2 サツキとの出会い
神様なんてものは実体がなく、どうせ名前だけの架空の存在だとばかり思っていたが、その奇跡を前にしては感謝せずにもいられないだろう。
この世のあらゆる基本的な物理法則を外れた超常現象は「神が見せてくれる奇跡」でもなんでもなく、すべてなんらかの魔法によって説明のつく当たり前の現象ではあるのだけれど、その魔法の存在そのものがすでに奇跡なのかもしれない。
まぁ、だからといって安直に神の実在を信じたわけではない。
たとえばかつて各国政府が手を取り合って協力した結果、この世界への”神の再誕”を祈った大掛かりな魔術が世界規模で数年にわたって展開されたこともあったらしいが、それが無事に成功したことは一度としてなかった。もしや極度の恥ずかしがり屋なのか知らないが、いくらなんでも人類ごときを相手に隠れすぎである。
やっぱり神の座は不在だろう。
「それはともかく今の話だ。これ、本当に夢じゃないんだろうか?」
帝国兵の攻撃を受けて全身傷だらけ、ほとんど死に体になりながらも治癒魔法によって九死に一生を得た俺は、あまりの喜びに胸を高鳴らせていた。
生きている、生きられている。その事実が何よりも嬉しかった。
だが陽気になって喜び踊るにはまだ早い。先ほど転がり落ちてきた崖の上には帝国軍兵士の影があり、今も俺が追われている身の上であることは変わりないのだ。
どこか安心して身を寄せることのできる場所はないだろうか。ひとまずそれを探し出して、どうにか一時的にかくまってもらわなければなるまい。
俺は人畜無害の罪なき一般人であるのだと主張して、あちら側の誤解を解く――つまり帝国軍に対して釈明を求めるのは、その後からでも遅くはないだろう。
ひとまず今は休みたい。
そう思い立った俺は右も左もわからない未開の森を歩き、やがて抜け、視界の前方に広がった目印も何もない草原で立ち竦んだ。
周りには雑草だけが広がり、見える限り道らしい道はない。
ため息を漏らす。困ったことだが、方角さえもわからない。
もちろん周囲に人の気配というものはなく、あろうことか動物の気配さえも感じられなかった。
「さて、ここからどこに行けばいいんだ?」
途方に暮れた俺は肩をすくめつつ空を仰ぎ見た。
青々と突き抜けた空だ。そして見下ろせば青々と茂る草がある。
それらをぼんやり眺めていると、なんだかすべてがどうでもよくなってきて、先ほどまで敵に追われていたというのに俺は睡魔に襲われた。抵抗したくとも力が入らず、草原へと倒れるように横になる。
草のベッドは期待したほどには柔らかくなく、心地よさには程遠いものだったけれど、初めて治癒魔術を使ったせいで精神的な疲れが蓄積していたのか、自然に囲まれ安堵を覚えた俺はすんなり眠りに落ちる。
追っ手の兵士には抵抗し続けたのに、ふと襲ってきた眠気には一切抵抗しない。それほど緊張していたということだろうか。とにかく見つからないことを祈りながら、折角だから草の香りに包まれたまま、しばらくの間ここで休ませてもらうことにした。
頬をなでるそよ風は心地よく、日当たりも適度でぽかぽかと暖かい。
夢を見たとすれば、きっと共和国で過ごした十年間の思い出だろう。
父との二人暮らし。それは平和な生活に他ならなかった。
俺たちは魔法のある生活から離れ、共和国政府からも離れ、どこか世俗を離れた静かな暮らしに染まっていたのだと思う。父さんは魔法を使うことができないらしく使用していたところを見たことはないし、どういったわけか、心の底から魔法を憎んでいたようだった。
対して俺はといえば、よくわからないというのが本音だった。不思議な魅力を放つ魔法に憧れこそすれ、それを憎むほどの出来事を知らなかった。
しかし父さんは俺に繰り返し何度となく教え諭した。魔法はこの世に存在するべきではない、すべからく消し去るべきものであるのだと。
実際のところはどうなのだろう?
