1 雨の日の依頼
現実なんてものは誰にとっても非情であり、たいていの場合は間が悪い。
たとえば普段なら解決するのが簡単な依頼内容であったとしても、時と状況によっては依頼の危険度や緊急性が増してしまうことがある。
情報収集は助手に任せて自分は紅茶片手に安楽椅子、そんな優雅な探偵のようにはのんびりとしていられない、つまりそういうわけだ。
ふと見上げれば今にも振り出しそうな曇り空は不気味にベアマークの町を覆い隠しており、そよいだ音のない孤独な風は肌触りが悪く、つられるように生じた不安がいたずらに心を乱した。
このまま一雨来る前に見つけ出さなければならない。そう思って俺は足を速める。
雑踏の合間、路地裏の片隅、屋根や塀の上、木箱や水路の中。
町を縦横無尽に走り回りながら、あちこちをしらみつぶしに探し続ける。
けれど見つからない。痕跡すらもわからない。
道すがら聞き込みもした、出来る限りの張り紙もした、こうして実際に各所を走り回って探してもいる。それでも手がかりさえつかめない現状に俺は焦り始めていた。
――このまま見つからなければ無事ではすまないかもしれない。あの依頼主の少女は悲しみに泣いてしまうだろう。不安に震えた小さな少女の右手が、俺を頼ってギュッと握り締めてきた感覚を思い出す。
駄目だ、諦めるにはまだ早い。悩んでも足は止めるな。
そう自分に言い聞かせると決意を改め、俺は再び駆け出した。
「あ、ニック!」
何か見落としたヒントはないかとギルドへの道を戻るように進んでいると、顔を上げた前方、路上に発見したのはニックの後姿だった。
溺れる者はわらをもつかむ。どうせ役に立たないと思いつつも、今の俺は期待して声を掛けるしかなかったのだ。
「アレスタ!」
こちらの声に気づいて勢いよく振り返ったニックは両手を横に広げて歓迎ムードらしく、それはもう嬉しそうに俺の名前を呼んだ。
この胸に飛び込んで来いと、そう言われているような気がする。
このまま抱きつかれてはたまらない。慌てて立ち止まると俺は跳ぶように三歩後方へと下がった。
するとニックは広げていた両手をそろって膝に当てて、わかりやすく落胆してしまう。
「うわ、今のちょっと傷ついたよアレスタ」
「それよりどうしたのさ、その右頬の傷……」
失敗ばかりのニックが落ち込むのは最近もはや日常茶飯事であり、その事を気にして構ってしまうのは時計の針がぐるぐる回る当然のことを不思議に思って一日中眺め続けるようなものであろう。
要するに馬鹿馬鹿しいので無視するがよい。
というわけで俺が気にかかったのはニックの右頬、ずいぶん派手に描かれた三本の赤い直線であった。
おそらく血のにじんだ傷跡だろう。
右の頬へと斜めに入った引っかき傷。見れば大体の想像はつく。
「ああ、これ? ふふ、捕まえようとしたら猫に爪で引っかかれたのさ」
聞いていて悲しくなるから威張るなよ。
「……予想通りだけど、でかしたニック。それは、どこで?」
「うん、今から案内するよ。ついてきて」
「ちょっと不安だけど背に腹は変えられないね、ここはニックを信じることにしよう」
ギルドに対する依頼というと大小いろいろ想像できるかもしれないが、今回俺たちが依頼された案件はといえば、純粋な難易度だけでいえば小の部類に属するであろう。
なにしろ依頼は「逃げ出した猫の捜索」だったのだ。
それも生まれたばかりの弱々しい子猫ではない。もう何年も健康に生きてきた立派なオス猫である。
俺はその猫が家を逃げ出す前に散歩しているところを見かけたこともあったが、そして挨拶ついでに可愛がってやったこともあったが、あいつならきっと野良でも十分に食っていける屈強さがあるように思われた。たまたま失踪したからといって心配無用で、行方不明とはいえ捜索を急ぐ必要はない気もする。
だが、あいにくベアマーク本日の空は不気味な雨模様。さすがに行き場をなくした迷い猫が一匹きりで、これから降るであろう激しい雨に打たれて震えるのは、心を持つ人間としては無視できない悲哀さを感じさせるものだ。
そしてなにより、逃げ出した猫の飼い主であり今回の依頼主は純真無垢なる五歳の少女。それを涙に悲しませるわけにはいかなかった。
