第一話
その闇は、ひとの秘密を飲み込み、飽き足らず、また吐き戻す。
ミシガン湖へと注ぎ込むシカゴ川は、夜の帳が落ちると一変する。
昼間は観光客の笑い声と車のクラクションが跳ね返る水面も、夜には息を潜め、黒曜石の板を押し広げたように沈黙しきっている。
高層ビル群の光だけが、氷のような反射を残し、街の栄光と孤独を同時に照らしていた。
その澄んだ静寂を裂いたのは、ただひとつ。
ひとりの青年が、音もなく闇に吸い込まれていく落下の気配だった。
落下の刹那、彼、ルーカス・ミラーは、悲鳴を上げなかった。
突き落とされたのか、自ら身を投じたのか。
あるいは、何かに引かれ、誘われたのか。
ただ彼は、凍った空気の中で息を呑むだけで、世界への最後の言葉すら拒んだ。
翌朝。
薄い霧が川面を覆い、街が目覚めきらぬ時間帯、清掃作業員のミゲル・トーレスは、いつものように川沿いの遊歩道を歩いていた。
ゴミ袋を抱え、ぼんやりと今日も寒いなと独り言をつぶやく。
そのとき、ふと、流れの淀みに漂う“人の形”が視界を引っかいた。
「……おい、嘘だろ」
浮かんでいたのは若い男。
顔はどこか穏やかで、眠っているようにさえ見えた。
だが、皮膚の白さは夜の冷気にすっかり奪われている。
警察は即座に身元を割り出した。大学院で都市工学を研究していたルーカス・ミラー。指導教授からの評価も高く、論文は奨学金委員会の選考を通過し、来年度には研究費がつくはずだった。
検死結果はただ一言、溺死。
外傷なし。
薬物反応なし。
血中アルコール濃度は微量、しかし確定ではない。
警察は形式的に現場検証を行い、暗い川辺に立ちながら事件性を否定した。
「深夜の転落事故だろ。学生よく落ちるんだよ、酒で足滑らせてさ」
その結論は、いかにも都合が良すぎた。
事件は静かに処理され、ルーカスの死は、ほんの一瞬だけ地域ニュースの片隅を汚しただけで終わった。
だが、この沈黙は前兆に過ぎなかった。
翌月。
さらにその翌月。
シカゴ川はあたかも周期を計ったように、またひとつ、そしてまたひとつと遺体を吐き出す。
職業も年齢もばらばら。
共通点といえば、夜間に失踪し、翌朝には川面に浮かんでいたことだけ。
合計で十六名。
破綻した酔客たちの偶然の転落と、誰が信じられるだろう。
その配置は、地図上に置けば奇妙なほど整然と、水辺に寄り添うように散りばめられていた。
沈黙する川は、語らない。
だが、その底で誰かが微笑んでいるような気がした。