確かに俺は帝国軍兵士をはじめ、襲い掛かってきた人間の魔法によって殺されかけた。しかしこうして自分が発動したらしい魔法によって生きながらえてもいる。
人生経験も知識も少ない俺には答えが見つからない。きっと、これからも考えなければならないだろう。
魔法との付き合い方、それも特に、どうやら俺が使えるらしい治癒魔法との付き合い方を。
そう夢の中で自分なりに結論付けたところで、俺は腹部に強烈な痛みを感じた。
胸に突き刺さった剣先に比べれば気にするほどでもないが、ほんの一瞬、気持ちよく寝ていたはずだった俺の呼吸はピタリと止まった。
「ぐわっぱ!」
そして苦しみながら短く奇声をあげると、俺は目を見開いて飛び上がった。すると俺の腹部に乗っていたらしい何かが勢いよくその場でひっくり返る。寝ぼけ眼に目を凝らして確認すると、それは二本の腕に二本の足を備えており、いわゆる人の姿をしていた。
ひとまず冷静になり、周囲の状況を落ち着いて分析する。
すると答えは思いのほか簡単に出た。
目の前で尻餅をついてひっくり返っている成人男性らしき人影だが、どうやら彼が草の上に寝ていた俺の腹を足で踏んづけていたらしい。
ひっくり返った拍子に腰を打ったらしく、痛そうにさすりながら立ち上がった男性。彼はそこで初めて寝ていた俺の存在に気がついたようで、いかにも驚いた様子で声を張り上げた。
「いてぇじゃないか!」
「痛いのはこちらです!」
なにしろ睡眠中で無防備だった腹部を踏まれてしまったのだ。痛いというか軽く吐き気がする。よくよく見ると彼は俺より一回りくらい小柄な体をしているが、ちょっと他人より体重が軽いからといって、踏まれても痛くないわけじゃない。
いっそのこと治癒魔法を使って鈍い痛みを取り除こうかと思ったが、冷静に考えてやめておいた。見ず知らずの相手の手前、いきなり魔法を使ってしまえば無意味に警戒心を与えてしまいかねない。
とりあえず俺は腹を右手でさすって踏まれた痛みをこらえることにした。
さて、目の前で驚いた表情を続けている人物は俺よりも背丈が小さいが、なんだか全身から漂ってくる落ち着いた雰囲気から年上に見える。
年長者には尊敬を向けるのが礼儀だし、ひとまずは文句を告げるのも我慢しておくことにしよう。こちらにも非があると言えばあるし、相手だけを責めるのは自分勝手な理屈である。
「つーかさ、お前はこんなところで一体何をやっていたんだ? 死体ごっこか? そうやって草にまぎれて地面に寝ていられたら、普通踏むだろ。むしろ踏みたがるだろ」
踏むのはともかく、踏みたがるのはやばい。
だが口にはせず、冗談だろうと思って俺は流した。
「すみません、少し疲れていたもので」
「疲れていればどこでも寝ていいってわけじゃないぞ、ちゃんと家に帰って寝ろ。それともお前の近所じゃ道端でバタバタ人が寝ているのか?」
「そんなわけないじゃないですか」
「それを聞いて安心した。世界は相変わらず俺の知っている常識にあふれているようだ。お前が普通よりも変人なだけらしいな、やっぱり」
それは不服なことだったが、我ながら冷静になってみると確かに変人である。
逃げ続けて疲れていたからといって、こんなところで寝るんじゃなかった。
「ついてないなぁ……」
「ははは、まぁいいじゃないか少年。不幸だって一つの才能さ」
「すっごく前向きですね!」
もちろん皮肉だ本気で思っているわけじゃない。
まだ踏まれてしまった腹も痛んでいるのに、面白くもない彼の冗談に笑っている余裕なんか無い。
「ちなみに変人ってのも才能だぜ? お前ってすげぇよ、才能だらけだ」
確かに彼の言うとおり、前向きに考えれば変人というも一つの才能といえるかもしれない。
……それが社会的に必要とされるのかは別として。
「ところで、あなたは?」
何が才能であるかなんて、そんなことはどうでもいい。俺は気を取り直し、いまだにケラケラと楽しそうに笑っている彼に向かって素性を尋ねた。
