【番外編】誰からも愛されない魔女は、一途すぎる使用人から愛されている。
※この話は【本編の後日譚】です。
※レシオンside/一部ネタバレを含みます。本編を読了のうえでの閲覧をおすすめします。
※R15相当の恋愛描写(キス等)を含みます。苦手な方はご注意ください。
※本編は全年齢対象で公開中です。
1 大英雄の苦悩(レシオンside)
――五百年。
たった一人を想って国中を彷徨い、魔物と刃を交えてきた。
命を救ってくれた最愛の魔女、キリシャ・エスワール。
彼女に愛されたいがために、己を鍛え上げ、魔王さえも討伐した。
手に入れた称号は申し分なく、国王からは恩賞として広大な領地を賜った。
そして先週、ようやく――ようやく想いが通じた。
これで堂々とキリシャを僕の妻として迎え、一生を添い遂げられる。
……そう、確信していたはずだった。
「お、おはようございます。レシオンさま」
「……」
朝日が差し込む、洋館のダイニングルーム。
テーブルの上には、二人分のパンと、縁の焦げた目玉焼き。
立ち上るハーブティーの香りが、静まり返った部屋に漂っている。
朝食を準備するのは、本来僕の役割だった。
だが、僕の正体が『英雄レシオン』だと明かして以来、キリシャが甲斐甲斐しく担うようになった。
(……完っ全に、気を遣われている)
静かに椅子を引き、重々しく腰を下ろす。
ふと視線を上げると、少し離れた場所でトレイを抱え、こちらを窺うキリシャと目が合った。 笑いかけると、彼女の表情が目に見えて強張る。
「おっ、お口に合うといいのですが……」
「……キリシャ。なんでそんなによそよそしいの」
「そんなつもりは……ありません」
(いや、嘘だ。完全に萎縮しているじゃないか)
鏡を見るまでもなく自覚はある。
僕は、およそ”気安く接する”には程遠い外見をしている。
百九十センチを超える長身に、鍛え上げた肉体。
顔立ちには三十代半ばの厳しさが刻まれ、戦場を渡り歩いた身体は古傷だらけだ。
何より眼光が鋭すぎて、時に「魔物より恐ろしい」と怯えられたことさえある。
だからこそ、僕はアルシオンという、華奢で人懐っこい少年の姿に化けて彼女に近づいた。
……だが。
(やりすぎた)
ギャップがあまりにも大きすぎて、彼女の心が追いついていないのは明白だった。
重苦しい沈黙の中、彼女が焼いてくれたパンにジャムを塗り、口に運ぶ。
「……いただきます」
しかし、キリシャは一向に近づいてこようとしない。
トレイの縁を指でなぞりながら、落ち着かない様子で立ち尽くしている。
僕と同じ席に座ることすら躊躇っているようだった。
(まずいな、これは)
「……あのさ。僕のこと、怖い?」
弾かれたように、キリシャが顔を上げた。
「まさか! ……でも、ずっと伝説だと憧れていた方だから。
どう接したらいいのか、分からなくなってしまって」
「敬語じゃなくていいって、何度も言っているのに」
「すみません! ……じゃなくて……ごめん、なさい」
「…………」
(だめだ、こりゃ)
僕はパンを皿に戻した。
本意ではないが、彼女を怯えさせ続けるわけにはいかない。
ぱちり、と小さく指を鳴らす。
魔力が身体を駆け巡り、一瞬で視界が低くなった。
キリシャが見慣れたアルシオンの姿へと、肉体を再構成する。
「しばらく、この姿でいるよ」
すると、それまで身を硬くしていたキリシャが、
目に見えて安堵の笑みを浮かべた。
その純粋な笑顔に、胸の奥がちくりと痛む。
「本当にごめんね、アル!」
アルの姿になった途端、彼女の声から緊張が消え、今まで通りの口調が戻る。
「謝らなくていい。それと、ご飯は今まで通り僕が作るから。無理しないで」
「でも、もう使用人じゃないし」
「だからこそ、得意なことを分担しようって言ってるの。
そのうち結婚もするんだし。……夫婦って、そういうもんでしょ?」
自分で言いながら、顔に熱が集まるのが分かった。
照れ隠しにそっぽを向くと、「ふふっ」と彼女の柔らかな笑い声が聞こえ、
軽い足音が近づいてきた。
「アル」
呼ばれて振り返った瞬間、彼女の指先が僕の頬を無造作に拭った。
「ジャムがついたまま言われても、カッコつかないわよ」
「……」
至近距離でのぞき込んでくる、青い瞳。
視線が交わった瞬間、愛おしさが溢れて、僕は彼女の細い体を掴んで引き寄せた。
