第02話:黒鉄の城と氷の王
意識が戻ったとき、エリスを包んでいたのは、泥の冷たさではなく、暴力的なまでの柔らかさだった。
(……ここは……?)
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、高く聳える天蓋と、深い深い夜の色をしたシルクのシーツだった。
窓の外では相変わらず雨が鳴っているようだが、部屋の中は魔法によるものか、春の日のような温かさに満ちている。
エリスは重い身を起こそうとして、自分の格好に気づき、息を呑んだ。
泥に汚れ、引き裂かれていたあのドレスは消え、代わりに上質な薄絹の寝衣を纏わされている。手首の傷跡は丁寧に手当てされ、香草の香りがする軟膏が塗られていた。
かつて聖女として過ごした神殿の離宮よりも、ずっと贅沢で、そしてどこか「過保護」な気配のする部屋。
だが、そこには窓格子が嵌められ、扉の前には重厚な鎧の足音が響いている。
救われたのではない。私は、捕らえられたのだ。
ガチャリ、と重い鍵の音がして、扉が開いた。
入ってきたのは、漆黒の軍服を纏ったあの男――魔王ゼノスだった。
「……目が覚めたか、役立たずの聖女」
低い、地を這うような声。
ゼノスは部屋の中央で足を止め、エリスを見下ろした。その黄金の双眸は、獲物を値踏みする獣のように鋭く、逃げ場を許さない。
エリスはシーツを胸元まで引き上げ、震える声で問いかけた。
「……陛下。なぜ、私を……。魔力が枯枯した私に、利用価値などないはずです」
その言葉に、ゼノスの眉が僅かに動いた。
彼は一歩、また一歩とベッドへ近づく。エリスが反射的に身を引くと、彼はその動きを逃さず、大きな手でベッドの柱を掴んだ。
至近距離。
彼の纏う冷徹な空気に圧倒され、エリスは呼吸を忘れる。
だが、見上げれば――。
(……この目は……)
かつての戦火の中で、自分を見上げていた、あの少年の瞳。
今は冷酷な魔王の仮面を被っているが、その奥にある熱量は、あの時よりもずっと深く、濃い。
彼はエリスの唇を見つめ、それからゆっくりと、彼女の白い手首に刻まれた「追放の烙印」に視線を移した。
「価値だと? 勘違いするな。お前をここに置くのは、聖女という種が絶えるのを確認するためだ」
言葉は、毒のように冷たい。
しかし、彼が握りしめているベッドの柱――。そこに添えられた彼の指先が、微かに震えているのを、エリスは見てしまった。
「……陛下?」
「黙れ。お前は今日から、この部屋で私の監視下に置かれる。許可なく一歩も出ることは許さん。お前の呼吸も、鼓動も、すべては私の管理物だ」
ゼノスは、まるで自分自身に言い聞かせるように、残酷な言葉を積み上げていく。
そして、傍らのテーブルに置かれたトレイを顎で示した。
そこには、温かなスープと、丁寧に切り分けられた果実が並んでいる。
「毒など入っていない。お前が勝手に死ぬことは、私の『監視』が失敗することを意味する。……食え」
彼はそう言い捨てて、背を向けた。
その背中は広く、あまりに孤独に見えた。
「……あ、あの」
エリスの呼びかけに、ゼノスが足を止める。
振り返りはしない。だが、彼の耳朶が僅かに赤らんでいることに、エリスは気づかなかった。
「……ありがとうございます。助けてくださって」
沈黙。
部屋を支配したのは、雨音よりも静かな、けれど火花が散るような沈黙だった。
ゼノスは何も答えず、ただ力任せに扉を開け、出て行った。
残されたエリスは、差し出されたスープを一口啜る。
それは驚くほど優しく、どこか懐かしい味がした。
彼女は知らない。
扉の外で、魔王ゼノスが壁に背を預け、激しく脈打つ心臓を抑えながら、天を仰いでいたことを。
「……死にそうな顔をして、まだあんな声で笑うのか、お前は」
彼の独り言は、誰にも届かない。
ただ、その琥珀色の瞳には、冷酷な支配者のそれではなく、十数年の時を経てようやく「宝物」を取り戻した、狂おしいほどの情熱が宿っていた。
追放された聖女と、彼女を「監視」し続けたい魔王。
二人の噛み合わない言葉の裏側には、積み重なった年月分の想いが隠されています。
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物語はここから、魔王城での二人きりの「監視生活」へと移っていきます。
冷酷な仮面の下で、ゼノスがどのようにエリスに「献身」してしまうのか……。
次話も、言葉以上に雄弁な彼らの「視線」に注目してお読みください。
皆さまの評価や感想が、この二人の物語をより深い愛へと導く糧となります。