すると彼は大笑いで乱れていた呼吸を数回の深呼吸でなんとか整えると、わざとらしく作ったような笑顔で淡々と答える。
「ああ、俺か? 俺はサツキだぜ。……よし、じゃあ今度は常識に従って俺からも尋ねよう。お前は?」
「俺はアレスタといいます。ええと、よろしくお願いします」
何をよろしくされるのか知らないが、念のために俺は礼儀正しく頭を下げておくことにした。ここ帝国には俺の知り合いなんて一人もいない。ようするに孤独だ。
だからどんな相手だろうと新しい出会いは大切にしておきたかった。相手が盗賊などでさえなければ、こちらの事情を話して助けを求めるべきでさえある。
「アレスタか。なるほどねぇ……」
「……ん、どうかしましたか?」
「いや、なんでもないぜ。気にするな」
「はぁ……」
なにやら歯切れが悪く、どこか様子がおかしいサツキさん。
まるで何か大事なことを隠しているような雰囲気だ。
だがしかし、ひょっとするとサツキさんはもとからそんな性格なのかもしれない。もったいぶっているだけという感じ。なら相手の態度を怪しいと考えるだけ徒労なことに違いない。
そもそも最初から相手を疑ってかかるという野暮なことなど、明確な理由もないなら、しないほうが人間は粋に生きられる。
過剰な警戒心を発揮して、無駄に神経をすり減らす必要などないだろう。
あちらから気にするなと言われたのだ。素直に気にしないことにしよう。
なにしろ俺は疲れているのだ。あまり頭が働いていないし、何はともあれひとまず休みたい。
「それでアレスタ、お前はどうしてこんなところで寝ていたんだ? もし事情があるなら聞いてやるぜ」
「ありがとうございます、助かります。……しかしそのことですが、ここで説明するには少しばかり話が長くなるといいますか、色々と込み入った事情があるといいますか――」
「ふーん? だったらアレスタ、ひとまず俺の家に来いよ。こっから近いところにあるし、どうせならそこで話したほうがいいだろうさ。ほら、そろそろ日が暮れるぜ」
そう言って見上げたサツキさんの動きにつられて、俺も空を眺める。
確かに途切れない晴れ空は西の果てから薄い茜色に染まり始めており、日暮れ前の不安な空気が周囲を満たしていた。このまま日が暮れて闇に閉ざされる夜になってしまえば、手元に明かりのない俺は救いのない暗闇に放り出され、危険の中に置き去りになってしまうことだろう。
サツキさんの申し出は、そういう意味でもありがたかった。
だから難しく考えるまでもなかった俺は感謝とともに首肯して、家まで案内してくれるというサツキさんの後を追いかけた。
彼が悪人でないという自分の予想を、ひとまずは信頼して。
延々と続いた草むらの果て、夕闇の中でも赤く燃えるように浮かび上がるレンガ造りの二階建て住居を目にしたとき、俺は小さく感嘆の声を漏らしていた。
美しい、はかない、幻想的。
それら修飾語を一括りにして、おしゃれと評しておくことにした。
「うるせぇ、お世辞はいいから早く入れよ」
照れ隠しなのか、褒めてあげたのに何故か不機嫌だったサツキさんに促されて家の中に入ると、今まで嗅いだことのない花の香りが室内に充満していた。
かぐわしい、優しげ、幻惑的。
それら修飾語を一括りにして、おしゃれと評しておくことにした。
「うるせぇよ。つーか、おしゃれおしゃれって、それしか言葉知らないのかお前は」
「それにしても広い家ですよね、驚きました。でも一人暮らしなんでしょう? たくさん部屋があったって、結局使わなければ無駄な空間じゃないですか?」
「その通りだが、そいつは余計なお世話だっ! 俺が寂しい人間だとでも言いたいのかよ!」
なかなか立派な住居だったが、一人暮らしにはもったいないくらいの豪勢な家である。父と二人暮らしだった俺の家よりもかなり大きい。サツキさんは俺よりも小柄だし、持て余していそうだ。