編んだ髪から甘い香りがふわりと香って、鼓動が跳ねる。
そのまま、夢中で唇を重ねた。
こうしてキスをするのは、あの夜の森以来……一週間ぶりだ。
キリシャは驚いたように身を強張らせたが、抵抗はしない。
おずおずと僕の身体に手を回し、応えるように抱きついてきた。
その柔らかな感触が、痺れるような熱を持って全身に広がっていく。
重なる唇から伝わる、彼女の体温。
微かに漏れた吐息に頭の奥がビリッと痺れる。
彼女の背中を抱く自分の力が強まるのを自覚していたが、止められない。
「アル」の華奢な指先では収まりきらない衝動が突き上げ、腕に力がこもる。
キリシャが僕の腕に爪を立てた瞬間、全身の血が激しく昂った。
ずっと求めていた温もりが腕の中にある幸福感に、
理性の箍が外れていくのを感じた。
深い口づけを繰り返し、やがて互いに息が苦しくなって、顔を離した。
紅潮した彼女の頬と、潤んだ瞳を見た途端、胸の鼓動が跳ね上がった。
その負荷が、魔力の制御を狂わせた。
呼吸するたび、肌の下で筋骨が震え、身体が内側から焼き付くような熱を持つ。
もう一度、確かめるように彼女を抱き寄せようとしたところで
――キリシャの顔が引きつっていることに気がついた。
「あ」
彼女の瞳に映っていたのは……少年ではなく、眼光の鋭い――レシオンだった。
キリシャが途端に硬直し、見る間に耳まで赤く染まっていく。
そして、飛び退くように僕から距離を取った。
「すみません、レシオンさま!」
「……!」
「私……洗濯をしてきます!!」
「ちょっと、キリシャ……!」
必死の呼びかけも虚しく、キリシャは脱兎のごとく駆け去っていった。
静まり返った部屋に、僕の激しい鼓動だけが響く。
いまだ身体も熱く、全身が火照って仕方がない。
けれど、この英雄の姿で、逃げ出した彼女を追い回すわけにもいかない。
行き場を失った手を、ゆるゆると下ろした。
そのまま椅子に座り直し、腕を組んで天井を仰ぐ。
「――どうしよう」
2 揺れ続ける乙女心(キリシャside)
「ああああ……っ!」
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……!
庭の洗濯物干し場で、私は濡れたシーツをバンバンッと思い切り叩き伸ばす。
そうでもしないと、羞恥心に苛まれて叫びだしてしまいそうだった。
そっと、自分の唇に指を当てる。
未だにアル――いや、レシオンさまの唇の感触が、熱を持って残っている。
アルとレシオンさまは同一人物で、
私のことを五百年も愛し続けてくれた。
頭では理解している。
嫌というほど分かっている。
けれど、心がどうしても追いつかない。
(だって、大英雄さまなんだもの……!)
国中の人間が羨望の眼差しを向け、名声も、地位も、
何もかもを手中におさめている、生きる伝説。
彼の英雄譚は穴が開くほど読み込み、すべて暗記している。
たとえ愛されなくても、一生に一度でいいからお目にかかりたいと、
ずっとずっと願っていた。
――そして、その事実を。
彼は「アルシオン」としてずっと隣で見ていた……いや、見られていた。
それだけでも恥ずかしくて悶絶しているというのに。
その憧れの人と――
私は! 朝っぱらから! 一体何をしているの!!
再びバァンッとシーツを叩く。
(痴女だと思われたらどうしよう!!)
せっかく愛されたのだ。
もっと、凛とした姿でいたい。
英雄の妻として相応しい、気高く美しい魔女だと思われたい……。
(それなのに、どんな顔をして接したらいいのか分からない)
まるで、知らない人になってしまったみたいで。
(遠く感じる……)
「キリシャ」
背後から低い声で名前を呼ばれ、全身が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこにはアルの姿をした彼が立っていた。
さきほどの熱情など嘘のように、いつも通りの冷めた表情で。
「街まで買い出しに行ってくる。何か要るものは?」
「い、いいえ。要らないわ」
「そ。遅くなるから、しっかり戸締まりしておいてね」
アルはそれだけ言うと、ひらりと身を翻して屋敷の方へ戻っていく。
去り際の後ろ姿に声をかけようとしたが、喉が引き攣って言葉が出なかった。
「……」
(えっ?)
