
「あ、ありがとうございました」
ようやく立ち上がって深々と頭を下げた青年に、礼など求めていないブラハムは先を促す。
「……君は?」
「僕はエイクです。……この状況で名乗るのは大変な赤恥ものですが、これでもリンドル自警団のリーダーをしています」
リーダーを務めるエイクは不用意に他者と馴れ合わず、ほとんど一人きりで強くなるための精進を重ねていた。そのため、村の自警団を率いる彼ではあるが、そこに本当の意味での同士はいない。
ゆえに、すでに滞在者として村では有名人となっていたブラハムのことも彼は知らなかった。もちろん個人的な調査活動に忙しく、リンドル自警団とは接点がなかったブラハムも同様である。
「自警団のリーダーがこんなところで何を?」
「それはその、ここで少し、自分の魔法を……」
自分の魔法を試そうとしていたら、召喚した魔物に襲われてしまった。
などとは、さすがに自警団リーダーとしての自尊心が邪魔をして、エイクは馬鹿正直に事実を言うことができなかった。かといってプライドのために嘘をつくことも、正義感を抱いた彼の人間性は許さない。ただ恥をしのんで口を閉ざすのみだ。
それでも長年の経験から周辺に漂っていた魔法の残り香を嗅ぎ取ったブラハムは、表情に悔しさを滲ませる青年にほとんど断定的な口調で尋ねた。
「おそらくここで使用された魔法は……いわゆる召喚魔法かな?」
「わ、わかるのですかっ?」
見抜かれたことに驚きつつも、嬉しかったのだろう。ぐっと興味を持ってエイクは身を乗り出した。
というのも今や彼が魔法習得のために頼れるものは、すでに他界した祖父の残した文献だけだったという事情がある。だからこそ、村では珍しい召喚魔法の理解者を見つけられた喜びは言葉では語りつくせない。
舞い上がらんばかりだった彼の反応を満足そうに受け取ったブラハムは、好々爺といった表情でやわらかく微笑む。口に出す言葉も穏やかだ。
「わかるもなにも、私はさすらいの魔法学者だよ」
「魔法学者……」
ここでいう魔法学者とは、魔法を学術的に研究する専門家のことである。
必ずしも本人が天才的な魔法の才能を所持しているとは限らないが、少なくとも魔術的な知識に関しては並の魔法使い以上に豊富な人間だ。
「ゆえに、君の力にもなれるだろう」
「は、はいっ!」
エイクの顔はますます喜びに赤らんだ。
森に囲まれているものの、無駄に土地だけは広いリンドルの村。ブラハムの滞在する宿とは反対側のずいぶん奥まったところに、自警団リーダーである青年エイクの暮らす家、かつ彼の祖母が一人で経営する薬屋はあった。
「ただいま」
「失礼する」
「……おや、お客さんかい? いらっしゃい、ゆっくりどうぞ」
帰ってきたエイクらが薬屋の入り口をくぐると、エイクの祖母アイーシャは孫の背後から顔を覗かせたブラハムに歓迎的な視線を向けた。
自警団リーダーを務めるエイクはその職務上、村に住む様々な人間と公的な付き合いを有しており、それゆえブラハムのような見知らぬ人間をエイクが連れてきたとしても、彼女は不思議には思わなかった。
エイクは自身の背に隠れていたブラハムをさりげない手つきで前に促す。
「こちらは村に滞在している魔法学者のブラハムさん。森で魔物に襲われているところを助けてくれてさ、僕にとっては命の恩人だよ」
「それはそれは」
自分にとっては命の恩人であると、愛する孫の口からそう聞いたアイーシャは驚いたのだろう。助けてもらったくせに何故か自慢げなエイクに代わって、何度も何度も深々と頭を下げた。
思えば自警団に所属するエイクはいつも危険に晒されていると言ってよく、それが年を取って激しさを増した心配性に悩ませられる彼女を、常日頃から不安に苛むのだった。
少し過剰にも思える感謝を見たブラハムは、彼女と同じように頭を下げては苦笑いを浮かべる。
「はは、お気になさらず」
自分は感謝されるようなことは何もしていないと、どこか照れたような仕草で彼はアイーシャに顔を上げるよう促した。そのまま謙遜の応酬に発展することを恐れたのか、エイクは頭を下げあう二人の間に割り込んでいく。
「おばあちゃん、ブラハムさんを二階に案内していいよね?」
「ええ、もちろんだよ」
快いアイーシャの許しを得たエイクはブラハムを二階、寝室をかねた自室へと案内する。きしむ階段を上ればすぐそこにある扉がそれだ。
