1 アレスタ
どこまで行けば助かるかなんて、正直に言えばわからなかった。
けれど、ここで足を止めれば容赦なく敵に殺されると思うと、ひたすら前に進み続けるしかないだろう。だから俺は必死の思いで道ならぬ道を駆け抜けて、命からがら追っ手から逃げていた。
後方から鳴り響く複数の足音は俺を追いかけるように森を騒がしており、わざわざ振り向かずとも、こちらを探す人間たちの存在はうかがえる。
俺の命を狙っている追跡者は、どうやら武装した数人の帝国軍兵士たちである。
「くそ、どうして俺がこんな目に……!」
今からさかのぼること、おおよそ数日前の夜半頃だった。
寝室のベッドで心地よく眠りについていた俺と父さんは共和国兵士に襲撃され、反撃もそこそこに着の身着のまま家を飛び出した。そのままの足でエフランチェ共和国から西の国境を越え、このデウロピア帝国の辺境にもぐりこんだまではよかったものの、事前に共和国政府と連絡を取っていたらしい帝国軍兵士によって、相も変わらず命を狙われているのである。
思い返せば、逃げること実に数十時間。ほとんど休みなしの強行軍。
今日も午前中に足取りを発見されてから数時間が経過していた。
じわじわと熱をもって照りつける昼下がりの陽光は木陰と木陰の間に向かって滝のように注がれ、ゆえに後方から追ってくる敵の目に少しでも目立たぬよう、俺はできる限り明るい場所ではなく影となっている部分を踏むように意識して走った。
かろうじて確認できる敵は少数精鋭の帝国軍部隊。
どういう因果か、ただの一般市民であるはずの俺が危険な反政府主義者として、共和国と帝国の双方から極秘に指名手配されているらしい。とはいえ、俺一人に対する厳重な包囲網を敷くほど大掛かりな掃討作戦は展開されていないようだ。
とりあえず、現状の追っ手は数人。ひとまず数人だけなのだ。
しかし安心することはできない。
たかが十八歳の世間知らずな俺にとって、世の中に障害は多く、自分一人の力でできることは少ない。たとえ数人とはいえ、こうして執拗に追いかけてくる敵の存在は、あまりにも強大であり恐怖の対象だった。
いつ捕らえられてもおかしくない。いつ殺されたって不思議じゃない。
そもそも何一つ魔法を使うことのできない無力な俺が立ち向かったところで、武装した帝国の軍人を相手に勝てるわけがない。
気がつけば俺は全身にいくつもの大きな傷を負っていて、だらだらと血を流しながらも、必死に走り続けるしかなかった。力が尽きて途中で踏みとどまってしまえば殺されてしまうのだと、自分の弱気な心に鞭打って足を動かす。
今の俺が生き延びるためには、助かる当てがなくても走り続けるしかなかった。
――前触れもなく、風を切る音がした。
――鋭い音だ。背中に激痛が走った。
背後を振り返るまでもなく、叫びたくなるほどの痛みを実感する。
走っていた俺の背は見えない何かによって切り刻まれ、身にまとっていた服が布切れのように切り裂かれると、傷口から噴き出した血とともに舞い上がる。突き飛ばされたような衝撃に足はもつれ、その場で倒れるしかなかった。
それは魔法による攻撃だ。
どうやら帝国軍兵士達に追いつかれたらしい。
その無慈悲な現実を俺がはっきりと思い知ったのは、地面へと仰向けに倒れた俺の胸元に一筋の剣先が突きつけられたときだった。
「命乞いの言葉はいらない。このまま安らかに眠れ少年」
悪路を走りやすいようにと軽装の甲冑に身を包んだ総勢五人の兵士は、地面に倒れた俺を取り囲んで無表情に見下ろしていた。
仰向けのまま顔だけを動かして周囲へと視線をめぐらせるが逃げ場はない。とうとう追い詰められたのだ。ありったけの絶望と恐怖に打ちのめされ、俺の鼓動は激しく胸打った。
威厳ある凛々しい顔つきをした彼らの隊長らしい人間の向ける剣先が、俺の胸の上で震えることもなく正確に重みを増す。いたぶっているのかもしれない。鋭い振り下ろしで斬り殺すというよりも、なぶり殺すかのように緩慢とした”突き”だ。
そのまま押し付けられた刃は俺の服を裂いて貫き、それから薄い肌の表皮を突き抜けて、心臓に近い胸元からは遠慮がちに鮮血がほとばしる。
途端に激しい痛みが襲って来た。凍りつくような死の恐怖が駆け巡った。
それでも俺は現実を認めたくなかった。
まだ生きていたい、こんなところで俺は死にたくない――。