それだけ?
素っ気なくない?
さっき、キスしてきたのに?
夫婦になったら、って話もしてくれたのに?
シーツを握る手に力がこもる。
(私があまりにも距離を取りすぎて、呆れられちゃった?)
……そりゃそうだ。
いつまでも、ぎこちない反応ばかり繰り返している私が悪いのだ。
(レシオンさまなら私なんかじゃなくても、相手は選び放題なのに……)
私への恩義だけで五百年も慕ってくれたというけれど、
いざ恋人として、結婚相手として向き合ったら、
「なんか思っていたのと違うかも」と幻滅されていてもおかしくはない。
そこまで思考が辿り着いた瞬間、ぎゅうっと胸が締め付けられた。
(本当に、ただの買い出しなの……?
もしこのまま帰ってこなかったら――)
くらりと足元が歪むような、目眩を覚えた。
(ついていってみよう――!)
私は洗濯物を放り投げるようにカゴへ戻し、屋敷に駆け戻った。
3 二人の距離(レシオンside)
どうにかして、キリシャとの距離を詰めたい。
日が暮れる頃、僕は街の外れにある酒場に訪れていた。
店内で待っていたのは、女エルフのエナだ。
「久しぶり~、レシオン。お元気だった~?」
「また若返ったんじゃないの?」
何百年経っても、二十歳そこそこの若い女の姿であるエナは、
薄暗い店内でも、透き通るような肌とプラチナブロンドの髪が嫌でも目を引く。
その見目は、大陸一の女神と云われるほど麗しく、
周囲の男たちが、好奇の入り混じった視線をちらちらと投げているのを肌で感じる。
彼女とは魔王討伐の旅の途中でパーティを組んだこともある腐れ縁だ。
僕はエナと向かい合うようにして座る。
大柄な僕の体に悲鳴をあげるように、木製の椅子がギシリと音を立てた。
「急で悪かったね」
「あんたから相談があるなんて、天変地異の前兆じゃないかしら」
エナの軽口を無視して、僕は鞄の中身を丁寧に取り出した。
一つ、二つ、三つ……うず高く積み上がったのは、手のひらサイズの小箱の山。
すべてに魔法の装飾が施され、淡い燐光を放っている。
僕はその一つを手に取り、蓋を跳ね上げた。
中には極上の魔法石で出来た指輪が鎮座している。
「どれをキリシャに贈るべきか、意見を聞きたくて」
エナの笑顔が、引き攣ったまま固まった。
「まさか、これ全部指輪? あんた、根こそぎ買ってきたの?」
「どれも捨てがたくて」
「普通、買う前に相談しない!? これひとついくらすんのよ」
「そこらの家なら買えるんじゃないか」
「金払いやっば……」
「金なんて、大した問題じゃない」
僕は手元の小箱を次々と開いていく。
「で、だ。それぞれの指輪の特性なんだけど……」
解説を始めると、自然と言葉が溢れ出した。
「まずこの『蒼泉石』。これは魔力を補填し、増幅させる触媒としての機能が極めて高い。キリシャは僕を助けたせいで魔力が衰えているし、
何よりあの綺麗な青い瞳に、この石の輝きは絶対的に映えるはずだ」
「……はあ」
「でも、この『緋炎晶』も捨てがたい。ドラゴンの心臓で精錬された希少な逸品だ。
彼女は本来、炎系統の魔法が一番得意だったからね。
かつての力を誇りに思っているなら、これこそが彼女に寄り添う一品になる」
「……へえ」
「一方で、こっちの『白銀晶』は女神の祝福付きだ。加護による幸運と、あとは……そう、店主が言うには『今、王都の若い女性に一番人気のデザイン』らしい。
キリシャには、流行の最高級品を身につけてほしいし……。
で、あっちの『暁光華』は――」
「…………」
「ちゃんと聞いてるのか?」
顔を上げると、エナが椅子を引いて、物理的に僕から距離を取っていた。
まるで得体の知れない魔物を前にしたような、薄ら寒いものを見る目で。
「いや、もう全部あげたら?」
「重いって思われるだろ」
「十分重いわよ! てか、キリシャって、あの魔女のことよね?