エイクに続くようにして部屋に入り、即座に後ろ手で扉を閉めたブラハムは、机の前に二人分の椅子を用意しているエイクが落ち着くのを待って口を開く。
「さて、それでは君の話から聞かせてもらおうか」
「わかりました」
ブラハムが魔法学者であるという事実は、これまで独学で魔法を学ぶしかなかった彼にとって何よりも頼もしい。
教えてもらえるのならと腹をくくり、もはや恥も照れも見栄すらもなく、ただ素直にエイクは自分の現状や悩みについて赤裸々に語ることにした。
今は亡き祖父は名実共に優秀な魔法使いであったが、自警団リーダーとなった自分は未だ満足に召喚魔法を使いこなせないということ。
ゆえに、可能ならブラハムに魔法技術の教示を願いたいと。
その願いを聞いたブラハムは優しく微笑し、不安げに揺れるエイクの瞳を覗き込む。
「世界的にもあまり数の多くない召喚魔法使いなのだから、少なくとも君はそれを誇りに思っていい。胸を張れ、生まれの時点で大きなアドバンテージだ」
「あ、ありがとうございます……」
だが言葉とは裏腹に、答えるその顔は沈みがちで浮かぬもの。
まだまだ未熟な魔法使いである彼には誇れるものが見当たらなかったからであり、お世辞と気遣いにしか聞こえなかったからである。
「そうだな……最初に尋ねておこう、青年。それを極める覚悟はあるか?」
それとはもちろん、召喚魔法のことである。
「覚悟なら――」
もしも呼び出した使い魔を操ることの出来る召喚魔法が自由自在に使えたなら、きっとエイクはたった一人きりでも村の自警団を最強のものへと成し遂げられるだろう。
たとえその厳しすぎるエイクの苛烈な信念その他が、彼と同世代の村人たちには決して理解されなかったとしても、その結果として自警活動に誰からの協力を得られなかったとしても、彼は最強の召喚魔法を胸に俗世では孤高であり続けられるだろう。
「覚悟なら、年少の頃より備えております!」
まさにその通りだった。
ひたすら実の祖父を目標にして生きてきたエイクは幼いころからただ一人、村の誰よりも強くあろうと願っていた。そのための努力なら雨の日も風の日も、ただの一日として欠かしたこともなかった。
それならば今さら信念が揺らぎ、まだ見ぬ不安を前に臆する理由もない。
覚悟など決まっている。
「ふむ、よく言った」
そんなエイクの心中をどこまで察したのか不明ながら、ブラハムは実に満足そうな表情を浮かべるのだった。
それから数日後、エイクの師となったブラハムは同時に村の自警団顧問に着任した。
もちろん無償、滞在期間中のボランティアである。
はじめは報告を聞いた自警団メンバーも、鬼リーダーであるエイクとは違うであろう、新しい顧問の登場に期待を持っていた。
だがブラハムは、ただのボランティアであって、村からの報酬は硬貨の一枚すら発生しないとはいえ、単なる気晴らしや酔狂のためだけに顧問役を引き受けたわけでもない。
若者達を教える立場になったブラハムは、その指導に手を抜かなかった。
どちらかといえば普段は気の抜けた姿の彼ではあるが、魔法学者としてのプライドか、それとも魔法を知る者としての責任か、魔法のこととなると人が変わったように激しさを増すのだった。
あらゆる魔法の知識、それぞれの対処法、そして実演と精錬。
いくら努力しても追いつけない劣等生に対しては容赦なく叱責した。
以前より専門性を増した訓練や指導にたまらず音をあげたのは、エイク以外の自警団メンバー全員である。もとよりベアマークなどの都会に出て行かず、成人してからも村に残る人間は総じて魔法能力に乏しい。そんな彼らが厳しい指導に耐えられるわけもなく、そもそも自らの意志で自警団に加入したという者もメンバーには見当たらなかった。
ある日、自警団の訓練場に姿を現した人間は、ついにエイクとブラハムの二人のみとなった。
他のメンバーは全員、その責務から逃げ出したのである。
「彼らは駄目だな、本質的に戦いには向いていない」
「僕もそうは思います、ですがブラハムさん……」
そんな彼らにも自警団としての誇りを――と、リンドル自警団再建のため前向きにそう言い掛けたエイクの言葉を遮り、戦いの現実はそう甘いものではないとブラハムは確定的に告げた。
「半端者は足手まといにしかならない。特に魔法が関わってくるとなおさらだ」
それが世の過酷な真実であることは、おそらく誰にも否定できないだろう。
魔法使用者同士の戦いに、あるいは魔法の影響下にある戦場に、魔法適性のない無能な人間は意味を持って役立つことが難しい。
