「話が違うんじゃありません?」 病弱な幼馴染を優先する婚約者とはお別れしようと思いますが、その前に幼馴染さんに会いに行きます
「それは……おかしくないですか?少し、話が違うんじゃありませんか?」
エミリー・ランティスは、目の前に座る女性に向かって、できるだけ静かな声でそう言った。
これまでの半年間、味わってきた苦しみ、悲しみ、寂しさ全てが心の中で渦巻いていた。
◆
ランティス伯爵家の一人娘であるエミリーには、アモン・ゴドフィルという婚約者がいる。
輝くような金髪と、誰もが振り返る整った顔立ち。
エミリーが十五の頃、夜会で見かけた彼に一目惚れし、両親に頭を下げて取り付けた婚約だった。
ランティス家は手広く商売を営み、裕福だ。対してゴドフィル伯爵家は、ここ数十年で斜陽になりつつある。
だからこの婚約は、最初から釣り合いの取れたものではなかったし、エミリーが望まなければ両家が結びつくことはなかった。
「本当にいいのかい、エミリー。向こうの家は、うちにとって旨味のある話じゃないよ」
婚約を決める前、父にそう釘を刺されたことを、エミリーは今でも覚えている。
「いいのです、お父様。アモン様のことが好きなのですもの」
あの頃の自分は、まっすぐにそう言い切れた。
それにアモンはとても優しかった。私の話を笑顔で聞いてくれて、いつも私を気遣ってくれた。会うたびにどんどん好きになっていった。
初めて二人で会った時、私に向けられた笑顔に顔が熱くなったことは今でも忘れられない。
異変を感じ始めたのは、半年ほど前からだった。
アモンの幼馴染が王都に出てきたという話を聞いた。
ルルーシュ・モンド。ゴドフィル伯爵家の傍系にあたる男爵家の、一人娘。
アモンいわく、地方の領地で共に育った幼馴染で、幼い頃は二人で野山を駆け回っていた仲だという。
半年前に大病を患い、医師の少ない地方から、腕のいい医師の多い王都へと移り住んできた。それからというもの、アモンはことあるごとに彼女の名を口にするようになった。
最初は、月に一度の観劇の約束だった。
「ごめん、エミリー。急にルルの具合が悪くなって……付き添わないと」
エミリーは笑って「お大事にね」と送り出した。病人がいるのだから仕方がない、と。
次は、花祭りへ出かける約束だった。年に一度、王都中の広場に花が飾られるこの祭りを、エミリーは毎年楽しみにしていた。
当日の朝、屋敷に届いた手紙には「ルルが熱を出してしまって、看病に付き添うよ」とだけ書かれていた。エミリーは一人で花祭りを歩いたが、色とりどりの花が全て色褪せて見えるように感じた。
三度目は、エミリーのドレスの仮縫いに付き合ってもらう約束だった。結婚式に向けて少しずつ支度を進めていたその日、アモンは仮縫いの会場に現れず、代わりに使いの者が「ルル嬢の容体が思わしくなく、急遽付き添うことになった」という言伝を届けてきた。
四度目、五度目――数えるのをやめてしまうくらい、同じことが繰り返された。決まって理由は「ルルが」だった。ルルが倒れた。ルルが熱を出した。ルルの咳が止まらない。ルルが不安がっている。ルルが、ルルが、ルルが――
「小さい頃から知っている子なんだ。放っておけなくて」
エミリーはその言葉を何度も聞かされたが、肝心のルル本人には、一度も会ったことがなかった。
会わせてほしいと頼んでも、「今は療養に専念させてあげたいから」とやんわり断られる。それもそうか、とエミリーは納得するしかなかった。
命に関わるかもしれない病人に、婚約者だからと無理に面会を求めるのも、どこか筋違いな気がしたのだ。
「アモン様は、本当にお優しい方ですね」
侍女のアンナは、皮肉のつもりではなく、素直にそう漏らしたことがある。エミリーも最初はそう思っていた。病弱な幼馴染を放っておけない、情に厚い人なのだと。
それに私は、家の力で婚約してもらったようなものだから。
その負い目が、エミリーの口を重くする。
本当は言いたかった。「嫌だ、行かないで」「私のところにいて」
でもそれを口にして、アモンに嫌われるのが怖かった。
◆
そんなある日、たまたま立ち寄った商店街でのことだった。
人混みの向こうに、見慣れた金色の髪。アモンだ。そして彼の腕に、そっと自分の腕を絡めている女性がいた。
華奢で、儚げで、風が吹けば消えてしまいそうな佇まい。守ってあげたくなるような、そんな雰囲気をまとった女の子。二人は楽しげに言葉を交わしながら、通りを並んで歩いていく。
――ああ、あれがルルさんなのね。
胸の奥がすっと冷たくなるのをエミリーは感じた。私とは何もかもが違う。あんな子が隣にいたら、誰だって庇護欲をかき立てられるだろう。
アモンも優しい笑顔を向けていた。とても絵になる二人だった。
勝てない。
そう思った瞬間、エミリーは不思議なほど冷静になった。悔しさや悲しさよりも先に、どこか諦めにも似た気持ちが胸を満たしていく。
アモンはどうするつもりなんだろう。本当に私と結婚するのだろうか。ルルさんはどうするのだろう。
