断章Ⅱ セシル④
ノアは、しばらく言葉を失っていた。
「そんな、大変なことをしていたのか。雇用以外にも学費まで……」
「あの子が、元々歩んでいたはずの人生を取り戻しただけよ」
ミューズは淡く笑う。そして、少しだけ懐かしむように目を細めた。
「……あの頃は、少し燃えていたのよね。私も人生を取り戻したくて」
ノアは、ゆっくりと頷いた。思い出すように、言葉を続ける。
「今は、ダイデン男爵令息夫人か。あの家の事業はこれから必要になる。彼女の力がきっと役に立つだろうな」
ダイデン男爵家は、サンパング国の国土整備を担っている。ダイハン領を得た今、皇都からダイハン領までの道路整備などの事業が急速に進んでいた。
「そう考えたら……良い方と結婚したわね。あの子も」
◇
ミューズたちは高等部二年生になった。つい一か月前に戦争は勝利に終わった。皇太子殿下の結婚式典の日取りも発表され、サンパング国は活気に溢れていた。
そんなある日。
夜は深く、別邸の窓を叩く風の音だけが、規則正しく部屋を満たしていた。蝋燭の芯が、ぱち、と小さく鳴る。
ミューズは、机に肘をついたまま、視線を落とした。書きかけの原稿用紙でも、数式でもない。何も書かれていない木目の一点を見つめている。
「……私ね」
声は思っていたよりも、かすれていた。喉の奥がひどく乾いている。
「本当は、アリアドネと一緒に暮らしたいの。学園を卒業したら……伯爵家を出て」
言葉にした瞬間、指先が震えた。膝の上で組まれた手がほどけて、また絡まる。
沈黙が落ちた。
風の音だけが、時間を引き延ばしていく。
セシルはすぐには答えなかった。ミューズの横顔を見つめ、何かを測るように息を整えてから、静かに口を開いた。
「お嬢様。……私と、結婚しませんか」
「……は?」
間の抜けた声が、ミューズの口から零れ落ちる。セシルは視線を逸らさず、淡々と続けた。
「法律的では、養子を取るには結婚した両親が必要でしょう?でも、お嬢様は男性には近づけない。女性同士でも結婚は法律上可能ですから」
理屈としては間違っていない。だが、ミューズはすぐに首を振った。
「……貴女、想っている人がいるでしょう」
言い切ると、セシルは耳まで一気に赤くなり、背筋がぴんと伸びる。
「べ、別に!ジャスティンのことなんて、なんとも思っていませんわ……!」
セシルは途端に早口になる。言葉が早く、息が浅い。否定が過剰な時ほど、人は正解を引き当てられた顔をする。
「そもそも彼だって、私が別れた直後だから優しくしてるだけで……!」
セシルはつい最近まで恋人がいたが、婚約寸前で別れてしまった。
ジャスティンは同い年のダイデン子爵令息で、セシルとは顔を合わせるたびに軽口を叩き合う、仲が良いのか悪いのかよく分からない関係だ。
「……私、ジャスティンだなんて一言も言ってないわよ。というか、へえ?最近優しいのね、彼」
ミューズは、わずかに口角を上げた。
「なっ……」
セシルは、言葉を詰まらせた。その沈黙の中で、ミューズは続ける。
「想い人がいる方と結婚する趣味はないわ。それに、私の歪みを貴女の人生で補うのは嫌よ」
静かな声だった。ミューズは真っ直ぐにセシルを見る。彼女はしばらく俯き、やがて小さく笑った。
「……そうですね」
認めるような、諦めるような声だった。
「それに、結婚せずともアリアドネと暮らすことができるようになるかもれない。幸い、ダイハンからの賠償金もあるから、資産額だけで許可が下りる日が来るかもしれないでしょう?」
ミューズは、視線を窓へ向ける。揺れる木々の影が、壁に歪んだ形を落としていた。
「私が、誰かと……もしかすると男性とだって結婚する未来が、来るかもしれないでしょう?」
ミューズは少しだけ笑った。実際の所、そんな見通しは何一つとしてないが、言葉にしなければならなかった。
セシルの未来を、自分の事情で閉じてしまうわけにはいかない。
彼女は何も言わず、ただ頷いた。
◇
その日。セシルが出勤してきたのは、昼近くだった。
セントル公爵邸の時計が正午を告げる少し前。石敷きの廊下に聞き慣れた足音が響いた瞬間、ミューズは筆を止めた。
いつもより少し遅い。
それ自体は珍しいことではないが、その日のセシルはどこか様子が違っていた。視界の端を横切ったセシルの姿に、胸の奥が微かにざわつく。
背筋は伸びている。仕事もきちんとこなしている。
だが。
表情が沈んでいる。廊下ですれ違うメイドたちに挨拶を返す声も、どこか硬い。笑顔がうまく作れていない。
ミューズは、すぐに気づいた。
(……今日、だったわね)