そんな失礼なことを考えながらも俺は正面玄関から入り、綺麗に磨かれた長い廊下を抜け、開放的に広がるリビングに通された。
床にはふかふかのじゅうたんが敷いてあるし、壁際の戸棚にはいかにも高価そうな調度品が間隔を置いて陳列してあったりする。
再び口をついて「おしゃれ」と言いそうになったのだが、またサツキさんを怒らせるのもあれだからやめておこう。
「素敵ですね」
「いいから黙ってそのソファに座っていてくれ」
呆れた様子のサツキさんに背を押され、俺はなされるがまま座り心地のよいソファに腰を沈めさせられた。
目の前には大きな木製のテーブルがひとつ。金色で繊細な刺繍の入った白いクロスがかけられている。
他人の家と思うと、なんだか落ち着かない。そわそわと緊張し始めていた。
「ほら、紅茶だ。まぁ飲めよ」
手持ち無沙汰にキョロキョロと室内を見渡していると、ティーカップや菓子皿を乗せた銀トレイを持ったサツキさんがリビングに戻ってきた。
ふんわりと淹れ立ての紅茶からかぐわしい香りが漂ってきて、知らず知らずのうちに空腹でうなされていた食欲が刺激されてしまう。律儀にも今まで鳴りを潜めていた腹の虫まで賑やかに音を立てて反応した。
慌てて右手で腹を押さえたが、漏れた音を隠すには間に合わない。ここはありがたく差し出された紅茶とクッキーを頂くことにしよう。
「い、いただきます……!」
すっかり恐縮していたものの、ぎこちない動作で俺は差し出されたティーカップを手に取った。差し向かいに座ったサツキさんは意地悪そうにニヤニヤと笑って、不器用に俺が紅茶を口につける仕草を黙ったまま見守っている。
あまりの気恥ずかしさに、俺の頬は熱を帯びて赤く染まる。
紅茶も熱い、火傷する。
「すごい、とてもおいしいですね」
実際には不幸にも俺は極度の猫舌だったので、正直言えば味なんてよくわからなかったが、とりあえず一口だけ紅茶を含んだところで感謝代わりに好意的な感想を述べておく。
そもそもこれは豆知識ならぬ葉知識だが、高級な紅茶は舌で味わうまでもなく、香りだけでおいしさが伝わってくるものなのだ。
……たぶんね、自信はない。
「それはよかった。じゃあほらアレスタ、お前の口に合うか保障できないけど、この焼き立てではないクッキーを差し上げよう」
「おお、これは冷めたてクッキー!」
ひんやりと冷めていておいしい。氷でも使ったのか。果たしてクッキーなんぞに旬の時期があるかどうかは存じ上げないが、個人的見解では夏にお勧めの一品だ。
淹れ立ての紅茶が白い湯気を天井まで立ち上らせているほど熱々なのに対して、この冷やしたクッキーはちょうどいい口直しといったところか。もてなしてくれるサツキさんにそんな意図があるのかどうかはいざ知らず、組み合わせがいい。
そんな感じでゆったりしたティータイムを過ごしていると、にわかに居住まいを正したサツキさんが、唐突に何か大事な用件を思い出したかのように口を開いた。
「それでアレスタ、お前の事情って?」
端的に問われた俺であったが、どこまで正直に答えるべきか迷ってしまう。
なにしろ事情が事情である。
実は東のエフランチェ共和国から逃げてきたとか、帝国軍の兵士に命を狙われているとか、そんなことを口にすればサツキさんも困るだけだろう。
俺だって馬鹿じゃないのだ。自分の都合に無関係な他人を無遠慮に巻き込んだりしない。
「えーと、えーと……」
ゆえに俺は首をひねり、頭を抱えて懸命に考えた。
どうせつくなら上手い嘘がいい、それもサツキさんには迷惑がかからないような。
「正直に言えよアレスタ、お前は追われているんだろ?」
「まぁそうですが……って、えっ?」
俺は自分の耳を疑い、とっさに顔を上げてサツキさんの瞳を覗き込んだ。
なんだろうこれは、まさかこちらの事情を知っている?