結婚しても、アモンはルルさんを優先するのだろうか。その時私は――
◆
エミリーの誕生日。二人きりで過ごそうと、何週間も前から約束していた日。
――今度こそ。
淡い期待を抱きながら、エミリーは朝から念入りに支度をした。アモンの好きな色のドレスを選び、髪も普段よりずっと丁寧に結い上げた。今日だけは、彼の一番隣にいたい。そんな単純な願いだった。
けれど昼過ぎにやってきたアモンの手には、贈り物の箱ひとつだけがあった。
「ごめん、エミリー。ルルが熱を出したんだ。だから今日は」
「今日だけでいいの。一緒にいてほしいの」
エミリーは珍しく、縋るように彼の袖を掴んだ。これが最後のわがままだと、自分でもわかっていた。
「……ルルが心配なんだ」
アモンはエミリーの手をそっと、しかしきっぱりと振りほどいて、背を向けた。玄関扉が閉まる音が、いやに大きく響いた。
閉じた扉を見つめながら、エミリーは静かに悟った。もう、終わりにしよう。この人を諦めよう。
ただ、その前にひとつだけ、どうしてもやり残したことがあった。
◆
その晩、エミリーは自室でひとり、これまでのことを順番に思い返した。観劇、花祭り、仮縫い、そして今日の誕生日。
数えきれないほどの「ルルが」という言葉。一度も会わせてもらえなかった、顔も知らない幼馴染。
そして今日、街で見た、あの華奢な女の子。
アモンの話から、寝たり起きたりの病人なのかと思っていたけど、あんな風に出歩けるくらいに元気だったんだ。
もしかしたら、これまでにも、何度も二人で出かけていたのかもしれない。
そう思うと涙が溢れて止まらなかった。
会いに行こう、とエミリーは思った。
婚約を終わらせる前に、最後に一言、その相手に伝えたいことがある。
あなたのために、私がどれだけのものを諦めさせられたと思っているのか、と。
◆
数日後、エミリーはモンド男爵家のタウンハウスを訪ねた。取り次ぎを頼むと、案外あっさりと応接間に通される。
待っていると、現れたのは――先日見かけたのとはまるで違う女性だった。
血色のいい頬、しっかりとした体格、健やかな足取り。街で見た、あの儚げな女の子とは似ても似つかない。
「はじめまして。ルルーシュ・モンドです」
「……失礼ですが、あなたが、ルルさん……?」
「ええ、そうですけど。エミリー様はアモンの婚約者なのですよね?今日はアモンのことで、何か?」
戸惑うエミリーに、ルルは笑顔を返した。話を聞けば、彼女の病はすでに完治しており、数日のうちに領地へ帰る予定になっているという。
「アモン様は……最近もこちらにいらしているのでは」
「アモン?王都に来たばかりの頃には何度かお見舞いに来てくれましたけど……最近は、全く顔を見せていませんよ。手紙のやりとりすらしていません」
その瞬間、エミリーの頭の中が真っ白になる。半年分の「ルルが」という言葉だけが頭の中をぐるぐると回っていた。
「それは……おかしくないですか?少し、話が違うんじゃありませんか?」
おかしい。そんなはずは。エミリーは心の中のざわめきを押さえつけるように、努めて冷静に、穏やかにそう告げた。
「じゃぁ、アモンは半年間、誰と……」
思わず口をついて出た言葉に、ルルは驚いたように目を見開き、それからふっと表情を緩めた。
「腹を割って話しませんか、エミリー様」
エミリーは思わず、ごくり、と喉を鳴らした。
これまでのことをルルに説明するとルルは首を傾げた。
「熱が出たからって言って呼び出すこともないですし、付き添ってもらったこともないですね。だって側にいられたって困るじゃないですか」
「じゃあ、私が見た人は……?」
「私じゃないです。エミリー様が、私とアモンを街で見たと言ったその日、私は医者のところにいました。それは証明できます」
ルルは淡々と語った。
エミリーが商店街で見た「ルル」は、彼女ではない。それは今、目の前にいるルルの姿を見ても明らかだ。
アモンは、幼馴染の名を騙って別の女性と会っていたのだ。
「私をダシに浮気していたんでしょうね、あいつ」
「そんな……」
絶句するエミリーに、ルルは肩をすくめてみせた。
「私だって、病と必死に戦っている間に都合よく使われていたんです。めちゃくちゃ腹が立ちます」
ルルは話しているうちに、どんどん熱くなっていく。
「こっちは本当に大病だったんですよ!命がけで治療してきたのに、浮気の言い訳に使われていたなんて、酷い!許せない!アモンのバカ!アホ!絶対許さない!」
初めて会ったはずのその女性の、真っ直ぐな怒りに、エミリーは思わず笑ってしまった。悲しいはずなのに、なぜか気持ちが軽くなる。
「どうです、エミリーさん。どうせ婚約を解消するなら、最後にあの男をとっちめてやりませんか」
「――ええ、ぜひ、お手伝いしていただけますか」
二人は顔を見合わせ、これまでの半年分の鬱憤を晴らすように、しばらく声を上げて笑った。
◆
