14 治癒魔法使い
それでも膝を屈しなかったのは、せめてもの矜持である。
カーターの一振りによって切り落とされたのは右腕、この胸に受けたのは衝撃、どうしようもないほど失ってしまったものは希望。
思わず生じた諦観、頭をよぎる敗北の文字。
だがこの身を覆った深い絶望は一瞬のみだ。即座に俺は希望を作り出す。
自分の意志により目覚めさせるは、不屈の闘志。絶望を希望で塗りつぶす。
一度は目線を下げて地面に転がったそれを見て、唯一の頼みだった右腕が失われた過酷な状況を再確認して、しかし俺は再び奮い立った。毅然と真っ直ぐに顔を上げて、両足で力強く大地を踏みしめて、カーターに立ち向かう決意を取り戻す。
――構わない、いらないさ。
失われたものの代わりとして、左腕がうずく。
――右腕を失ったくらいで諦めるわけがないじゃないか。
左手をゆっくりと右肩へ、その先がなくなった右腕へと動かす。
――治癒魔法は俺の想いが、決意が使わせてくれるのだから。
強力な魔力の奔流、凝縮、そして再生。
――だから右腕、帰ってこいよ。
そして発動したそれは、間違いなく治癒魔法。
霧散するように消失した路上に転がっていた右腕は、先ほどカーターによって切り落とされたもの。おそらく肩から先へと光を放ちながら一瞬のうちに復活した新しい右腕とは、同時に存在し得ないのであろう。
右腕の切断跡が魔法の力によって完璧に治るとともに、周囲に飛び散っていた大量の血も蒸発するように消え去った。
再び感覚の宿った右腕を振り上げて確認する。左腕による初めての治癒魔法は、どうやら夢や幻ではない。右腕で使用した治癒魔法となんら遜色はなかった。
カーターは剣先を俺の顔に向けると若干の感嘆を見せ、それから無感情に一つの結論を下す。
「やはり、首か」
言った意味はわかる、言いたいことも理解した。
だから俺は苦笑しつつも答える。
「らしいね、助かったよ」
どうやら問答無用に首から上を切り落とされるまでは、すなわち己の意識が続く限りは、かろうじて俺の命も助かる見込みがあるらしい。
ならば俺は諦めない。いつまでもどこまでも、カーターに食らいつく。
「こうなったら私も引き下がれないな。再びこの世に魔王を生み出さぬためにも、アレスタ。お前を打ちのめすまで先へは進まぬ」
「それはありがたいね。こんな俺でもカーターの足止めをできているんだから」
しかし油断はできない。宣言したとおり、相手は強硬手段に出るだろう。いつまでもこのまま時間稼ぎをしているわけにはいかない。
ここで終わらせなければ、何も終わることはない。
「お前もいい加減に無駄な抵抗を諦めて、逃げ回ることをやめたらどうだ?」
「残念ながら、それはできないな。治癒魔法が使えるといっても、それを使う暇もなく連撃を受けてしまったら死んじゃうからね」
そう考えると今までも限界が近かった。
剣を振り回すカーターが俺に治癒魔法を使う余裕を与えてくれているのが、敵の情けだとしても感謝せずにはいられなかった。
「ほほう。私の暗示魔法が全く効果を見せないうえ、治癒魔法としか思えない魔法を使うので様子を見ていたが……。あえて力を抜くことで魔法の正体を見抜き、今後の参考にしようと思っていたが、もう遊びはやめよう」
すっと目を細め、俺をにらみつけた父さんは低い声で続ける。
「アレスタ、ここですべてにけりをつける」
やはり今までは手抜きの戦闘だったのか。
厳しい口調とは裏腹に俺のことを本気で殺そうとしてこないとは思っていたが、それは俺の言葉に影響されて思いとどまっていたわけじゃなく、俺の治癒魔法の力を確認するためだったらしい。
つまり治癒魔法を確認するほどの余裕があるくらい俺が敵じゃないってことであり、本気を出すほど相手にもされていないってことだろう。
「やれるものならやってみろよ、父さん」
それでも俺は、精一杯の虚勢を張る。
その方法では、決してすべてにけりをつけることなどできないと確信して。
「ああ、やらせてもらう」
おそらくその一言でカーターも意識を切り替えたのだろう。
カーターの動きには一切のためらいもなく、生命線である俺の首を狙って剣がなぎ払われる。冷や汗をかきながら、俺はかろうじて上半身を後ろにそらすことで剣を避けた。
あと一瞬でも反応が遅れていたら首は切断され、治癒魔法を使う余裕もなく死んでいたことだろう。