……などと考え事をしているうちに目的地へたどり着いたらしく、数歩先を行くニックは振り返って俺の前方を指差した。
「ここだよ、アレスタ」
「どこだよ? ニック」
だがそこに猫の姿は一匹として存在しない。
あるのは散乱したゴミと薄汚れた壁のみであった。
その事実にやっと自分でも気付いたのか、ニックは悔しそうに歯を食いしばる。
「くそ、ここでじっとしていろって命令したのに……」
「ニックさ、それって誰に命令したの?」
「ん? もちろん猫に向かって言ったに決まっているじゃないか。アレスタ馬鹿なの?」
いやお前が馬鹿だろう。
自分のことを捕まえようとした人間を引っかくような猫が人語を理解するはずが、よもや理解しても上から目線の命令に「はいそうですか」と素直に従ってくれるわけがない。
まったくなんだかなぁと呆れてため息を漏らすと、そのとき突然の異変を感じた。ぽつりと頭に何かが当たったような気がした。
手のひらを上向きに、受け皿のように水平にして顔の前に出す。すると広げた手のひらが弾くのは、空より落ちてきた水沫だ。
ぽつんぽつんと落ちる水滴は次第に数を増していく。どうやら本格的に雨が降り始めたらしい。手のひらに張り付いた水滴を握り締めると横に振り払い、俺は名残惜しそうに周囲をキョロキョロ見渡しているニックに言った。
「ニックは一度ギルドに戻ってさ、新しい情報があるかを確認してきてよ。俺はこの辺りを重点的に探すから」
「僕はいいけど、アレスタ大丈夫?」
「もちろん大丈夫、問題があるとすればニックに心配されてしまったことだけ」
「はっはっは、確かにね」
笑ってないで急げよ。
「じゃあもう、俺は行くからね!」
無駄な会話に時間を浪費してばかりはいられない。今すぐ意味のある行動に移ろう。
俺は行き止まりから壁に沿って移動し、猫が行きそうな場所を見落とさないように注意して確認しながら走り始めた。
だが一向に見つからない。
焦る気持ちに比例してか、降りしきる雨は激しさを増していった。
おそらく今なら逃げ出した猫も雨宿りのために屋根のある場所でじっとしているだろう。そうすれば探すべき候補地点が絞られるのだ。カンカン照りに晴れているより、かえって捜索にも都合がいい。
そんなことを前向きに考えながらも、やはり雨に濡れることによる寒さと気持ち悪さは誤魔化しきれなかった。
けれど現実だって努力する人間をねぎらうような少しくらいの優しさはある。
「……いたっ!」
とある民家の軒先の、ちょうど人間一人くらいが雨宿りできる小さな空間。
そこにいたのは、見慣れた一匹の猫だ。ただの猫ではない。この辺りでは珍しい、尻尾が三叉に分かれた不思議な猫である。
名前をケイトという少し太った毛並みの悪いオス猫は、お世辞にも可愛いとは言い切れない。人間を見下したような細い目、いたずら好きで迷惑根性を表すかのようにひん曲がった猫ひげ、そして無愛想でちっとも鳴かない。
折角のチャームポイントである三叉の尻尾だって、振られることなく大抵はだらりと力なく垂れているばかりだ。
猫は愛玩動物だとニックが偉そうに語っていたが、こんな無愛想な猫よりも、その飼い主のほうがよっぽど可愛らしい。癒しを求めて愛玩目的に手を差し出して撫でるなら、全身が薄汚れていて喜びもしないドラ猫より、頭にポンと手を載せるだけで微笑み喜んでくれる小さな飼い主さんのほうがいい。
いや、これは猫と比べるまでもないな。無垢な彼女は絶対基準的に可憐な存在なのだから。
そんなことを考えながらも、これはギルドへの依頼なのだ。失礼があっては許されないので、逃げられても大変だと思った俺は可愛げのない猫を相手に精一杯の愛想を使う。
「は~い、ケイトちゃん。俺の腕の中においで~」
「……フッ」
鼻で笑いやがったぞこいつ。お前猫だろ、せめて嫌なら威嚇してくれ。
さんざん探し回っていた俺のことを馬鹿にしたような態度に、ふつふつとわいてくる怒りにも似た衝動。抑えきれない感情。
思えば治癒魔法で傷こそ残っていないが、俺はケイトと顔を合わせるたびに全身至る所を鋭い爪で引っかかれては流血している。