そうやって天にも祈るように強く激しく願い続けていたけれど、一方で俺は冷静に自分の終わりを直感していた。
この絶望的状況で助かるわけがない。当たり前の話だ。
「誤解です、俺は何も……!」
だからそれは、殺されつつある俺にとって最後の賭けだった。
不必要だと敵によって断言された命乞いの言葉を、俺は一生懸命につむぎだしたのだ。口はパクパクと実際に発した言葉以上に開閉し、あせりと戸惑いに頭の中は真っ白になる。
とはいえ、とっさに口をついて出た命乞いの言葉であったとしても、このとき彼らに向かって俺が言っていること自体は嘘じゃなかった。
そもそも俺が危険人物として指名手配され命を狙われているのは、おそらく何もかもが誤解から始まったことなのである。誰かから命を狙われる理由なんて、どこまで振り返って考えてみても何一つ思い浮かばなかった。濡れ衣だとしか思えなかった。
平穏を愛する俺は今まで静かに共和国の片田舎でひっそりと暮らしてきただけだったし、そんな俺と悠々自適に二人暮らしを送っていた父さんも、法に反するような悪事に手を染めていた様子などまるでなかった。
あの襲撃の日、武装した兵士を前に難しい顔をした父さんは腰を抜かしていた俺の手を引き、並み居る敵をたった一人で相手しつつ、なんとか国境をまたいで帝国まで逃げ延びた。
しかし、そこで待ち受けていたのは世界最強を誇る帝国軍。かろうじて捕まらずに済んだものの、広大な森の奥深くで父さんとはぐれてしまった俺はこうして一人で追っ手から逃げることしかできなかった。
逃げるさなか、どうしてデウロピア帝国に逃げ込んだのかと尋ねたとき、父さんは言った。帝国の辺境には頼れる知り合いがいる。そこにしばらくかくまってもらおうと。
もちろん、それを聞いた俺が何も疑問に思わなかったわけではない。
帝国の辺境、つまり共和国との国境付近に父さんの知り合いがいるなんて初めて知ったことだ。共和国と帝国とは古くから続く長い因縁があり、直接的に矛を交えていないとはいえ、現在も敵対する国の一つである。
そんな帝国にいるという知人が一体誰なのか、俺はまだ名前も知らない。
「悲しいことだが、君は死ぬ」
帝国兵が静かにつぶやいた。どこにも救いのない残酷な言葉を。
いつの間にか昔の回想に逃げ込んでいたらしい俺は、ふと我に返った。
――ああ、死にたくない。
祈るように手を合わせたくても、胸に当てられた剣先が邪魔をして、指先同士でさえ触れられない。
じわりじわりと傷口が深みを増す。
無事を装っていられず、顔が激痛に醜く歪んでいく。
すると敵である帝国兵も変なところに気を遣ったようで、これ以上余計な痛みに苦しむことのないように一瞬で殺してしまおうと、今度は高々と剣を持ち上げて、俺の胸へと剣先を勢いよく突き刺すための反動をつけてくれるのだった。
きつく歯を食いしばりながらその動作を見上げていた俺は、涙に滲んだ不確かな視界の中、それが一瞬美しい十字架に見えた。すでに教会主導の宗教が廃れてしまったこの世界で、それはひどく皮肉なことに思えた。
もしも神がいるのなら、そもそも俺がこんな風に死ぬことはない。死後の安楽を祈るだけ無駄なことだ。きっと誰も救ってはくれないだろう。
ならば、生き延びたければいつだって自分の力で立ち上がるしかない。
覚悟を決めた俺はとっさに白刃取りの要領で突き出された剣を左右から両手で挟みこむと、なんとかその動きを止めることに成功した。すっかり油断していた帝国兵は目を見開いて驚き、突き落とすはずだった剣の動きが止まる。
たった数秒間。それでも生き延びられたことは素直に嬉しかった。
ところが俺の手のひらからは大量の汗が噴き出して、はさんだ刃が両手の間で無慈悲にすべっていく。本当に少しずつ、ゆっくりと帝国軍兵士は己の体重を乗せて剣先を押し込んでくる。
両腕が力なく震え、ビリビリと痺れるように痛み始めた。
体力の限界が近い。俺の息は過呼吸気味に乱れた。
「せめて、どうか俺の言葉を聞いてください!」
どうしたって剣を抑えるのに精一杯だった俺は、仰向けの状態から立ち上がることも出来なかった。
だから俺が助かるために取ることのできた唯一の選択肢は、やはり命乞いの言葉を発することだけだ。
ところが現実は過酷だ。薄情とさえいえる。