今更ながらカーターを煽ったことを後悔する。
背筋が凍ったような気がした。
「やっぱり考え直そう!」
そもそも相手をやる気にさせちゃ駄目だろう。
こんな相手の命を奪い合うような戦いではなく、平和的な話し合いで解決を試みなければ、攻撃手段のない俺にはカーターを止められる自信がない。
「――はあっ!」
カーターは聞く耳を持たず、攻撃の手を止めることはない。
さすがは反魔法連盟の一員にして元幹部、本気を出した剣の一振りは目で追うことすらできず、自分の胸から腰にかけて斜めに一直線な痛みが走って初めて、俺は自分が傷を負ったのだと気が付かされた。
その傷は深く、真っ赤な鮮血が視界の下方であふれ出る。
あまりの激痛に全身が痺れるように硬直して、うなり声を上げながら俺は地面に倒れこんだ。
さすがにこれは死ぬかと思ったが、諦めるわけにはいかない。
治癒魔法を操る俺の無意識は自らの意思を持ったかのように、頭が明確な命令を下すよりも早く自動的に動いていた。
もはや視界は完全に白み始めており、周囲の音も遠ざかって聞こえなくなり、意識すら痛みに支配されて地面の上でのたうっていた俺は、自身の治癒魔法に無自覚なまま助けられる。
「――か、はぁ!」
必死の思いで治癒魔法を使いながら、荒れた動悸を抑えるように右手を強く胸に押し当てる。
激しく呼吸を繰り返しながら、遠ざかっていた意識を引き戻す。
そして傷が治癒されるとともに沈んでいた意識が我に返ったと同時、依然として窮地にあった俺は慌ててカーターの姿を見上げるが、目が合った瞬間、カーターは地面に倒れる俺の頭部めがけて剣をつき立ててきた。
「うわっ!」
寸前のところで九死に一生を得た俺は身をひねって串刺しを逃れる。
カーターの全体重を刀身に乗せた剣先は垂直に地面まで突き抜かれ、路上に倒れつつ顔をそらした俺の目の前で石畳に直撃し、耳をつんざく甲高い響きとともに小さな火花を撒き散らした。
強い衝撃がかかっただろうに鋭い刃先は傷一つ付かず、その剣が誇るであろう刀身の比類なき硬質さが浮き彫りにされる。
こんなものに頭を貫かれたら即死だと直感すると、改めて恐怖を胸に抱く。
「無様だな、アレスタ! 憎き帝国の隠し子よ!」
ひとまず生き延びたことに安心した俺に対して、カーターは倒れた俺の眼前の石畳に突き立てた剣を、そのまま俺の顔めがけて振り上げてきた。
「のわぁっ!」
カーターが切り上げてきた剣筋に対して、反射的に顔をそらすことで緊急回避するものの、ほとんど前兆もなく襲ってきた攻撃に対処は不完全だった。どうしても逃げられなかった俺は剣先によって頬を深く切り裂かれ、またしても大量の血を吹き出してしまう。
周囲に飛び散った血のうち数滴が目に入り、視界が赤く染まる。頬を伝う血液のツンとした鉄のにおいも、すぐ鼻先からきつく漂ってくる。
情けなく地面を這うようにカーターから距離をとりつつ、愛撫するように頬へと右手を差し当てる。
深い傷口を手で触れる瞬間、染みるような痛さが針をつきたてたようにジンジンと広がる。同時に治癒魔法も効果を発揮するため、瞬く間に痛みは消えていく。
とはいえ、さすがに何度も繰り返して治癒魔法を使用していると、慣れない魔法の行使によって疲労は蓄積するため体力的にも限界が近づいてくる。もちろん精神的にも集中力が乱れ始め、魔法の使用に弊害が見られるようになって来た。
一度でも治癒魔法を失敗してしまうことは、他に頼るべき力のない俺にとって、そのまま死を意味するのだ。
ここで気を緩めたら死ぬ。そう思って気を改める。
俺は傷が回復したことを確認し終わる前に、ひとまず危機的にあった体勢を整えるため、立ち上がろうと地面に手を付く。だがそこをカーターに狙われ、驚いた俺は中腰の状態から思い切り後ろへと倒れてしまう。
そして俺は無様に尻餅をついたまま、いよいよ目の前に迫ってきたカーターを震えつつ見上げるしかなかった。
カーターは恐怖に怯える俺を愉快そうに見下すと、その剣をゆっくりと振りかぶりながら、勝ち誇ったように宣言する。
「さぁ、これでお前も終わりだ。おとなしく――」
ああ、これで何もかも終わってしまうのかと、絶対的な窮地にとうとう追い詰められてしまった俺は観念した。
すっかり殺人者の目をした父さんを前に、もうどんな言葉も届かないだろうと思った。