魔法とは不可能を可能にする奇跡であり、しかしだからこそ危険とも常に隣り合わせの現象である。中途半端な能力で魔法に向き合うような人間は、いつか必ず取り返しのつかない大きな過ちを引き起こすものなのだ。
生半可な覚悟で魔法に関わってはならない、それはエイク自身もよく理解していることだった。
ゆえに彼はそれ以上の反論を諦めて、納得して引き下がるしかない。
「……わかりました」
「素直でよろしい。そのままいけよ、青年。きちんと人の話を聞いて行動する人間は将来が期待できる」
「はい、ならば徹底的に僕を鍛え上げてください」
こうして二人の特訓は本格的に始動することとなったのである。
ブラハムは自分で自分のことを魔法学者と名乗るだけあり、古今東西の魔法に関する知識はエイク以上に豊富だった。もちろん召喚魔法についても、それを使えるエイクが詳しく知らない深い内容まで熟知していた。
ここに存在しないものを遠方や別次元より呼び寄せる真召喚、ここに霊体の状態で存在するものに姿かたちを与える擬似召喚。
さらに真召喚は、実在と空想の二種類に分かれる。
たとえば木の精霊クィックは擬似召喚。狼の魔物ヴォルフは実在する対象の真召喚といった具合だ。
召喚師が実際にどの召喚獣を出すのかは、召喚術発動にあたって瞑想のため目を閉じた際、彼らの意識が上位の魔術波動に触れれば理解できるだろうと言われている。
魔術波動とは、世界を網の目状に包み込んでいるとされる不可視で巨大な魔力の流れのことだ。地形や気候に依存する地脈、生物分布に依存する竜脈、各地の魔力濃度に由来する魔脈などの総称である。
魔法科学は正式な学問として成立してからの歴史が浅く、確実な証拠となる詳しい事象は観測されていないものの、これら召喚魔法に関する理論体系は現在世界各地で研究が盛んな、圧倒的人気を誇る分野の一つだった。
「つまり他所から生命体を召喚するような真召喚は、この世界的な魔力の大きな流れを利用しているわけだ。たとえばドラゴンや蛇竜といった空想上の魔獣を我々の住む現実界へ召喚するプロセスは依然として不明なままだが、それも魔術波動と無関係ではあるまい。一時的にでも異界とつながっている状況を魔術によって作り出してしまうのだろう」
「……あ、あぁ、はい。ええと――」
必死に耳を傾けるエイクだが、初めて聞くことばかりで理解が追いつかないらしい。
あからさまに落ち込んだ彼の姿を見たブラハムは、励ますようにアドバイスを加える。
「召喚獣を操る自信がないのなら、あらかじめ自分の身を守るために結界となる円形の魔方陣を地面に描いたほうがいい。あるいは呼び出す魔獣を命令で縛り付けるための定型化された呪文を事前に唱えるのだ。なに、ひとまず主従関係を明確に出来ればいい」
「しかし僕の祖父は召喚魔法を発動する際に呪文や魔方陣といった保険を使用していなかったようなのですが? 祖父の文献には何も記されていませんでしたし」
「それで上級の召喚獣などを思いのままに使役することが可能なのは、おそらく優れた召喚師のみだよ。たとえば君の祖父のようなね」
「……そうでしたか」
「まぁ気を落とすな、エイク。とりあえずこれを見てみろ」
ブラハムはエイクの祖父が残した文献をたった一晩で一冊残らず読み上げ、そのほとんどを暗記と共に理解し終えていた。とらえどころのない飄々とした人柄ではあるが、魔法知識に対するポテンシャルは規格外なのかもしれない。
そんな彼が一夜にして読み上げた文献の中から選び出した書物は、エイクの祖父が記録した魔獣図鑑であった。
「エイク、まず君は召喚に関する時間制限を長く出来れば完璧だ。魔力が尽きるのも原因だが、慣れていないのが一番の問題だろう。その図鑑に載っている魔獣や精霊を順々に、低級なものから呼び出して練習するしかあるまい」
わかりましたと素直にうなずいたエイクだったが、ふと思い出したように悔しさを滲ませて苦虫を噛み潰す。
「かつて祖父が召喚した使い魔のいくつかは、今も独立して生存していると聞いています。マスターであった術者である祖父の死後も、一度発動した召喚魔法が消えることなく持続していると……」
「君だってそれが可能になるさ。そのために練習するのだろ?」
「ですが……」
何を言っても冴えない様子のエイクに、ブラハムは小さくため息を漏らした。