いや待て、冷静に考えろ。
見た目には普通の好青年らしいサツキさんが、追われている俺の事情を知っているはずがない。もし本当に俺の事情を詳しく知っているとするなら、それは帝国軍にかかわりの深い人物ではないのか?
いくつもの疑念が頭をよぎり、理性が鳴らした警鐘は胸に響いた。
一度は信じたはずのサツキさん。だがこうなると窮地にあった俺には彼が敵か味方か判断など付けられず、極度の緊張に表情を強張らせた。
「ははは、そんなに怖がる必要はねぇよ。アレスタ、俺はお前の敵じゃない」
「いや、ですが……」
そう言われても俺には彼の話を信じることが出来なかった。
敵じゃないと言われても、それを確かめられる証拠が何もないのだ。それで無条件に初対面の他人を信じられるほうが難しい。こちらを罠にはめるため嘘をついている可能性だって捨て去れない。
「カタルシス……いや、今はカーターと名乗っているんだったか?」
「カ、カーターって、その名前! それじゃあ、まさかサツキさん、もしかしてあなたって……」
サツキさんが口にしたカーターことカタルシス。
そのあまりに聞きなれた名前を耳にした俺は、期待と信頼を込めたまなざしでサツキさんを見詰める。
サツキさんはうなずいて、まぶしいほどの笑顔で答える。
「ああ、そうさ。俺はカーターの、つまりお前の育ての親と知り合いなのさ。あっちも追われているらしく今は連絡が取れないが、大体の事情は聞いている」
「サツキさん……」
何を隠そうカーターとは、俺の父さんの名前である。
ただしサツキさんが言ったとおり、あくまでも育ての親であって、俺とは直接の血のつながりはない。
けれど父さんは男手一つで俺を育ててくれた優しい人であり、そんな父さんの知り合いというからには、きっとサツキさんも信頼に値するだろう。おそらく父さんが言っていた帝国辺境に住む頼れる知り合いという人物も、サツキさんのことだったに違いない。
「泣くなアレスタ、大丈夫だ。俺がなんとかしてやるぜ」
「サツキさぁん!」
泣くなと言われたが、やっぱり駄目だ我慢なんて出来るわけがない。頼れる人物の登場に俺は嬉しくて泣いた。
ずっと心細かったので、いつまでも涙は止まらない。
そのまま収まることを知らないあまりの感動に、ふと俺は思い立った。この胸に溢れる感謝と信頼の気持ちを伝えるべく、このままソファから真っ直ぐテーブルを飛び越えてでもサツキさんの胸に抱きつこうとしたのである。しかしそれは直前に失敗する。
呆れ眼のサツキさんによって右手で制されたのだ。
落ち着け俺、とりあえず座ろう。
「だがなアレスタ、すまん。残念ながら今の俺は魔法を使うことができないんだ。お前の安全を守るためにも、とりあえず帝国にいるっていうカーターを探す必要があるだろう。……というわけで、早速だが明日にもこっから一番近い町に出かけてみるか?」
もちろんお前も一緒に来い、そう言ってサツキさんは俺に確認を求める。
ありがたくも親切に俺のことを助けてくれると言っているのだ。身よりなき異郷の帝国、他には頼るべきもののない俺にそれを断る理由はない。
……ないのだが、一方で気にかかることもあって、なかなか即答することは出来なかった。
「ですが、大丈夫でしょうか? その、俺は帝国軍に追われているわけですし」
そう、今も俺は帝国軍兵士に追われている身の上なのだ。無警戒に町の中に姿を見せてしまっては、一体どんなことが起こるか知れたものではない。
身の安全のためにも、ここはどこかに隠れさせてほしいというのが本音だった。
返答に迷っていた俺が捨て犬のように涙目で震えながら不安がっていると、それを感じ取ってくれたのか、サツキさんは優しい口調で言ってくれる。