俺の方は無愛想な猫が相手でも仲良くなろうと思って歩み寄りを見せ、いつも手を頭に乗せたり下あごをこちょこちょしたり、とにかく積極的なスキンシップで可愛がろうとするのだが、対するケイトはとにかく警戒心が強いらしく、その体へ触れることさえ許さないと爪を振るっては牙をむき出し、うわごめんと謝って逃げる俺を追いかけたりするのだから始末に終えない。
どこまでも冷たい奴なのである、本当に。
……だからケイトのことを可愛くないと評価するのは俺の負け惜しみであり、なついてくれない猫に対する無意味な強がりなのだ。
こんな無愛想な奴を可愛いと認めることが悔しいのである。
でも我慢できないや。本当は大好き。猫ってブサイクでもかわいいね。
力強く抱きしめたい。
「ケイトこの野郎っ! 心配したぞー!」
無事でよかったと涙ぐみながら飛び掛った俺の行動は予想外だったのだろう、ケイトは驚いて身をすくめたが逃げ出すには間に合わなかった。
頬をすりすり胸元に、一度抱きしめれば決して離さない猫が好きな俺である。抵抗を諦めたのか、脱力して身を任すケイト。そっと流し目で俺を見上げる猫と目があった。
なんだよこいつ、やっぱりほんとは可愛いな。
ふふ、ぎゅっとしてやろう。
「……フゥ」
ため息を漏らしやがった。お前猫だよな、どうか一度くらいニャンと鳴いてくれ。
「しかしまぁ、本当に無事でよかった。依頼とか関係なく、ね」
ケイトが風邪を引いて寝込んでしまうと大変だ。俺は雨がやむまで胸に抱きかかえ、めでることにした。よく考えると俺の服は全身雨に打たれて濡れてしまっていたが、そこは我慢してもらうほかない。
そのまま雨音に耳を傾けていること数分、慌しく近づいてくる足音があった。
「やぁアレスタ、やっと見つけた!」
傘を持ったニックが迎えに来たのである。その手には俺の分もあり、男二人で相合傘の心配はない。
「俺もケイトを見つけたよ。ニック、迎えに来てくれてありがとう。一応感謝するよ」
思えばギルドには俺と同じようにケイトの無事を心配している飼い主さんが待っているはずだ。彼女を安心させてあげるためにも急いで戻ることにしよう。
そういうわけでギルドに向かって歩き始めたのだが、先ほどから町を覆う天気はあいにくの雨だ。激しく降り注ぐ雨水を避けるには傘が必要不可欠だった。もちろんそのためにニックが傘を持ってきてくれたのだが、すでに俺の腕は二本とも胸のケイトを抱きかかえるためにふさがれていた。
これでは傘を差すための余裕がない。
「仕方ないなぁ、はい」
同じペースで隣を歩くニックは左手で自分の傘を、そして横に伸ばした右手で俺に傘をさしてくれた。一つの傘に所狭しと肩を並べた二人が入る相合傘ではなかったけれど、これはこれで恥ずかしい。
顔を隠すようにうつむいてケイトを見ると、隣のニックも猫の顔を覗き込んできた。
「ケイトって無愛想だけどさ、なんか憎めないよね」
「……そうだね、ニックみたい」
「え、僕って無愛想?」
「違うよ、なかなか憎めないってところがケイトとそっくりなんだ。……なんだかんだ言うけどさ、ニックっていい奴だよ」
最後まで言ってしまって顔から火が出るほど熱を帯びてしまったのだが、まぁ本音だ。恥ずかしいけれど後悔はしていない。
数週間前から帝国で暮らし始めた俺には知り合いなんてまだまだ少ない。なにかと優しい親切なサツキさんは頼れる先輩であり兄のような存在で、だから気の置けない友達なんて胸を張って言えるのは、今の俺にはニックくらいしかいないのだ。
こんなときくらい素直になるがいい。雨音が恥ずかしさを隠してくれるさ。
「それにしてもさ、雨やまないね」
「……そ、それにしてもってなんだよ! 自分で言うのもあれだけど俺がニックを褒めるなんて雨が降るより珍しいよ、もっと驚いてよ! そして雨は降り始めたばっかりだよ、そりゃやむわけないだろ!」
「ちょっとアレスタ暴れないで、雨に濡れちゃう! この傘は安物で小さいんだ、激しくダンスされちゃうと庇いきれないから!」
「……ヘクシッ!」
「あ――っと、ごめんケイト」
無愛想どころか無頓着なニックの態度に納得がいかず子供のように暴れてしまったが、ケイトの大きなくしゃみを耳にして俺は我を取り戻す。俺一人が雨に濡れるのは別に問題ないけれど、ケイトまで巻き添えを食らうのは看過できない問題である。