……しかし、それは奇跡だろう。
突如として雲の切れ間から漏れたのは、まぶしいほどに輝ける日差し。
颯爽と吹き寄せたのは、心を洗うような一陣の風。
そして耳に届く、なんとも頼もしい声。
「――ご無事ですか!」
カーターの口から俺に向けられていた最後の言葉を遮るようなタイミングで、俺の背後からはっきりと聞こえてきたその声は一瞬、もしや救いを求める俺の願望が生み出した幻聴ではないかと疑ってしまった。
「まさか、イリアス?」
しかし、祈るように振り返った俺の目に、その願いどおり、彼女の凛々しい姿が映ったとき。
俺はこれ以上ない安堵と喜びで、思わず泣き出しそうになった。
あれはそう、確かにイリアスだ。
……ついでにニックもいてくれる。
「貴様ら、誰かと思えば私の暗示魔法がかかっていない騎士か……」
乱入したイリアスへと顔を向けて呟いたカーターは、先ほどまで見せていた余裕が消えうせる。やはり相手が騎士ともなると、俺一人を相手にするのとは次元が違うのだろう。
悔しいが認めるしかない。治癒魔法しか使えなかった俺はカーターにとって警戒するほどの敵じゃなかったということだ。
「あなたがカーターですか……。なるほど、こうしてあなたがアレスタさんに刃を向けている以上、どうやらニックの話も間違いではないようですね」
そう言ったイリアスと俺の目が合った。だから俺はアイコンタクトで意思疎通を試みて、その言葉が正しいということを彼女に伝えることにした。
本当に伝わってくれるかわからないが、うなずけば大丈夫だろう。
「……城の騎士には、領主から待機命令が出ているはずだが? 本物の騎士なら、そこをどけ。私は英雄として領主からお呼びがかかっているのだ。さぁ、そこを通してもらおうか」
カーターはためらうことなく言葉を続ける。
「いいか、私の邪魔をするな」
今まで対峙していた俺のことは無視して、新たに立ちふさがったイリアスの瞳を睨みながら言い放ったカーター。間違いない、その様子から察するに、彼女に向かって暗示魔法を使おうとしているのだろう。
だが優秀な魔法騎士であるイリアスに暗示魔法はかからない。そうと知ると暗示魔法の使用を諦め、そのまま毅然とした表情で歩き出したカーター。
立ちはだかるイリアスは退かず、立ち向かうカーターも臆さない。
向かい合った二人の剣がまさしく交差するその直前、横から意外な人物が飛び出した。
「残念だけど、邪魔をするなっていうのは無理だね。今の僕は騎士としての責務じゃなく、この町や仲間を愛する一人の男としてここに来たんだ。領主様の命令とは別に、自分の意志で君を止めさせてもらうよ!」
「ニック……。うん、お前は無理しなくてもいいよ?」
「き、君はぁっ! 折角こうして僕が色々と決意して駆けつけたんだから、アレスタもこんなときくらい期待しておくれよ!」
「だったらまずはそのへっぴり腰を何とかしてくれ!」
威勢よくイリアスの前に出たものの、まるで動じることのないカーターの姿に怯えているのか、腰の引けたニックは足がガクガクと震えてしまっている。
凛然とした出で立ちのイリアスと見比べてしまうと雲泥の差があって、同じ騎士として情けないことこの上ない。
「へっぴり腰じゃない、これは僕なりに考え抜かれた剣の構えだよ!」
「そんな自己流さっさと捨てよう!」
俺はそう言いながら、そんなニックのおかげで失っていた気力がわいてきたことを知る。
恥ずかしくて口には出せないが、ありがとうニック。もちろん感謝しているさ。
心の奥底ではあったが、ずっと、助けに来てくれると信じていてよかった。
「……なんだそれは? わざわざ私に立ち向かってくるからには強い騎士に違いないと思って身構えたが、馬鹿が増えただけか」
「その言葉、きっと後悔することになるぜ、カーター」
「その通りです!」
俺の言葉に呼応するように、「邪魔です、どいて」と後方に下がらせたニックの代わりに前へ踏み出したイリアス。右手で鞘から引き抜いた剣の切っ先をカーターに突きつける。
その姿はまさしく騎士の中の騎士。惚れてしまいそうになるくらい凛々しくて、頼もしかった。
「あなたがどんな魔法で何をなそうとしているのかわかりませんが、剣を手に歯向かうと言うのならば仕方ありません。ここは私も魔法で挑ませていただきます」