まだ探してたとか、執着やばすぎて引くんだけど!」
「執着じゃない、愛情だ」
「こっっっわ!!」
店員が運んできた安酒を煽り、僕は小さくため息をついた。
「ついでに、あなたに貸していたノール城も引き渡してもらえる?」
「ええ~~っ!? あそこ、静かだし広くて気に入ってるのに」
「キリシャと住むんだよ。
五百年もタダで住まわせてあげたんだから、感謝してほしいくらいだ」
「いや、感謝はしてるけどさあ」
エナは頬杖をついて少しだけ拗ねたふりを見せたが、「仕方ないか」と呟くと
すぐに元の朗らかな笑みに戻った。
「ま、今までありがと。夫と子どもたちにも伝えておくわ」
彼女は僕のグラスにカチンと自分のグラスを当てた。
口は悪いし、旅の途中では散々僕らを振り回したが、根は律儀なのだ。
こういうところが、昔から憎めない。
ふと周囲に視線をやると、エナに見惚れていた男たちが、
僕の眼光に射抜かれたように一斉に目を逸らした。
「……エナ。やっぱり僕って、怖いのかな」
「何を今さら。あんた、ザコ魔物なら睨むだけで消滅させてたじゃない」
真剣に悩む僕の様子がおかしかったのか、
エナは身を乗り出すと、僕の眉間に細い指を立てた。
「何より、この目つきの悪さがいけないわ。ほら、ここ、ずっと皺が寄ってる」
「気安く触るなよ」
「んもう、いいじゃないの。減るもんじゃあるまいし。ほら、もっと笑ってみてよ」
まるで子ども扱いだ。
さっさと手を払い除け、
「で、結局どの指輪がいいと思うんだよ?」
「そうねえ。う~~ん、やっぱり、この蒼泉石じゃないかしら。
魔力が少ないんじゃ、魔力増強っていうスキル付与もありがたいと思うし。
何より、青色がとっても綺麗だわ。これをもらって喜ばない女はいないんじゃないかしら」
「……そう」
僕は蒼泉石の指輪を手に取り、改めて観察する。
これを渡したとき、キリシャはどんな顔をするだろう。
そう考えただけで、自分でも驚くほど口元が緩むのがわかった。
「相談ってのは、そんだけ?」
「まあ、うん」
僕は、適当に小箱の一つをつまんで、エナに差し出した。
「じゃ、これはあなたに」
「えっ? なんで!?」
「ここまで来てくれたお礼と、急な城の立ち退き料ってことで。
これで後腐れなしだからね」
「んまあ、律儀な子ね~~!」
エナは僕の髪をわしゃわしゃと、犬でもあやすかのように乱暴に撫で回した。
英雄レシオンをこれほど雑に扱えるのは、世界でエナくらいなものだろう。
彼女は小箱から嬉しそうに指輪を取り出すと、自分の指に嵌めてはしゃぎだした。
「んん、綺麗! ありがと、レシオン。大好きよ~!」
「はいはい、よくお似合いだよ。じゃあ、僕はそろそろ――」
だが、不意に背後に刺さるような視線を感じ、反射的に振り返った。
「ん?」
視線の先、酒場の入り口に立ち尽くしていたのは――キリシャだった。
(えっ)
彼女は、親密そうに僕の髪を撫でるエナを凝視し、
テーブルに並んだ高価な指輪たちを見た。
指輪を嵌めて喜ぶエナと、”レシオン”の姿で酒を酌み交わす僕。
キリシャの瞳が、みるみるうちに潤み、絶望に染まっていく。
(……あ。違う。キリシャ、これは)
声をかけるより早く、弾かれたようにキリシャは踵を返す。
スカートが翻り、勢いよく夜の街へ走り去っていった。
「え、もしかして?」
「……」
「やっばーーー!! タイミング神すぎ!!」
「うるっさい!」
一気に血の気が引いた。
(完全に!! 浮気だと思われた!!)