数日後、エミリーはアモンをランティス邸に招いた。
「最近ゆっくり話す時間もなかったでしょう。どこかへ出かけるのではなく、家でお茶でもしながらお話ししたくて」
いつものように穏やかに微笑むエミリーに、アモンは特に疑う様子もなく応じた。庭に面したテラスに席を用意させ、二人で向き合う。
けれど、お茶を挟んでの会話は、どこかぎこちなく弾まない。いつもなら積極的に話題を振るエミリーが、今日はやけに口数が少ない。
カップに紅茶を注ぐ手つきも、いつもと変わらないはずなのに、アモンにはどこか落ち着かない空気として伝わっていたのだろう。
沈黙に耐えかねたのか、アモンが腰を浮かせた。
「……すまない、ルルが昨日から熱を出していてね。心配だから、そろそろお暇するよ」
エミリーはその台詞を待っていた。
「まぁ、お熱が!それは申し訳ないことをしましたわ。ルルさん、アモンと一緒にお帰りになってよろしくてよ」
エミリーはアモンの背後に向かって、にっこりと微笑みかけた。
「いいえ、エミリーさん。私は元気ですよ。熱?そんなもの、どこにもありません」
聞き覚えのある声に、アモンが弾かれたように振り返る。そこには、メイド服に身を包んだルルが、お盆を片手に静かに立っていた。
「……ルル?どうして、ここに」
「どうして?それはこっちのセリフよ。私が熱を出したってどういうことなのかしら」
ルルが笑顔で言う。でも目は笑っていない。
「ゆっくり話を聞かせてもらおうかしら。今日のことだけじゃなく、これまでのことも」
ルルはお盆をテーブルに置くと、がっしりとアモンの肩に腕を回し、逃げ道を塞ぐようににっこりと笑った。健康的な体格のその腕は、思いのほか力強い。
「あ、いや、これは……ち、違うんだ、エミリー、これには事情が――」
「事情というのは、私に会う予定だった日に、他の女性と腕を組んで街を歩いていたことですか?それとも、私が誕生日にお願いした日に、ルルさんを言い訳にして帰ってしまったことですか?」
エミリーの声は淡々としていたが、その分だけ、抗いようのない重みを持っていた。
観念したように肩を落としたアモンは、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
半年ほど前、社交の場で出会った女性と関係を持つようになったということを。
それを聞いて、エミリーは少しだけ安堵した。自分が無理に婚約を結んだせいで、アモンと恋人の仲を引き裂いたのではないかとも考えていたからだ。
そして逢瀬の時間を作るため、ちょうど治療のために王都へ来ていた幼馴染のルルの名を、隠れ蓑に使っていたこと。
「ルルなら、婚約者のいる自分が気軽に会いに行くと言っても、周りに怪しまれない。それに、エミリーもルルの病気のことなら、強く責められないだろうと……」
「――利用したわけですね、私とルルさんの両方を」
エミリーの声に、初めてはっきりとした怒りが滲んだ。それはこの半年、一度も言葉にしてこなかった感情だった。
「私が本当に大変な思いをして治療している間に、私の名前をそんなことに使っていたなんて」
ルルの声も、低く硬いものに変わっていた。アモンは何度も口を開きかけては、言葉を続けられずにいた。弁解の余地など、どこにもなかったからだ。
◆
「結婚後であればまだしも、結婚前の浮気を看過するわけにはいかない」
事の次第を知ったエミリーの父はそう言って激怒した。
――結婚後であればまだしも、ってどういうことかしら。結婚後なら浮気をしてもいいってことでもないでしょうに。
エミリーと母の冷たい視線に気づいた父は慌てて機嫌を取ろうとし、失言を挽回すべく張り切りはじめた。
父のおかげで事態はあっという間にランティス家とゴドフィル家との話し合いへと発展した。
すべての責はアモンにあるとして、婚約は白紙に戻され、慰謝料もランティス家に支払われることになった。ゴドフィル伯爵家は、傾きかけていた家門にさらなる打撃を受けることになったが、それはもう、エミリーの知ったことではない。
半年間の鬱屈が、ようやく晴れていくのを感じるだけだった。
婚約破棄から数ヶ月。エミリーのもとには、領地に帰ったルルからの手紙が定期的に届くようになっていた。
畑仕事の話、可愛がっている犬の話、たまに近況を尋ねる一言。時折、便箋の端に「アモンのその後」を揶揄するような、意地悪な一言が添えられていることもあって、エミリーはそのたびについ笑ってしまう。
窓辺でその手紙を読みながら、エミリーはふと目を細めた。
あの人との婚約は、結局最後まで、望んだ形にはならなかった。花祭りも、観劇も、誕生日も、失った時間を取り戻せるものではない。
けれど思いがけず、気持ちのいい友人がひとり増えた。腹を割って話せる相手が、遠く離れた地に一人。
それだけでも、悪くない結末だったのかもしれない。
エミリーは便箋を手に取り、ペンを走らせ始めた。遠くの友に近況を知らせるために。