今日はセシルの誕生日。それはすなわち、かつてすべてが瓦解した日だ。
◇
昼の光が差し込む回廊で、セシルは外を見つめていた。遠くの庭では、風に揺れる木々が葉擦れの音を立てている。平和そのものの光景だった。
それが、かえって胸に刺さる。
過去を忘れさせるほど優しい景色は、思い出を抱えた者にとって、時に残酷だ。ミューズは、数歩分の距離を保ったまま、声をかけた。
「セシル」
声をかけると、セシルは一瞬、驚いたように振り返った。
「あ、ミューズ様。どうしました?」
「……少し、顔色が悪いわ」
彼女の声は整っている。けれど、ほんの少しだけ高い。空元気からくる声だ。セシルは、すぐにいつもの調子で肩をすくめた。
「気のせいです。昨日、ちょっと寝不足だっただけで」
嘘だ、と分かる。だが、ミューズはそれ以上踏み込まなかった。今日は、そういう日だった。触れれば崩れるものがある日だ。
「……無理はしないで」
「はい」
短い返事だった。
セシルは再び窓の外へ視線を戻した。その横顔を見つめながら、ミューズは思う。
あの日から、彼女もミューズも強くなった。けれど、強くなったからといって、傷が消えるわけではない。
◇
夕方。
邸内が一日の終わりへと向かう頃、セシルはいつもより早く持ち場を片付けていた。道具を整える手つきは丁寧だが、どこか急いでいる。
「今日は、もう上がっていいわよ」
ミューズが言うと、セシルは一瞬、戸惑った顔をした。
「でも……」
「いいの……そろそろ迎え、来るでしょう?」
セシルは、少しだけ目を伏せた。
「……ええ」
その答えに、どこか安堵が滲んでいた。
それからほどなくして、公爵邸の正門前に馬車が止まる。ダイデン子爵家のものだ。セシルは、その馬車を見て、わずかに眉を寄せた。
「……別に、わざわざあなたが迎えに来なくてもよかったのに」
「なんだよ。たまにはいいだろ」
馬車から降りてきた金髪の男は、ぶっきらぼうに言った。視線を逸らし、頬を掻く仕草が、妙に照れくささが滲んでいる。セシルの夫・ジャスティンだ。
「ほら、家族で晩餐会だ。みんな待ってる。行くぞ」
「はいはい」
口ではそう言いながら、セシルの声は少し柔らいでいた。二人は似た者同士だった。素直ではなく不器用で。それでも同じ方向を向いている。
少し離れた場所からその様子を見つめながら、ミューズは静かに息を吐いた。
(よかった)
そう思えたことに、少しだけ驚く。セシルはジャスティンと恋仲になってから、笑顔を見せる回数が格段に増えた。結婚後は穏やかなダイデン子爵の面々に囲まれ、より一層笑うようになった。それまでの毎日を、ミューズは昨日のように思い出す。
「セシル」
呼び止めると、彼女は足を止め、ゆっくりと振り返った。
夕暮れの回廊に差し込む光が、セシルの横顔を淡く縁取っている。強張っていた表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「これを、貴女に贈るわ」
ミューズは一歩近づき、胸元に抱えていた包みを差し出す。小さな包みだが、その中に込められた時間と思いは、決して軽いものではない。
「……え?」
「今日は貴女の誕生日でしょう」
「でも……っ」
「親友に誕生日の贈り物をするなんて、普通のことよ」
夕暮れの光が、二人の影を長く床に落とす。
主とメイドだった時間。守る者と守られる者だった時間。その間全て、二人は確かに親友だった。
ここまで読んでくださった皆さま方、ありがとうございます!
この話をもちまして物語はいったん完結という形にさせていただきます。
第二章の最終話でも書きましたが、続きの構想自体はあります。気長に待っている方がもしいれば嬉しいです!!!
(ブックマークをして待ってもらえると励みになります!)
二度目になりますが、ミューズたちは私が意地でも幸せにします。
物語の中とはいえ、同い年の子に過酷な運命を背負わせている私が言っても信じられないとは思いますが、意欲だけは鬼ほどあります!!!!
(恋愛ジャンルに相応しい恋愛の盛り上がりもつけていきたい所存です)
元々二章までで終わる予定だったので、この流れを崩さずに頑張れたらと思います。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございました!
皆さまの残すPVやリアクションの一つひとつが、私の日々のモチベーションになっています。
また物語の続きでお会いできる日を、楽しみにしています。
(評価☆も入れていただけると嬉しいです!!読み返してみたら、一巡目とは違う感想を抱くかも……?)