情け容赦なく命を奪い取ってしまう圧倒的な暴力を前にして、真実とはいえ命乞いの言葉だけで立ち向かうのは無謀だった。
言葉だけでは力に乏しい。まるで聞く耳を持たない敵の動きを止めることなどできない。
相手からの返答は短く、無慈悲に告げられる。
「聞かぬ!」
言い捨てるように叫んだ兵士によって、ぐるりと向きを変えた剣で横に払われた俺の右手は、その内側から鬱憤を晴らすように大量の血を吐き出した。
なんとか無傷で済んだ左手を反射的に持ち上げて、次から次へと血を流し始めた右手の傷口を一生懸命に押さえつつ、俺はその組み合わせた両手できつく胸を押さえ込むようにして、体ごと地面へとうつぶせに転がった。
出来ることならば、そのまま地面を転がってでも逃げ出したかった。けれど、すでに五人の兵士に取り囲まれていた俺にはそれ以上の自由を与えられなかった。
「隊長、よろしければ私に武勲をください」
噴き出す汗が玉のように浮かんでいた額を地面につけ、必死になって痛みをこらえていると、五人のうちで最も年少であろう一人の帝国軍兵士が、俺の返り血に赤く汚れた剣先を空で切り払っていた隊長に向かって恭しく頭を下げていた。その様子を地面にうずくまりながら、俺は少しだけ顔を横に向けて覗き込む。
依然として出血は止まらない。段々と意識が遠のいていく。
声だけは聞こえた。
「武勲?」
「はい。すなわち手柄です。この少年の首を持ち帰った者には、帝国政府から褒章が出るのでしょう? 私はそれが欲しいのです」
「……よかろう、すでに年老いた私には不要なものだ。お前に譲ってやる」
「ありがとうございます」
手配者の首を狩る権利を譲られた男が隊長に向かって再び丁寧に頭を下げると、他の兵士は後ずさって俺から距離をとった。
下っ端の彼に武勲を与えるのが嬉しいのか、面倒見のいいらしい隊長は誇らしげに腕を組んで、まるで初めて自分の力で飛翔する雛鳥を側で見守る親鳥のように、微笑ましい顔つきで部下の手柄を待ち望んでいる。
あとは俺が静かに首でも斬り落とされてしまえば、彼らは喜びに声を上げるだろう。これで仕事は終わりとばかり、彼らは手柄を持ち帰って酒でも酌み交わすことだろう。
けれど、当然ながら首を狙われた俺は黙ってなどいられなかった。
そのわずかな隙をつき、誰もいなくなった方向へと、地面に手をつき立ち上がると同時に駆け出したのだ。
逃げるための力を込めれば全身の傷口が開き、血は勢いを取り戻したかのように脈を打って流れ始める。すでに傷ついた右手は力が入らず、大きく腕を振ることができない。
それでも俺は一心不乱に走り出した。
振り向かず、前も見ず、ただ闇雲に危険から遠ざかるためだけに。
「逃がすかっ!」
最初に一歩、また一歩、そうやって交互に足を前へと踏み出していた俺のすぐ背後にて、耳をつんざくような轟音とともに地面がめくれ上がった。
背後に見えた一瞬の光、ほどなく伝わる熱風、音を立てて舞い上がって散る木々の葉、あるいは切り傷を負った背に当たる土塊と風圧は、ただ一つの絶望的状況を俺に教えてくれていた。
火の魔法、生じたのは爆発。
小規模ながらも避けようのない破壊力を示した帝国兵の魔法攻撃を受けて、俺は走っていた勢いそのままに大きく前方へと吹き飛ばされたのだった。
気が付いたときには頭から地面に突っ込みそうになっていて、とっさに右手を前に出そうとするものの怪我で力が入らず動かない。利き手ではない左手の反応はわずかに遅れ、ろくに受身をとることすらできず顔から衝突した俺は、胸元から溢れ出る大量の鮮血で地面を赤々と染めてしまう。
立ち込めた焦げ臭さと混じりあって、不快な血生臭さが鼻をついた。
たった一瞬のうちに燃え広がった炎で焼けただれたらしい両足は、俺に再び立ち上がることを許してはくれない。
胸から背中、右手、そして両足。
それらに広がる鋭い痛みが金縛りのように、倒れた俺から全身の動きを奪い取ってしまうのだった。
どうしようもない、今度こそ俺は明確に自分の死を覚悟した。
「さてもう一発……といきたいところだが、死体をすべて焼き払ってしまうと武勲がもらえなくなる可能性があるのでな。首だけは綺麗なまま頂くことにしよう」
背後から迫り来る足音に、俺は振り返ることができなかった。
その圧倒的であろう敵の姿を認めてしまえば、本当に抵抗をあきらめてしまうしかないような気がしたからだ。
「ああ、くそう……」
