第01話:聖女の終わる日
「役立たず」と蔑まれ、全てを失ったあの日。
降りしきる雨の中で私を拾ったのは、
冷酷無比と恐れられる、琥珀の瞳を持つ魔王でした。
「監視だ」と彼は言います。
けれど、重なる視線は、触れ合う指先は、
どうしようもないほどの熱を持って、私を蕩かしていく。
言葉にできない「沈黙」が、愛に変わるまでの物語。
どうか、彼らの行く末を、静かに見守っていただければ幸いです。
雨に、心などない。
ただ重力に従って空から落ち、地を濡らし、あらゆる熱を奪い去っていく。
この国の王都を包み込む慈雨も、今のエリスにとっては、彼女の命の灯火を消し去るための冷たい刃に過ぎなかった。
「……以上をもちまして、エリス・ヴァレンシュタイン。貴殿の『聖女』としての全権限を剥奪し、この国からの永久追放を命じます」
大聖堂の冷たい石床に、低く、残酷な声が響き渡った。
声を放ったのは、かつて彼女を「神の愛し子」と称え、その手を取った教皇マルクスだ。彼の目は今や、使い古した道具をゴミ箱へ放り込むような、無機質な光しか宿していない。
エリスは膝をついたまま、微かに震える唇を噛み締めていた。
彼女の頭上からは、代々の聖女が受け継いできた白金の冠が、乱暴に剥ぎ取られた。乱れた銀髪が頬にかかり、視界を遮る。
「……教皇様。どうか、あと少しだけ……時間をいただけないでしょうか。魔力は、きっと……休息をとれば、再び……」
「無駄な抗弁はやめなさい。お前の『泉』は、もはや枯れ果てたのだ」
マルクスの言葉に、並び立つ神官たちの間に嘲笑が混じった。
かつてエリスがその祈りで癒やし、慈しんできた人々だ。彼らの視線は、今や針となって彼女の白い肌を刺す。
聖女の魔力は、この国の繁栄の源だ。それが枯渇したということは、すなわち価値を失ったということ。
この国において、価値のない人間は存在を許されない。
「かつての功績に免じ、命までは取らぬ。だが、その足で境界を越えよ。二度と、この聖なる地の土を踏むことは許さぬ」
重厚な大扉が開かれ、外の灰色の景色が姿を現した。
エリスは立ち上がろうとしたが、力が入らない。数日間、食事も喉を通らないほどに祈り続けた体は、すでに限界を迎えていた。
かつては重みさえ感じなかった聖衣が、今は鉛のように重く、彼女の肩を押し潰そうとしている。
ズルり、と。
彼女は這うようにして、大聖堂の出口へと向かった。
背後で、あの重厚な扉が「ガタン」と閉まる音がした。それは、彼女の人生が断ち切られた音だった。
外は、土砂降りの雨だった。
大聖堂から続く長い階段を、一歩、また一歩と降りていく。
沿道には、かつて彼女を「聖女様」と呼び、祈りを捧げていた市民たちが集まっていた。
だが、投げかけられるのは感謝の言葉ではない。
「役立たず!」
「俺たちの税を食いつぶしやがって!」
「さっさと消えろ、この偽聖女!」
泥を投げられ、白いドレスが黒く汚れていく。
エリスは何も言い返さず、ただ前だけを見て歩いた。
視界が雨と涙で霞み、足元がおぼつかない。冷たい水が靴の中まで侵入し、体温を奪っていく。
(ああ……私は、何のために生きてきたのだろう)
幼い頃から聖女として教育され、自分の意志を殺し、ただ人々の幸せのために祈り続けてきた。
家族も、友人も、恋も。すべてを犠牲にして捧げた結果が、この泥濘の道なのか。
境界の門を抜けた先は、人間が住むことを拒むような、険しい森だった。
通称「沈黙の境界」。その先には、人間を忌み嫌う魔族たちが統べる、暗緑の王国が広がっているという。
エリスは森の入り口で力尽き、倒れ込んだ。
冷たい泥が、頬に触れる。
もはや指先一つ動かす力も残っていない。
雨音だけが、彼女の耳元で鳴り続けている。
意識が遠のいていく中、エリスは、ふと幼い頃の記憶を思い出した。
燃え盛る炎の中で、誰かの手を握っていた気がする。
怯える琥珀色の瞳。自分よりも小さな、けれど熱い体温。
『大丈夫。私が、あなたを守ってあげるから……』
あの日、自分が救った命があった。
それは聖女としての義務ではなく、ただ一人の少女として手を差し伸べた、唯一の「自分自身の選択」だった。
(……せめて、あの少年は、どこかで幸せに生きていてくれれば……)
エリスの意識が、深い闇へと沈んでいく。
雨の冷たささえ感じなくなったその時。
不意に、降り注いでいた雨が止まった。
いや、止まったのではない。
何かが、彼女の上に覆い被さり、雨を遮ったのだ。
微かな……けれど、あまりに懐かしい「香草」の匂い。
そして、耳元で響いた、凍てつくほどに低く、けれどどこか震えているような声。
「……見つけたぞ。我が救済者」
重厚な革のブーツが、泥を跳ね上げてエリスの傍らで止まる。
ゆっくりと顔を上げたエリスの瞳に映ったのは——。
漆黒の外套を羽織り、雨の中に立ち尽くす一人の男だった。
彼の背後には、異形の軍勢が控えている。
男は跪き、泥に汚れたエリスの細い指先を見つめた。
その琥珀色の瞳に宿っているのは、憎しみか、それとも——。
「お前を……私の城へ連れて行く。監視の鎖で、二度と逃げ出せぬよう、繋ぎ止めてやる」
言葉は冷酷だ。
しかし、彼女を抱き上げたその腕は、信じられないほどに強く、そして熱かった。
エリスの、聖女としての人生が終わった。
そして、魔王の籠の中での、残酷で甘やかな余生が、今、幕を開ける。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「役立たず」と捨てられた聖女が、かつて救った少年に「監視」という名で執着される物語。
二人の視線が交差するたびに、心の奥が熱くなるような展開をこれからも用意しています。
もしこの物語の「沈黙の熱」を少しでも感じていただけたなら、
ぜひ【ブックマーク】や【評価】で、彼らの行く末を見守っていただければ幸いです。
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当面の間は1日3話の投稿予定です。
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