断章Ⅱ セシル③
「やめて!」
気付けば、ミューズは前に出ていた。父親の拳が肩を掠め、鈍い音が響く。痛みを感じるより先に、怒りが込み上げた。
「……お父様」
低く、一切の震えのない声だった。この場で父に対して恐怖を覚えないのは、事件以来主たる感情・感覚を失ったミューズだけだった。
父を、真っ直ぐ睨み返す。その視線に、一瞬だけ、彼の動きが止まった。だが、すぐに怒りが勝ったようで、杖を力のまま床に叩きつける。
「この家にその娘を入れるなど私が許さ……」
「黙って」
ミューズは、そう言って足元に置いていた王家の紋章が付いたケースを持ち上げた。そして、それを父の足元の床に叩きつける。
重い音が、広間全体に反響した。
叩きつけた勢いで留め金が外れ、蓋が開く。中に詰め込まれていたのは、大量の札束だ。一年前、王家からミューズに支払われた、通称ドール事件の見舞い金だった。
「これで、別邸の使用権を買うわ」
ミューズの声は、異様なほど冷静だった。
「本邸は出て行きます。お父様の許しなんていらない」
セシルの手を強く握る。そして父を含め家族、そして集まってきた使用人たちを一人ひとり見回した。光も宿さず、何も映さない瞳だった。
「それからこの子は、私が雇う。もしこの子に何か危害を加えたら……お前らも殺す」
その言葉に、広間は完全な沈黙に包まれた。ミューズは言い終えるとセシルの手を引き、そのまま本邸を出て行った。
伯爵は、言葉を失っていた。母は呆然とし、兄は顔を背けた。誰一人、止めなかった。
いや、止められなかった。
◇
本邸から庭園を挟んだ向かいにある別邸は、死んでいた。
人の気配が長く断たれた建物特有の、埃と湿気が混じった匂いが、扉を開けた途端に流れ出してくる。
窓のいくつかはひび割れ、隙間風が低い音を立てていた。壁紙は剥がれかけ、床板はところどころ軋む。
別邸に囲まれた中庭に目をやれば、手入れされないまま伸びきった蔦が石壁に絡みつき、噴水は乾いたまま、ひび割れていた。
まるで、時間そのものが放置されたような屋敷だった。
(私みたいね)
「……ひどいですね」
セシルが、苦笑する。
「住めるはするわよ。さあ、掃除をしましょう。私たちが使う部屋だけでも」
ミューズは即答した。
二人はドレスの裾をたくし上げ、倉庫から引き出した箒で埃を集める。そして雑巾を絞り、黙々と床を拭く。汗が滲み、腕が痛み、息が上がる。けれど、不思議と気持ちは軽かった。
「……貴女、令嬢ですよ」
ふいに、セシルが言った。確かに、掃除をする令嬢はそういない。
「ある人に言わせれば、私はもう貴族令嬢ではないらしくてよ」
ミューズは雑巾を絞りながら答える。講和派の貴族、そしてダイハンの特使が繰り返し言っていたことだ。
「それに、今は家主よ。掃除婦が雇えない間はこうするしかないわ」
セシルは小さく笑い、再び床に膝をついた。
◇
荒れ果てた屋敷は少しずつ、人の住める顔を取り戻していった。割れた窓は塞がれ、蔦は刈られ、床は磨かれ、空気が変わる。
まともな貴族の邸宅の見た目になるまで一か月かかった。最終的に掃除婦を呼び、技術の必要な個所の修復までが完了しつつあった。
そんなある日、セシルの外出中。ミューズの呼んだ古物商がやって来た。ミューズは別邸の広間に品々をずらりと並べた。
今まで与えられていた自分のドレス、宝石や装飾品。
それに加え、娼婦用の露出に特化したドレスや下品な意匠の鞄や靴。悪趣味な装飾の激しいアクセサリーの数々だ。講和派の貴族から毎日のように届く、悪意の塊のような贈り物だ。
ミューズは、淡々と指示した。
「これ、全部引き取って」
それらが一つ、また一つと、消えていく。代わりに、重みのあるケースが置かれた。金属の音が、静かな別邸に響く。
◇
その日の夜。
ミューズはセシルの部屋に赴き、蝋燭の灯りの下でケースを開いた。
「……これで、一年分は足りる?」
ミューズは、金の入ったケースを開ける。昼間に品々を売り払って得た金だ。貴族令嬢の専属メイドにしては不十分な額にしかならなかった。
セシルは、目を見開いた。
「……十分です……!ここに住まわせていただいているのに、こんな」
そう言って、セシルは深く頭を下げた。
「違うわ」
