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【第二章完結】夢見る伯爵令嬢は、大家族の継母になる。  作者: 五十鈴 美優
第二章:切り離した過去と紡ぐ今

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断章Ⅱ セシル①

 夜の公爵邸は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。


「それで?どのような言い訳をするつもり?あの因縁の場所に近づくなんて。とんでもないことだと思わなかったの?」


 セシルは腕を組み、主であるはずのミューズを真正面から見据えている。ミューズは椅子に腰掛けたまま、思わず背筋を伸ばす。叱責の言葉に、視線を泳がせた。

 時刻は午後9時を過ぎている。


「あの、それはその……」


 ミューズは寝台脇の椅子に腰掛けたまま、視線を逸らした。言葉を探す間にも、セシルの視線は一切逸れない。心配と怒りが混じった、鋭い眼差しだった。


 二人がセントル公爵邸へ来て数日。彼女がここまでミューズを詰めている理由は、「グリーン出版へ行った帰りに、大型書店へ寄った」と、今日の顛末を報告したからだ。


 大型書店は、裏通りへと通じる路地の傍にある。かつてミューズが攫われた場所のすぐ近くだ。


「そうなる気持ちは分かるけど。でも、私の勤務時間外に……」


 一歩、セシルが距離を詰める。鋭い眼差しに、一筋の影が差した。


「……。貴女、勤務時間外は護衛を雇っているでしょう?」

「……!どうしてそれを」


 問い返す声は、完全に図星を突かれたものだった。

(当たりか)


「ああ、それと。新しい契約書を渡しておくわ。ノアに出してもらったものよ。貴女は明日からセントル公爵家所属のメイドになるわ」


 ミューズは話題を切り替えるように、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。紙の端を整え、セシルの前へ差し出す。


「ちょ、ちょっと待ってよ……!」


 珍しく、セシルの声が強まった。


「え?ああ、そうね。貴女がこれまで個人的に雇っていた護衛に掛かった費用を教えて。結婚したら私の予算から支払うわ」

「違います」


 即座に否定され、ミューズは言葉を止める。


「契約書なんて、今までなかったじゃないですか。どうして今更……」

「本来は交わすべきものよ」


 ミューズの声は、揺れながらも真っ直ぐだった。


「公爵家に所属する以上、必要な手続きだわ。……もし、どこか他で働きたいなら、それでも構わないけれど」


 その言葉に、セシルの表情が一瞬だけ強張る。ミューズは、彼女を見つめた。


「あなたは優秀だもの。ここに縛られる必要はないわ」


(もし今後、離婚になったとしても契約書がある以上はセシルはここで働き続けられる)


 短い沈黙が落ちる。

 セシルは契約書へ視線を落とし、ゆっくりと息を整える。それからミューズをまっすぐ見た。その目は迷いのない目だった。


「私は、ずっとミューズの側にいるから。そう決めているの」


 そう言って、セシルは机に書類を置き、ペンを取る。さらさらと迷いなくサインを書き入れた。


「ありがとう。セシル」


 胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じながら。


「はい。これからも私は貴女のメイドよ。あと、護衛の費用は受け取らないわ。私がしたくてしたことだもの」


 セシルは契約書をミューズに渡す。ランプの灯りが、二人の影を壁に重ねていた。



 それから数日後。

 執務室で書類に目を通していたノアの前に、ミューズは立っていた。セシルの契約書を差し出す。


「セシルの契約書よ。確認をお願い」


 ノアは内容を一読し、ふっと小さく息をついた。


「分かった」

「ええ」

「……伯爵家への確認は、不要なのか?」 


 セシルが長くミューズ付きのメイドだったことを、彼も知っている。

 もし彼女が新たに公爵家と契約を交わすのなら、ミューズの実家であるニューヤド伯爵家に確認が必要だと考えているのだろう。


「大丈夫」


 ミューズは一瞬も迷わず答えた。


「あの子の雇い主は、お父様じゃない。私だもの」


 ノアは契約書を机に置いたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 夜の執務室は静かで、壁際のランプが小さく揺れている。その淡い光の中で、彼の表情には戸惑いが浮かんでいた。


「”私”って……給金は、どうしていた?」


 声は穏やかだったが、その問い核心を突いていた。人を雇うなら、その雇い主は給金を出さなければならない。

 ミューズは一瞬だけ視線を逸らし、窓の外の闇に沈んだ庭園を見やる。


「……私が出していたわ」


 静かな声だった。ノアの眉が、わずかに動く。


「貴族令嬢のメイドにしては……安すぎる額だったけどね」


 自嘲するように言って、ミューズは肩をすくめた。ノアは何かを言いかけて、やめた。その代わりに、ゆっくりと息を吐く。


 その沈黙が、扉を開く合図のように、ミューズの記憶を押し戻した。



 9年前。

 通称ドール事件から数週間で、ミューズは退院の日を迎えた。


 裂傷箇所と損傷した部分は縫合され、骨や内臓には致命的な傷はなかった。身体中の打撲と切り傷は奇跡的に治療後の予後もよく、感染性の病も投薬で完治する類のものだった。


 「運がよかった」と、担当医師のグレアムは言った。


 だがリネンと薬品の刺すような匂いが混ざった病室の匂いが、まだ身体に染みついているような感覚は中々拭えなかった。

 帰路の馬車の揺れは緩やかで、けれどミューズの中はひどく落ち着かなかった。伯爵邸の門が見えた瞬間、胸がぎゅっと縮む。


(帰ってこれた)


 そう思ったのに、屋敷の玄関をくぐった途端、違和感が全身を包んだ。

 声がしない。

 いつもなら、誰よりも早く「おかえりなさいませ」と、少し照れたように笑う声があるはずだった。


「……セシル?」


 名を呼んでも、返事はない。空気だけが冷たく揺れる。


 迎えに出ていた家族は、必要な言葉だけ交わすと、早々に屋敷の奥に引っ込んでしまった。その背中はどこか急いでいて、ミューズに目を向けないようにしていた。その背中が、嫌な予感を強める。


 廊下を進み、部屋を覗き、使用人室の前で足が止まる。だが、そこにあるはずの気配が、きれいに消えていた。

 胸の奥が、ひやりと冷える。

 居間で顔を合わせた使用人に問いかけても、視線を逸らされるだけだった。


「セシルは……?」


 言葉が、宙に落ちる。

 そのとき、背後から足音がした。振り返ると、兄のマーティンが立っていた。肩は落ち、両親と同じく目の下には深い影があった。


「……ミューズ」

「お兄様。セシルはどこ?」


 縋るような声だった。マーティンは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。


「……もう、来ない」





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