「お前を追っていたのは正規の帝国軍じゃない。皇帝直属の命令を受けた特務部隊だろう。そうだな、簡単に言えば暗殺部隊だよ。町にまで姿を出すような連中じゃない」
「そ、そう言われましても」
大々的に帝国軍が動いているわけじゃない。その事実は確かに救いだ。
もしも本格的に帝国軍が俺一人のために討伐作戦を開始していたのなら、万が一にも助かる見込みなど残っていなかったことだろう。
しかし少数とはいえ敵の正体は暗殺部隊という。今もなお俺のことを狙っている存在があるというのは安心できる話ではなかった。
「それに奴らにとって本来の敵は反魔法連盟であるアゲインストだ。お前がそれに関係ないっていうんなら、今後ことさらに命を狙われることもないだろう。つまりお前はアゲインストの関係者だと誤解されているんだろうさ。あいつらにお前の無罪を説明できさえすれば大丈夫だからな、よければ俺も一緒に証言してやる」
「反魔法連盟?」
それは聞いたこともない名前だった。
もちろんその名前から、おおよその想像をつけることは可能である。
その予想を肯定するかのように、サツキさんが説明してくれた。
「反魔法連盟アゲインストって奴らはな、この世界から魔法使いを根絶やしにするっていう過激な思想を共有する集団のことだ。もちろん、基本的にそいつらは魔法なんて使えない人間が大半らしい」
「なるほど、つまり反魔法連盟アゲインストを退治するための対抗組織が、俺のことを狙っていた帝国の特務部隊っていうわけですか」
反魔法連盟アゲインストが魔法使いを根絶やしにすることを目的とした集団であるということは、つまり彼らが魔法使いを狙った組織的な殺人集団であると言い換えることも出来るだろう。
ここデウロピア帝国に限らず、世界中のあらゆる国家では少なくない魔法使いが存在していて、同時に魔法を使えないたくさんの人間が隣り合って暮らしている。
今まで正確な統計が示されたことはないが、程度の強弱はあれ、少なくとも人類の半数はなんらかの魔法を使うことができるといわれている。
だから、もしも反魔法連盟の主張を素直に受け取るのならば、彼らは人類の半数を殺してしまおうと言っているようなものなのだ。それが事実とすれば、なるほど危険極まりない存在である。一般的な魔法使いにとって、とてもじゃないが気の休まらない物騒な話だろう。
特務部隊などという暗殺部隊が、本来の帝国軍とは別に独自行動を取り、反魔法主義者の命を狙うのも無理はない。どちらも目的のために殺人が手段となっていることは残念だが、反魔法連盟を野放しにしておくわけにはいかないということは俺にだって理解できる。
「そうはいっても反魔法連盟は世界情勢の中でもかなり異端な存在だし、今ではすっかり下火になってきている。そこまで心配することはないだろう」
「そうですか、それはよかった」
いかなる対立であれ、無益な争いの火種は消えてしまうのが一番に違いない。どんな高尚なる理想を掲げていようと、あるいはもっともらしい理由を備えていようと、独善的で物騒な組織集団などは勝手に消え去ってくれればいい。
そんなことより、今は俺がそんな危険な組織である主義者の一人に間違われているという事実のほうが心配だった。反魔法連盟なんてもの、少なくとも俺は今まで聞いたこともない。
どうしてなのだろう?
「カーターに会えばわかるさ。お前の父がきっと知っている。それより今日はもう休め、明日の出発は早いぜ?」
「あ、はい。ではサツキさん、そうさせていただきます」
色々と疑問や不安は尽きなかったが、俺はサツキさんのご好意に甘えて一晩の宿を頂くことにした。
案内された部屋は二階の隅で、客間だという小さな一室だった。
眠って体力を回復するよりほかに特にするべきこともなく、俺は早々に休ませてもらうことにした。