「貴様、魔法騎士か……。相手に不足はないようだな」
「ええ、ですから全力でどうぞ」
「敵とはいえ、私は女を相手に自分から剣を向けることはしない主義でな。貴様から振るって来い。すべて受け止めてやる」
カーターはイリアス一人に焦点を絞って向き直り、今まで対峙していた俺のことなど視界の隅どころか外部へと追いやってしまう。
治癒魔法しか使えない俺は相手にもならないと、優先順位を下げたのだろう。
「いいでしょう。しかし私の魔法は反応速度上昇魔法ですから、きっとあなた一人では勝ち目などありませんよ。それでもよろしいですか?」
そう言いながら、イリアスは左手にも剣を構える。もちろん二刀流だ。
「魔法に頼らなければ戦えぬ人間に、この私はおくれを取らない」
「いや、あのさ……。邪魔して悪いけれど、そう言うカーターだって暗示魔法を使ってたじゃん?」
そういう意味ではカーターだって魔法に頼りっきりだったはずである。
もちろん、この中で一番魔法に頼っていたのは俺だ。他人に言える資格はない。
「いいか、アレスタ。私が使ってきた暗示魔法は戦いのためではなく、世界のために用いてきたに過ぎない。頼っていたわけではないぞ」
「ものは言いようだな」
「現実とはそういうものだ」
なんだか深いことを言われてしまった気がする。
「ひとまずアレスタさん、そしてニックは下がっていてください。カーターの相手は騎士である私が一手に引き受けます」
「ちょっと待ってよ、イリアス! 僕も協力するから二手でいこうよ!」
「ごめんなさい。ニック、あなたは邪魔だから私がどんな窮地に立とうとも手出しをしないで。そうですね、あなたに頼みたいことはアレスタさんの護衛です。そもそも、それがあなた本来の任務でしょう?」
「え、いや、違うよ? 僕の任務はアレスタの監視であって、護衛じゃない」
「似たようなものです! つべこべ言ってないで早く彼の側に行って!」
「わ、わかったよ!」
イリアスに半ば蹴られる形で、ニックは俺のもとへと駆け寄ってきた。
それを見送って、カーターは鼻で笑う。
「さて、戯れはおしまいか?」
「ええ、お待たせしましたね。それでは遠慮なく」
そしてイリアスは二刀流を構えなおして、カーターに視線を向ける。
柔らかに前傾姿勢をとりつつ、攻撃態勢へと移っていく。
「ふふ、腕が鳴るぞ」
カーターはそんなイリアスを目にして愉快そうに口元をゆがめる。
その姿はまるで血に飢えた猛獣のように見えた。
「ならばその腕、私がへし折ってご覧に入れましょう」
短く吐き捨てるように言って、瞬時にイリアスは地を蹴ると、真っ直ぐ駆け出した。その直前に魔法的な輝きが彼女の全身を覆ったことから判断すれば、おそらく反応速度上昇魔法というものを使用したのだろう。
おかげで俺にはその動きがほとんど視認できなかった。
「くっ!」
これには前口上が立派だったカーターも苦戦せざるを得ない。
予想を上回る機敏な動きを見せたイリアスによる猛攻に、その余裕が一瞬にして消え去った。
二刀流で常識を超えるスピードの連続攻撃を前にすると、いくら剣の腕に自信があるカーターといえど苦戦するのは無理もなく、暗示魔法を使えないとなると防戦一方になるのも止むを得まい。
「見えたっ!」
だがそこは反魔法連盟の元幹部、さすがのカーターである。
次々に襲い掛かるイリアスの剣、そのわずかな攻撃の隙を見逃さず、反撃の糸口をわずかながらに見出したらしい。
返し刀に剣を素早く振り上げて、イリアスの振るった剣を弾き返すとともにその挙動をずらし、自身は華麗に一回転すると勢いそのままイリアスの胴を狙って切り込んだのだ。
もしイリアスが身を鎧に包んでいなければ、それが致命傷になったことだろう。
「さすが、大口を叩くだけのことはありますね!」
体勢を立て直すためか、イリアスは軽やかなステップで後ろへと下がる。
遠目からでもイリアスが顔をしかめたように見えたのは、それだけカーターの反撃が手強かったという証拠なのだろうか。
もしも俺が自分以外の相手にも治癒魔法が使えたのなら、こんなときイリアスの役にも立てただろう。
しかし、悔しいことに俺は自分に対してしか治癒魔法を使えない。
つまり、現状、この場で怪我を恐れずに戦えるのは俺だけである。
……だったら、俺は怪我を恐れる必要はないんじゃないか?