「これは黙っているべきかと思っていたが、私は村の人間からこんな噂を聞いたぞ。エイク、君は様々な人間から馬鹿にされていたのだろう? 子供のころは疎まれ、そして今では騎士になれなかったことを罵倒されているそうじゃないか」
「……ええ、そうです。僕は小さなころから夢だった騎士になり損ねました。唯一使える召喚魔法が不十分だという理由で、帝都の騎士団試験に落ちてしまって」
「よりにもよって帝都の騎士団試験か。まぁ、あれは最難関だからな」
帝都を治める帝都十二騎士団は帝国内で最強を誇る組織と呼ばれており、所属する個々人の能力に限れば、武装した帝国軍すらも凌駕するといわれている。魔法を含めたあらゆる脅威から帝国の首都を、そして主義者をはじめとする暗殺の魔の手から皇帝を守り抜かねばならないためであろう。
そういった事情もあり、帝都の騎士団試験は合格者少数の狭き門である。ベアマークの騎士団試験などとは違い、挑戦一回目のエイクが合格できなかったとしても無理はなく、それを笑うことは間違っているだろう。
当時の心境を思い出したのか、エイクは唇を噛み締めた。
「自分の魔法のレベルでは騎士になれないと突きつけられ、すっかり自信がなくなっていたそんなときでした。帰省していた当時の僕に、村の自警団リーダーにならないかと声がかかったのです。……しかし今になって思えば、いささかリーダーとして厳しくしすぎたのかもしれません」
「いや、エイク。間違いなく人一倍努力している君を馬鹿にしている人間に対して同情する必要はない。他人の命を預かる組織のリーダーに必要なのものは、決して例外と怠惰を許さない機械のような厳格さ、そして自らの姿を集団の模範とするだけの資質なのだから」
――そしてエイク、君のような召喚師こそ、生まれながらにしてリーダーの器をその身に宿しているのだ。
ブラハムはエイクの瞳を覗き込み、諭すように続ける。
「たとえば最上級の召喚魔法で呼び出せる最上位の霊的存在は、もはや人知の及ばない神にも等しい存在であり、おそらく怠惰が蔓延した世界を根底から変えることのできる唯一の力だろう。エイク、魔法を極めれば、それを君の意志で自由に導くことが可能になる」
「それはもしかして、神獣……?」
「もし召喚師として究極の魔法を操れたとしたら、こんな小さな村の自警団リーダーどころではない。君は世界の調停者となることすら可能だろう」
そしてブラハムは怪しく微笑して、聞き入るエイクの肩に手を乗せる。
「なぁエイク、彼らすべてを見返してやりたくないか?」
「……っ!」
声色は淡々としながらも、ブラハムは巧妙に刺激する。
今までエイクが押さえ込んできた攻撃的自尊心、隠し切れない脆さに穢れたプライドを。
「いいぞ、その目は。……鍛えがいがある」
おそらくこの瞬間からであっただろう。
自警団リーダーとして召喚魔法を特訓してきたエイクの胸の中で、かつて信じた正義とは違う別色の炎が燃え始めるのだった。
日が暮れて外もすっかり暗くなったころ、こっそりと足音を忍ばせたブラハムは薬屋の一階奥、普通は身内以外の人間を中には通さない作業室に、ふらりと顔を出した。
そこにいたのはエイクの祖母、年老いたアイーシャが一人だけである。
「おやアイーシャさん、ここにいらっしゃいましたか」
「あらブラハムさんかい? もしかして私に何か用事がおありで?」
「はい。実はあなたに、この薬品を調合していただきたいのです」
そう言ってブラハムは近寄ったアイーシャに一枚の紙切れを手渡した。
丁寧な字で書かれている内容は、とある薬物の正確なレシピである。
「これは……まぁ! 現在では調合が禁じられている強力な暗示作用のある媚薬では……?」
その問いかけに対して即座に「もちろん」と答えたブラハムは穏やかに微笑み、その事実を知りながらもアイーシャに迫る。
「魔法で魔獣を呼び寄せる召喚者は、常に死の危険と隣り合わせなのです。たとえばエイクにしてみても、いつ暴走した自分の使い魔に襲われるかわかりません。ですからその媚薬はもしものとき、あなたの大事な孫を守るための大事なものです。……お願いできますか?」
「あぁ、エイクのため。あの子を守るため……」
「えぇ、そうです。どうかアイーシャさん、ですから飛び切り強力なものを――」
穏やかに語りかけるブラハムはアイーシャの肩に手を乗せて続けた。
「召喚魔法を使わず魔獣を操ってしまえるほど強力な媚薬を頼みます」