だから俺は現実逃避をするように、ただ意識だけでも逃げようとして、そっと顔を持ち上げて前方を見据える。
すると視界に広がった光景――必死で逃げ出そうとしていた方向にあったのは、窮地にある俺を助けてくれる逃げ道ではない。そこで終わる崖だった。
その先に地面が続くことはなく、雲ひとつない気持ちいいくらいの青空と、遠くに広がる山の景色が見えるのみだ。
もはや前方にも、もちろん背後にも、追い込まれた俺に残された逃げ場はない。
「どちらにしろ、お前は死ぬ。すまないな、諦めてくれ」
空を切った鋭い音。それは素早く振られた剣の響き。
いつの間にか倒れた俺の間近にまで迫っていた帝国軍兵士は、起き上がることのない俺に向けて剣を振りかぶったらしい。
もう駄目だろう、このままいけば俺は死ぬ。
首を落とされ殺される。
俺は静かに目を瞑ると、最後に一つだけ力強く願った。
「……くそったれ、立ち上がれよっ!」
願いは天に届いたのか、それとも自分を奮い立たせただけなのか、そう叫んだ俺は次の瞬間には満身創痍を誤魔化して、二本の足で立ち上がっていた。相変わらず血は流れ続けていたし、背後には剣を振りかぶった兵士もいるはずだったけれど、立ち上がった俺は何も考えずに走り出した。
足もとの雑草が大きくしなり、小さく風が巻き起こる。
その風と呼応するように揺れ始めたのは木々の細い枝だ。その葉が互いに擦れ合ってざわめく音は、破れかぶれに駆け出した俺の足音と即興的なハーモニーを奏でる。
だが、それらに構っている余裕はない。
俺はただ前に向かって猪突猛進すると、真っ直ぐに前だけを目指して走った。
やがて俺の体は姿勢を保つための支えを失い、次に足を踏み下ろすべき地面を失って、それから数秒、重力に引かれながら浮遊した。
なんてことはない。勢いそのまま駆け抜けた俺は、目の前の崖から決死の思いで飛び降りただけである。
直後に背後から、いや頭上からは、帝国軍兵士達の驚きを含んだ叫び声が、次第に遠ざかりながらもかすかに耳まで届く。
角ばった岩肌にぶつかりながら、途中から転がり落ちるようになりながら、俺は実に数十秒もの間、虚空を落ち続けていたように感じられた。
助からないだろう。これで助かるわけがない。無事で済むなどと……。
しかし地面に衝突してようやく動きが止まった俺は、幸いにも意識が存続していたのである。
全身から溢れ出す血、もはや指先さえも動かない手足、馬鹿みたいに荒れた呼吸、次第に薄れ行く自意識。
それら何もかもが、着実に俺から命を吸い取っていくようだった。
事実、ほとんど身体は死に掛けていたのだろう。
やがて目の前が白く純度を増した絶望に覆われ始めると、急速に眠気と薄ら寒さが襲い掛かってくる。どうやらこれが死というものの入り口らしい。
最後にむせながら吐血した俺は、今度こそ目を閉じてすべてを受け入れることにした。
「…………え?」
ところが自らの死を受け入れたはずの俺は、ふわりとした不思議な感覚に包まれた。たとえば、目には見えない優しく暖かな何かによって、傷ついた全身が覆われていくような。
それは風のうねり?
神秘のヴェール?
それとも祝福?
よくわからないながらも、わからないなりに、とにかく俺はその名状しがたき不思議な感覚にすがった。
ズキリと痛む右手に力を込めてこぶしを握ると、それは蛍のように淡く輝く。次第に熱を帯びる。一本ずつ五本の指を動かして、ゆっくりと右手を開く。
すると驚くべきことに、斬り裂かれたはずの右手の傷は治っていた。
どうやら傷跡も見当たらない。
その純粋な驚きを宝物のように胸へと秘めたまま、俺は立て続けに同じような行為を試みた。左手を、胸を、両足を、体中いたるところに負っていた傷口に右手を当てながら、ゆっくりと精神を集中させたのだ。
するとそれらは先ほどの右手と同じように、すべてが完璧なまでに治ってしまったのである。
全身の傷という傷、それは体の内側に至るまで、すっかり跡形もなく綺麗に回復してしまった俺は、ようやく無事を確認して立ち上がる。
もう痛みはなかった。ひょっとすると恐怖さえも。
「嘘だろ、これ……」
心ではそう思ったが、俺は確かに生きていた。
嘘じゃない、夢なんかじゃない。
だからこれは、治癒魔法。
それは俺が生まれて初めて使用することの出来た、そして唯一の魔法だった。