「貴様は大口を叩くほどの力量が足りぬ!」
カーターは果敢に地面を蹴って、イリアスの懐に襲い掛かる。
あの凄まじい二刀流の息吹を肌身に感じていながら、それでもたじろがないのは彼なりの信念や覚悟を胸に秘めているからだろう。
それに比べて俺は、何を理由にカーターを止めようとしているのだろう?
何を武器にすれば、カーターを納得した上で止められるのだろう?
「うくっ!」
聞こえたのは怯んだ声だ。前を見ると、イリアスがカーターに押されていた。
いや、違うだろう。
どちらも実力がほとんど拮抗している。戦況も一進一退となり、攻防がめまぐるしく変わっているのだ。このままだと、どちらが勝ってもおかしくはない。
無意味に決着が長引いてしまうことだって考えられる。
「はあっ!」
それは、ひとえにイリアスに対して負担を強いるということだ。
厳しい訓練を積んだ一流の騎士とはいえ、魔法で反応速度を上昇させているとはいえ、反魔法連盟の元幹部として各地で転戦してきたであろうカーターと一対一、本気で斬り合ったら彼女だって自分の命をかけていることに他ならない。
それがどれほど大変なことなのか、先ほどまでカーターと立ち会っていた俺がよく知っていることじゃないか。
「よくその身に刻むがいい! 二兎追う者は、一兎も得ずと! 二刀流など、手数に頼る愚か者の流儀だということを!」
「ぐっ!」
そしてイリアスがカーター相手に致命的な遅れを取り、その片膝を頼りなく地面の上に落としたとき、俺は俺自身に問いかけていた。
――このまま、遠くから見守っているだけでいいのか?
俺は何も考えられなかった。すぐには動き出せなかった。
けれど胸に渦巻く迷いが踏み出そうとする足を止めるのなら、俺は自分の足を動かすために、この迷いを捨てることしかできなかった。
覚悟が足りずにここから動き出せないのなら、俺は動き出すため、今すぐにでも覚悟を決めるしかなかった。
自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。本当の意味では今もわからないままだ。だから間違いない。いつか俺はきっと何度も反省することになるだろう。今後ことあるごとに思い出しては、他に方法があったのではないかと後悔することもあるだろう。
でも今はこの衝動を、どうしたって止めることができなった。
ただひたすら一心不乱に、俺は攻撃の際に生じる一瞬の隙を狙い、カーターに向かって駆け出したのである。
たどり着く直前にカーターから片手間に左足の太ももを斬りつけられるものの、それでも俺は怯むことなく突進して、カーターの背中へと背後から密着する。
そしてカーターが振り向き様に抵抗してくる前に、その動きを止めようと脇の下から両腕を通して、無理やりにカーターを羽交い絞めにした。
これは俺が自分には治癒魔法を使えるからこその、まさに怪我を覚悟した上での捨て身の行動である。だからこそ文字通り本当に命がけではあるが、それによってカーターの身動きをまがいなりにも封じることに成功するのだった。
もちろん、俺の目的はカーターを止めておくことだけではない。
「さぁ、今だイリアス!」
カーターの動きは俺が意地でも止めておくから、後はイリアスがとどめを刺してくれと、俺は必死の思いでイリアスに伝えた。
「わかっています!」
俺と目が合った直後にイリアスは深くうなずき、この隙を逃さず、瞬時に攻撃に移る。俺に羽交い絞めにされたカーターには身構える余裕もなかっただろう。
片膝を落としたイリアスに勝ち誇っていたカーターは、その油断に負けたのだ。
思いがけない俺の行動に虚を付かれたのである。
「さぁ、ここまでです!」