歩み寄り、セシルの肩に手を置く。
「これは雇用よ。私は、あなたにここにいてほしい。あなたは、働く。それだけ」
セシルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
背筋を伸ばし、いつもの落ち着いた声で。
「では、これからもお仕えします。お嬢様」
その言葉に、ミューズは小さく息を吐いた。ここには、本邸の檻も、父の怒号もない。あるのは選び取った静かな生活と、二人分の決意だけだった。
◇
「待ってくれ」
ノアは眉を寄せる。瞳に映した蝋燭が揺れた。
「セシルさんは、学園に通っていた。まさか、それも……?」
「そう、私。そのための、ゴーストライターよ」
ミューズは小さく頷いた。
「本当は……正式な学生にしたかったんだけどね」
◇
夜更けの別邸は、静かだった。
風に揺れる木々の影が窓越しに壁へと落ち、蝋燭の火が机の上で小さく揺れている。古い屋敷特有の軋みも、今夜は息を潜めているようだった。
机の上には積み上げられた教本と、端が擦り切れ、余白には細かな書き込みだらけのノートがある。
ミューズは椅子に深く腰掛け、眉間に皺を寄せていた。
「……分からない」
呟きは、誰に向けたものでもない。
数式を睨みつける目は、疲れ切っていた。
学園も中等部三年になると、試験の内容は難しくなっていた。しかもミューズは授業に出ず、独学で進めているため理解が追いつかない。
向かいの椅子では、セシルが静かに本を読んでいた。灯りに照らされた横顔は穏やかで、時折、ページをめくる音だけが響く。
「ここ、こうじゃない?」
ふいにセシルが立ち上がり、ミューズのノートを覗き込む。迷いなくペンを走らせ、式を書き直した。
「……あ、そういうことね」
書き足した式により、答えがすぐに導き出せた。
「セシルは……本当に、勉強が得意ね」
ぽつりと言うと、セシルは肩をすくめた。初等部の頃、ミューズは一度も試験で彼女に勝てた試しがなかった。
「昔、母がね。勉強だけは、裏切らないって」
父に解雇された日から、セシルは学園に通えなくなった。それまでは学園の試験を突破し、伯爵家のメイドという身分だったから通えていたにすぎない。
ミューズは、視線を伏せた。
学園。
貴族子女のために創立された、由緒ある場所。そこには「優秀な平民も入学できる」という建前がある。
だが現実は、思うような場所ではない。
平民向けの試験は、決して難しくない。だが、学費が高い。
奨学生として無償で通えるのは、少しの最優秀の人間だけだ。リリアナの夫・エルヴィスはその奨学生に該当する。彼は故郷で「奇跡」と呼ばれていたという。
貴族、裕福な労働者階級。そして、ほんの一握りの天才だけが通える。実質生まれで合否が決まる。それが学園だった。
セシルは、優秀だ。だが「奇跡」と呼ばれるほどではない。
「……ねえ、セシル」
ミューズは、顔を上げた。
「高等部からでも、学園に通えたら……行きたい?」
セシルは一瞬だけ目を見開いた。
「それは……」
言葉を選ぶ間があった。
「行きたい、です。でも……」
「お金、よね」
言葉の続きを、ミューズは遮った。
沈黙が落ちる。蝋燭の芯が、ぱちりと音を立てた。
その夜、ミューズは決めた。学園の学費、教材費、それから生活費。到底足りない。
(そういえば……)
ミューズは学園近くの商店街に貼りだされていた求人のポスターを思い出した。
戦争がはじまり、移動式の劇団が兵士の一時の娯楽として重宝されるようになった。その割に書き手が不足しているという。
ミューズはその日から、手当たり次第に脚本を書いては劇団へと持ち込んだ。
多くの人は脚本家として脚本を売り込んでいたが、ミューズは名前の代わりに一時の高額な原稿料を得ることを選んだ。表に出ることのない、ゴーストライターとして。
労働者階級向けの学園高等部の試験日まで夜更けまで机に向かい、物語を量産した。
だが、それでも足りなかった。
結局、セシルは「聴講生」になった。聴講生は、学費は抑えられるが卒業資格は得られない。
それでも別邸の小さな書斎で、並んで机に向かう夜は続いた。
だが高等部でも、ミューズがセシルに試験で勝てたことは一度もなかった。




