第08話:月下の庭園、触れ合う孤独
熱が引いた後の体は、どこか自分のものではないように軽かった。
エリスは窓から差し込む青い月光に誘われるように、夜の庭園へと足を向けた。魔王城の庭には、人間界では見たこともないような、銀色に光る月見草が咲き乱れている。
その光景は、かつて彼女が聖女として守っていた白亜の神殿よりも、ずっと神聖で、そして孤独に見えた。
「……あの日も、こんな月が出ていたのでしょうか」
首元の魔石をそっとなぞる。
目を閉じれば、熱に浮かされた自分を抱きしめていた、あの震える腕の感触が蘇る。彼が漏らした「独りにしないでくれ」という言葉。それは、今の強大な魔王からは想像もできないほど、幼く、切実な響きだった。
「――夜風に当たるには、まだ早いはずだ」
背後から響く、聞き慣れた低音。
振り返らなくてもわかる。ゼノスだ。
彼はエリスの数歩後ろに立ち、影を重ねるようにして佇んでいた。
「陛下。……昨夜は、その、看病してくださって……ありがとうございます」
「勘違いするなと言ったはずだ。お前の身が朽ちれば、私の管理に傷がつく」
鉄壁の拒絶。
けれど、エリスはもう、その言葉を額面通りに受け取ることはできなかった。
彼女はゆっくりと振り返り、ゼノスの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。
「『独りにしないで』と……そう、おっしゃいましたか?」
ゼノスの眉が、ぴくりと跳ねた。
一瞬の沈黙。庭園に流れる風の音さえも止まったかのような、息苦しいほどの「溜め」。
ゼノスの瞳に、戸惑いと、それを隠すための鋭い光が混ざり合う。
「……夢でも見ていたのだろう。お前は、やはり魔力だけでなく、頭も枯渇したか」
彼はわざとらしく鼻で笑い、エリスから視線を逸らした。
だが、その握りしめられた拳が、微かに震えている。
「いいえ。あの時、私は確かに聞きました。あなたの……少年の頃のような声を」
エリスは一歩、彼に歩み寄った。
彼が授けた「契約の鎖」が、ゼノスの感情に呼応するように、微かに熱を帯びる。
「陛下。あなたは、あの時のあの子なのですね。私に『守ってあげる』と言われて、泣きそうに私の服を掴んでいた……」
「やめろ」
ゼノスの声に、地響きのような魔力が混ざった。
周囲の月見草が、彼の感情の昂ぶりに怯えるように激しく揺れる。
彼はエリスの肩を掴み、力任せに引き寄せた。
「あの日の少年は、もういない。私は、お前を追放した人間どもを焼き尽くし、お前を二度と外の世界へ出さぬよう、この檻に閉じ込める魔王だ」
至近距離でぶつかり合う視線。
ゼノスの瞳は怒りに燃えている。だが、その至近距離だからこそ、エリスには見えていた。
彼の瞳の奥に広がる、触れれば壊れてしまいそうなほどの「臆病な愛」が。
「……なら、なぜそんなに悲しい目をしているのですか?」
エリスの手が、そっとゼノスの頬に伸びた。
触れるか、触れないかの距離。
ゼノスは、まるで熱い鉄を突きつけられたかのように、大きく息を呑んだ。
彼は彼女の手を振り払うことも、抱きしめることもできず、ただ月の光の下で、石像のように固まっていた。
言葉以上の「沈黙」が、二人の間に重く、甘く、降り積もっていく。
かつての初恋と、現在の契約。
二つの時が重なり合う庭園で、二人はただ、互いの体温だけを確かめ合うように立ち尽くしていた。
「悲しい目をしている」
その一言が、魔王の強固な仮面を内側から砕き始めます。
本当は抱きしめたいのに、触れることさえ畏れ多い。
そんなゼノスの葛藤が、月下の庭園に美しく溶け込んでいくシーンを描きました。
二人の距離は、今にも重なりそうで、けれどまだ届かない。
この「じれったい静寂」こそが、恋がもっとも美しく、残酷に燃え上がる瞬間だと私は信じています。
エリスの差し出した手が、ゼノスの心にどのような「波紋」を広げるのか。
次話では、彼らの関係を揺るがすさらなる事件が幕を開けます。
もし、この月明かりの沈黙を共に楽しんでいただけたなら、
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