◆ ◆ ◆
夜。
寝室の柔らかな灯りの中、キリシャはベッドの隅で布団に包まっている。
「だから、誤解だって」
「……う、うん」
必死で弁明する僕に、彼女は消え入りそうな声で返事をした。
怖がらせないよう、僕はアルシオンの姿のまま、
ベッドサイドに置いた椅子に腰掛けたままじっと見つめる。
「アルは……英雄だもんね。慕ってる女性だって、たくさんいるわよね……」
「……キリシャ、信じてくれないの?」
自分の積年の想いをないがしろにされたように感じて、無意識に声が低くなった。
しかし、それが彼女には怒っているように聞こえたようだ。
怯えたように肩を震わせ、さらに深く顔を伏せる。
「ごめん……なさい」
その悲しげな、あるいは諦めたような表情を見て、僕はすぐに後悔した。
違う、悲しい思いをさせたいわけじゃないのに。
(ああ、もう……なんでこんな口しか利けないんだ、僕は)
不甲斐なさに舌打ちしたくなるのを堪え、僕は懐から小箱を取り出した。
「街に行ったのは、贈り物を買うためだったんだよ」
「……え?」
「キリシャのために買ってきたんだ。……きっとよく似合うよ」
おずおずと小箱を差し出すと、キリシャはゆっくり顔を上げた。
緊張した面持ちで、四つん這いのまま僕の近くに寄ってくると、
躊躇いがちに受け取ってくれた。
蓋を開くと、酒場でエナが一番だと選んだ魔力増幅の指輪、
『蒼泉石』が青く澄んだ光を放っていた。
それを見たキリシャは目を大きく見開き、ぱっと表情が明るくなった。
「わあ……すっごく綺麗! もらっていいの!?」
「もちろん」
「ありがとう、アル!」
笑顔のまま僕と目が合う。
しかし、すぐに現実に引き戻されたのか、表情が強張った。
「あ……レ、レシオン、さま」
「……いいよ、アルで。別に」
「……」
キリシャは蓋を閉じると、ぎゅっと小箱を握り込む。
再び顔を伏せたかと思うと、その瞳から――ぽたりと涙が落ちた。
ぎょっとして、僕は思わず椅子から立ち上がる。
「どうしたの? どこか痛い?」
「……違う」
首を横に振っているが、その声は震えていて、
抑えた目元からは涙がぽろぽろとこぼれている。
「私、あなたのこと何も知らない……」
「僕の冒険譚は全部知ってるじゃないか」
「そんなの、全部うわべだけよ!」
叫ぶようなキリシャの声に、息を呑んだ。
「あの人は本当のあなたをよく知ってる。
それなのに、私は怖がってばかり……!」
「……」
「私だって、普通に話がしたいし、相応しい魔女にもなりたい。
でも、あなたが知らない人になっちゃったみたいで、怖くて。
だけどそんな風にしか思えない自分が悔しくて、嫌なの」
キリシャが僕を見上げたまま、縋るようにシャツの裾を掴んだ。
「ねえ……どうしたらもっと好きになってもらえる?」
「キリシャ」
気づいたときにはもうベッドの上にいて、
目を丸くするキリシャの両手首を掴み、力任せに引き寄せていた。
「……アル、えっと、どうしたの」
腕の中で戸惑い、あたふたとするキリシャの鼓動を感じながら、僕は指を鳴らした。
魔法が解け、瞬時に身体が膨れ上がる。
少年のか弱さは消え、厚みを増した僕の胸板が、彼女の華奢な体を包み込むように重なった。
自分の体が大きくなるほどに、腕の中のキリシャが儚く感じられる
「レシオン、さま……! あの……」
腕の中で、彼女は頬を染め、身をよじって逃れようとする。
けれど本気で嫌がっているわけではないことは、その表情を見れば分かった。
姿が戻れば、彼女を容易く閉じ込めてしまえる。
その温度差を肌で感じながら、
静かに、けれど逃げ場のないほど深く抱きしめた。
「……もういっそ、越えちゃおうよ」
「な、何を、ですか」
上ずった声に、思わず自嘲気味に笑った。
「言わせる気?」
彼女の熱い頬をゆっくりとなぞる。
「僕がただの余裕のない男だって分かれば、英雄レシオンへの憧れなんて吹っ飛ぶよ」
「それって」
僕はキリシャの左手を取ると、
細い薬指に、蒼泉石の指輪を根元まで優しく押し込んだ。
驚きに目を見開く彼女に、僕は笑いかけた。
「これは、婚約指輪のつもりだよ」
「……!」
「いい加減さ、僕はあなたが欲しい」
キリシャの指で光る青い輝きを確認し、その手を強く、大切に握った。
「――返事は聞かない。五百年、あなたしか見てないんだから」
今の僕は、きっと英雄の冷静さなんて残っていないはずだ。
何かを言いかけ、わずかに開かれた彼女の唇を、強引に塞いだ。
そのまま倒れ込むようにして、重なる身体をベッドへ押し倒す。
首筋に回された彼女の細い腕が、拒むことなく遠慮がちに僕を引き寄せた。
「あなたは僕の最愛だ」
そこから先は熱に浮かされるまま、夜の深みに溺れていって――。
あまり、記憶がない。