まだまだニックには言い足りないことが胸中を渦巻いていたが、折角いい奴だと褒めたばかりだ。俺だって大切な友人と無益な喧嘩をしたいわけじゃない。ここはケイトに免じて許しておこう。
しばらく沈黙が続き、退屈しのぎなのか、ニックは独り言のように切り出した。
「うーん、やっぱり早くベアマークの魔法化都市計画が達成されるといいね。アレスタもそう思うだろう?」
「いや別に思わないけど、どうして?」
「だってさぁ、高度な魔法の力を利用して、町に降る雨を制御するのはどうだろうとかって議論されているみたいだよ」
「魔法の力で雨をコントロール? 雨乞いみたいな?」
その回答は外れだったのだろう。
聞いて呆れた風に鼻で笑い、ニックは優越そうに長々と説明を始めた。
「たとえば広域魔術でベアマーク周辺の天候を操るとか、町の上空に結界を張ってドーム状の傘を作るとか、あるいは雨が振っても都市生活に影響がないように一定の質量を持った水そのものを空想的に概念化させて実体を消失させてしまうとか、いや凝結した水分を小さく分解して風で郊外に吹き飛ばすべきだとか、そもそも地上から蒸発した水分が大気中で雨雲を形成する前に地面へと吸収されるように魔力で強引に循環させるとか。
そういう案を政治家たちが出し合ってね、それぞれの問題点や対策を考えている段階らしいよ。だけど魔術だけじゃなくて、最近流行の科学的な学術理論も応用されているみたいでさ、さっぱり僕には理解できなかった。自分で言っていて意味がわからないもの」
だろうな。
「ふーん、雨なんて降らせとけばいいのに」
「ははは、それはそうかもしれないね。ちなみに一番現実的な方法ってさ、高度魔法化都市っていうには派手さがないけれど、魔力を帯びた特製の傘を一人ひとりに配布することだって。魔法が使えない人でも擬似的に魔法が使えるようになる魔道具だね。外を出るときにそれを使えば、どんな雨でも体が濡れないように個人的な魔術結界を張りつつ、しかも自然環境そのものには影響を与えないから」
「ふーん、よくわからないけど量産して売り出せば儲かりそうだ」
「確かにそうなんだよね、まさか町の財政のために傘を専売的に売り出すわけにはいかないけどさ。今はベアマークの傘職人たちと新しい傘を作るための研究中だって話もあるよ。まだ噂だけど」
「噂かぁ、どうせニックのことだから事実とは大きく異なっていそうだね」
伝言というものは人から人へと伝わっていくうちに面白おかしく内容が変わってしまうものである。ゆえに噂話などは話半分に聞くくらいがちょうどいい。しかも語り手は信頼性に乏しいニックなのだから、まともに相手をするほうが間違っている。
適当に相槌を打ってニックの話は聞き流し、俺はギルドへと急いだ。
開業した我がギルドはベアマークの大通りとは別区画、どちらかといえば閑静な住宅街の片隅にある。
空き家がそこにしかなかったといえばそれまでだが、築十年前後で老朽化もしておらず、俺から不満というものは何もない。
なにより家賃ゼロで住まわせてもらっていることもある。融通してくれた領主には今度改めて感謝を述べておこう。
「お待たせっ!」
手がふさがっていたので足を使って扉を開けて入ったギルドの受付では、イリアスと依頼主の少女が待っていた。
行方不明の飼い猫を心配して不安そうに顔を曇らせる少女を安心させるためか、椅子に座ったイリアスの膝上にちょこんと少女は座り込ませれ、イリアスが彼女を後ろから抱きしめている。
大変仲がよろしい姿だ。
「あっ、見つけてくれたんだ!」
俺とニック、そして俺に抱きかかえられたケイトの姿を見つけると、その瞬間に彼女は目を輝かせて、身をゆだねていたイリアスの膝元から飛び降りて元気よく駆け寄ってくる。
イリアスは少しだけ寂しそうな目で遠ざかっていく彼女の動きを追っていたが、たまたま俺と目が合うと苦笑して顔を横に傾けた。
照れたのかもしれない。いつも凛々しい彼女には珍しいものだ。
そして駆け寄ってきた少女は嬉しそうな笑顔を浮かべて俺に抱きつき、そのまま上目遣いに俺とケイトの両方を見詰めてきた。