剣を握ったイリアスの左手は大きく外側へ向かって振り上げられ、その軌道上で剣を握ったカーターの右腕を的確に切り裂き、その唯一の武器を弾き飛ばして無力化する。
一方の右手は剣をまっすぐに構えており、その鋭い剣先はカーターの首筋にピタリと張り付く。
無論、俺はイリアスに追い詰められたカーターを背後から羽交い絞めにしたままだ。
つまりは、これでチェックメイト。
「……その剣を下ろせ」
だが不屈な態度を崩さないカーターは窮地に追い詰められたまま、それでも強気にイリアスを睨みながら命令する。
この期に及んで、最後に自らの暗示魔法に可能性をかけたのだろう。
「わかりました。半分だけあなたの要求を受け入れましょう」
イリアスは高く掲げていた左手の剣を虚空で一振りして腰の鞘にしまうと、空いた左手のこぶしをぎゅっと強く握り締めた。
「ですが、代わりにあなたには、このこぶしを受けていただきましょうか!」
そう言ってイリアスは左腕を大きく後ろへと振りかぶると、今度は思い切りカーターの鳩尾をめがけて左こぶしを放った。
ぶん殴るという表現がぴったりだった彼女の最後の攻撃は、カーターを背後から支えていた俺の全身まで揺らし、ぶつかった衝撃が生々しく伝わってくるほどだった。
まだカーターによって斬られた足の怪我を治癒魔法で治療できていなかったりするので、少しくらい加減して欲しかったけれど、情けなく倒れてしまわないように俺は我慢して歯を食いしばる。
いや本当に痛くてたまらない。
「……ふん。やはり私の暗示魔法が効かない人間というものほど、この世において厄介で迷惑な存在はないな」
イリアスに腹部を殴られて大きく息を吐き出したカーターだったが、やがて不敵に笑うと観念したのか、敵意を鎮めて静かに肩をすくめた。
「今すぐ暗示魔法をすべて解きなさい。でなければカーター、ここであなたを殺すことになりますよ?」
「このまま一思いに殺せばよかろう。戦いに負けたからといって、私はすべてを捨て去れるような人間じゃない。たとえ屈辱的な自分の敗北を認められたとしても、この信念までを否定することなどできぬ」
「……それでは一応確認しておきます。ここで殺してしまえば、あなたのかけた暗示魔法はすべて解けるのですか?」
「それは保障しよう。魔法とはそういうものだ。……安心するがいい。私は覚悟も信念も人並み以上にあると自負しているが、それゆえにプライドや騎士道も十分に持ち合わせている。今さら無意味に嘘を伝えたりしないし、生き恥になるような負け惜しみなど口にしたくない。見苦しくあがくくらいなら、ここでこの命、貴様の手で散らしてもらいたい」
「そうですか。カーター、あなたがそう望むのでしたら――」
そうつぶやき、イリアスは剣を握り締めた右手に力をこめる。
だがその姿をカーターの背後から目にして、俺はイリアスに語りかけていた。
「あのさ、イリアス。申し訳ないけど、ここでカーターを殺すことは少し待ってくれないかな?」
「……それは構いませんが、一体どうしてです? まさかとは思いますが、私の代わりに、自分の手でカーターを思う存分叩きのめしたいなどと言うつもりではないですよね?」
「ちょっと待ってくれ。俺だってそこまで悪趣味じゃない」
「では、どうして?」
イリアスは俺に怪訝な顔を向ける。確かに、いきなり「こいつを見逃せ」みたいなことを言っているんだから、不審がられても仕方ないだろう。
でも、俺は決してカーターを許してやりたいわけじゃない。
十年間お世話になってきた育ての親だからって、特別な温情がわいたわけでもない。
ここで殺して終わりとか、そんな罪の償い方を認めたくなかっただけだ。