「アレスタ先生、ありがと!」
「どういたしまして、チークちゃん」
背伸びしたって頭が俺の腰くらいまでしかない五歳の少女はチークという。どうやら彼女はギルドの近所に住んでいるらしく、開業初日から遊びに来てくれていて、その関係で俺やイリアスになついてくれている。
何を勘違いしたのかギルド代表の俺を先生と呼んでくるが、怖がられてしまうよりはいいだろうと訂正しなかった。
「あの、僕は?」
「こないでください」
このように何故かニックはチークから警戒されているが、たぶん嫌われてはいないと思うよ元気出せ。
五歳児から礼儀正しく頭を下げられ拒絶されたニックは涙した。
だが失敗ばかりでツキもないニックが落ち込んでしまうのは日常茶飯事であって、いちいち構っているのは時間の無駄だということは説明済みのはず。ゆえに無視する。
チークから抱きつかれた勢いでケイトを床に落としてしまいそうになったが、それを本能的に察したのか俺の頭の上に飛び乗っていたケイトを捕まえると、はいどうぞと俺は猫をチークに差し出した。
飼い猫と飼い主、半日ぶりの再会である。どっちも泣かないが嬉しそうだ。
やっとチークの腕の中へと収まったケイトの頭をなでつつ、俺は微笑む。
「もう逃げ出したりするんじゃないぞ、ケイト」
「……ン」
偉そうにうなずかないでニャンくらい鳴けよ、猫だろ。
「チークちゃんも一応これから気をつけてね、またケイトが逃げ出したりしないように」
「うん、わかった。アレスタ先生、本当にありがとう」
そして小さくお辞儀するチーク。彼女の胸に抱きかかえられているためか、ケイトも一緒に頭を下げる。どっちも可愛いな。
ほんわか見守っていると、顔を上げたチークが申し訳なさそうに表情を曇らせてしまう。無事にケイトが見つかったのにまだ何か問題でもあるのかと思った俺は気を引き締め、次なるチークの言葉を待つ。
「あのね、でもねアレスタ先生、私お金とか持ってないの……」
ギルドとは職業組合のことであり、仕事であるからには慈善事業ではない。依頼を解決してもらえば依頼料を支払わねばならないのが依頼人の責務である。
だがそこは五歳の少女、世間の常識など当てはめる必要もない。
「ねぇチークちゃん、知ってる? 可愛い子供からの依頼はね、どんな難しいことだろうと俺たち大人は無料で全力を尽くして、わざわざ頼まれなくたって解決しようと努力するものなんだ。だからお礼とかいらないよ、俺たちは当たり前のことをやっただけ」
「で、でも……」
おそらく五歳なりに思うところがあるのだろう、チークは不服そうに唇を噛み締めた。こちらとしては御代無用なんて深い意味もない単純な優しさのつもりだが、背伸びしてでも大人になりたがっている彼女にしてみれば、見下されているように感じたのかもしれない。
年長者からただ守られるだけ、気を遣われるだけという一方的な関係性は往々として、子供の自尊心をひどく傷つけてしまいかねないものなのだ。可愛い子には旅をさせろ、とは少々違うものだが、相手が子供だからといって軽く扱ってはならない。
そんな風に自分の発言について反省していると、今度は何かいいことを思いついたらしく、チークはその場で嬉しそうに飛び跳ねる。
いや、腕の中のケイトが困っているから少し落ち着いて……と思いつつ、あまりの喜びようを目にした俺はチークの発言を楽しみに待った。
するとチークは屈託ない笑顔を浮かべて左右にステップを踏み、腕の中で困惑するケイトを抱きかかえたままくるっと一回転。
「そうだ、だったらキスしてあげるよ!」
「えっ?」
驚きつつ身構えてしまう。当たり前だ少女を相手にそれはさすがにまずい。もちろん個人的には嫌じゃないというべきか、子供らしい感謝の仕方で心温まる話である。
だが世間の目は冷たく厳しい。たかがお礼とはいえ、少女のキスを受け取るわけにはいかないのだ。ここは十八歳の男子らしく毅然とした態度で断らなければなるまい。
「いや、ちょ、ありがたいけどごめんね、そのさっ!」
「いいからいいからぁ!」
天真爛漫に無邪気なまま踊るように近づいてくるチークに俺は赤面必至で狼狽し、挙動不審に手をあたふたと振り乱してしまう。
怖がるように顔を上向きにしてチークから視線をそらしていると、右手に魔術とは異なる人肌の温かみが伝わる。なにやら柔らかな感触だ。
そして雨音にまぎれて聞こえた小さな音。
これはいったい何事かと思って確認してみると、チークは小さな両手で俺の右手を握り、その甲へと可愛らしい口付けをしたのだった。
いかにも世間ずれしていない少女らしい、純真無垢なお礼である。
「あ、ありがとう」
五歳の子供相手に何を照れているんだお前は、とか呆れられてしまうかもしれないが、手の甲へのキスという意表をつかれたお礼に俺はすっかり気恥ずかしくなり落ち着きを失っていた。
お金では決して得られることの出来ない幸福感というものは、こういうことを言うのだろう。
「ふふっ、じゃあねっ!」
馬鹿馬鹿しいことで呆然としている俺に向かって手を振ると、にっこり満面の笑顔を残したチークは元気よくギルドの外へ飛び出した。
まだ雨は音を立てて降っている。当然ながら濡れたくないであろう彼女は右手で傘を差した。
そうすると傘を持つために右手が使えなくなり、残った左手一本だけで抱きかかえられることになった猫のケイトは彼女の腕から落ちないようにと、必死の形相でチークの肩にしがみつく。
がんばれよ。
「そうだ、ニック。もしも暇なら念のためにチークちゃんを家まで送ってあげて。彼女を一人で歩かせるのは危険かもしれないし」
「そうだね、そうしよう」
雨降る今日は町も薄暗い。五歳の女の子を一人きりで歩かせるのは不安だという意見に同意してくれたニックは傘を片手に外へ飛び出し、先を行くチークを追いかける。
冷静になって考えると、ニックに彼女のことを頼むより、ちょっとくらい忙しくても自分で追いかけたほうがよかったかもしれないが、さすがのニックもチークを家まで見送るだけなら失敗もないだろう。
いや、そんなことよりチークから邪魔者扱いされて追い返されなければいいが。
「逃げ出したケイトも無事だったし、チークちゃんの笑顔も守れたし、なんとか俺のギルドも町の役に立てているようで嬉しいなぁ」
「それよりアレスタさん、全身びしょ濡れじゃないですか。早く着替えてください、そのままでは風邪を引いてしまいますよ?」
遠い目をして依頼達成の感慨にしんみり浸っていた俺だったが、何故かすっかり呆れ眼のイリアスに注意されてしまう。その手には一枚のタオルがり、雨に濡れてしまった俺のことを気遣ってくれているらしい。
優しい女性を無闇に心配させてはならない。気を遣ってくれるイリアスを安心させるためにも俺は胸を張って答えた。
「大丈夫さ、俺は丈夫なことだけが取り柄だからね」
「ならいいですが……」
心配性なのか不安そうな顔をするイリアスからタオルを手渡され、俺はお辞儀とともにそれを受け取る。
渋々ながら俺の言葉に納得してくれたようでよかったが、実は他にも取り柄があるって言ってほしかったのは秘密である。
「今日は着替えて早めに休むことにするよ、心配してくれてありがとう」
「わかりました。たぶんケイトを探すために町中を走り回って疲れたのでしょう? ちゃんと休んでくださいね」
「うん、イリアスもね」
というわけで、本日はギルドを早めに閉め、十分な休息を取ることになった。
ちょうどいい機会かもしれない。ここで新しく始まったギルドの拠点となる施設の構造を簡単に説明しておこう。
ギルドとしてイリアスが準備してくれたこの建物は意外と大きな二階建てであり、一階はギルドの受付と掲示板、並んだ椅子とテーブルが設置された談話スペースなどが用意されている。
階段を上った二階は関係者以外立ち入り禁止のプライベートな生活空間であり、俺とイリアスの寝室もそこにあった。
ちなみに準メンバーであるニックの自宅はギルドとは別にあり、領主から任命された俺の監視役だという彼も、日が落ちた夜は静かな就寝のため自分の家に帰ってくれる。
おいおい監視役の務めはどうしたと我ながら言いたくもなるが、正直な話として一日中ニックに付きまとわれず一安心だったので文句はない。
とりあえず毎日は大きな問題もなく経過するようだった。