18.糸②
ぱたん、と金具の開く音と共に開かれたトランクの中には、古びたぬいぐるみや色あせた絵本、小さな毛布やタオルが丁寧に詰められていた。タオルの端には、手縫いの刺繍が見える。
(これは……)
「本当のお母さんがね、わたしが生まれる前に用意してくれたんだって。だよね先生」
その言葉に、ミューズの呼吸が一瞬止まる。指先が震えそうになるのを、必死に堪えた。
「ええ。ノア様のお母さまが『残しておきましょう』と、このトランクを用意していただきました」
「母さまが……」
「そうなの、ですね」
かろうじて声を出す。つたない、色あせた刺繍を見ると、震える手で針を握り何度も糸を通し直した光景が脳裏に蘇る。
「ミューズ」
アリアドネはトランクを閉めて顔を上げた。
「前に言ってたよね。『この世界に魔法はないけど、ごくありふれたものが、贈る人や受け取る人によっては魔法のような力をもつことがある』って」
「……ええ、言ったわね」
ミューズは微笑みながら、喉の奥が熱くなるのを感じていた。アリアドネは小さな手でトランクの取っ手をぎゅっと握りしめた。
「わたしにとっての魔法は、きっとこれよ。これを見ると。本当のママが私に……私を大切にしてくれた感じがするからさ」
その何気ない一言が、静かな風よりも深くミューズの胸を貫いた。
目の奥がかすかに熱く滲む。
「ミューズ?どうしたの?持っていくの、嫌だった?」
アリアドネが心配そうに顔を覗き込む。ミューズは慌てて首を振り、唇を震わせた。
「ううん……嬉しいのよ」
言葉を重ねながら、そっとアリアドネの頬を撫でた。
「もちろん、持っていきましょう。それは、あなたのものよ」
「行こう、アリアドネ」
「うん!」
弾む声とともに、アリアドネはトランクを抱えて馬車の待つ孤児院の門へと歩き出した。ミューズはその幼さと覚悟の宿す後ろ姿を見つめ、胸の奥でそっと祈るように息を吐いた。
「本当に、ありがとうございました。グレアム先生」
振り返り、深く頭を下げる。
これまで何度この場所を訪れただろう。季節ごとに違う風の匂い、子どもたちの背が伸びていくところ、変わらない建物の壁。すべてを見守ってきたこの人に、今、言葉を尽くしても足りない気がした。
グレアムは静かに首を振り、穏やかな微笑みを浮かべる。
「因果は巡る、などと無責任なことは言えませんが」
一拍の沈黙。その間に、風が門の隙間を抜け、草を揺らした。
「それでも……どんなに拙くとも、大切にしたことやその思いはなくなりません。どれだけ長い時や距離を経たとしても、見える形ではなくとも返ってきます」
「グレアム先生……」
グレアムはミューズを追い越し玄関を出る。彼の肩越しに、先を進むアリアドネとノアが見えた。
「かつて模索した日々が今のあなたの背中を押して、今のあなたが差し出すものが、また次の誰かの未来を支えていきます。きっと将来のあなたの周りは”思いやりが巡る場所”になる、と私は思いますよ」
歩幅の狭いアリアドネに追いつくと、彼女の足が止まる。ミューズとノアを交互に見つめ、トランクの取っ手を握る指に力がこもった。
「本当に行くんだ。本当なのね」
信じたい気持ちと、怖さが入り混じった、確認するような声だ。
「どうかしたの?」
ミューズは歩み寄り、膝を折って目線を合わせる。
アリアドネの瞳に映る自分の顔が、思ったよりも大人びて見えて、胸がちくりと痛んだ。
「ここに来る貴族の人や偉い人は、いつも一度きりだから」
アリアドネは門の外、馬車の方へと視線を向ける。
「視察?っていうのね。たまに引き取りたいって来る人も何回かだけ。お家に行けるのはいいなあって思うんだけど」
アリアドネは少し笑った。その笑顔が、どこか諦めに似ていて、ミューズの胸を締めつけた。
多くの人にとって、孤児院は「自身の善意を示す場所」に過ぎない。けれど、ここで生きる子どもたちにとっては、「家」であり「家族を待つ場所」だ。彼らは、来ては去る大人たちの背中を何度も見送ってきた。
「あ、でもミューズは違ったよね」
ふいに、アリアドネの声が明るくなる。
「最初は『またお嬢様か』って思ってたけど。何年も来てくれたじゃん。だから、引き取られるならミューズの家が良かったの」
その言葉は、胸の奥を静かに撃ち抜いた。ミューズは一瞬、返す言葉を失い、それからゆっくりと息を吸う。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは……とても嬉しいわ。私もね、ずっとアリアドネのお母さんになりたかったの」
それ以上を言えば、きっと声が震えてしまう。ミューズは微笑みだけを添えて、アリアドネの頭をそっと撫で、立ち上がった。
◇
やがて四人は孤児院の門の前に立つ。門の向こうでは、馬車が静かに待ち、御者が出発の合図を待っていた。
グレアムは一歩前に出て、アリアドネの前に膝を折る。長年、数え切れないほどの別れを見送ってきた男の動作は、静かだった。
「アリアドネ。あなたはこれから迷うこともあるでしょう。自分が何者なのか、分からなくなる日も来るかもしれません」
アリアドネは、真剣な表情で頷く。
「そんな時はでもそのたびに、あなたが大切にされた時間を思い出しなさい」
グレアムは、トランクに一瞬だけ視線を落とす。
「それは、誰かがあなたを信じ、あなたの人生が続くと疑わなかった証です。それさえあれば、人は何度でも立ち上がれます」
風が吹き抜け、草原がざわりと音を立てる。その音に溶け込むように、言葉は続いた。
「人はね、自分がどこから来たのかよりも、何を選ぶかで生き方が決まります」
アリアドネは意味をすべて理解したわけではなさそうだ。それでも、その声の重みだけは感じられたようで、真剣な眼差しで頷いた。
「つらかったことも、分からなかったことも、誰にも話せなかった気持ちも。それらは、あなたを縛る鎖ではありません」
グレアムの声は低く、しかし揺るぎなく響いていた。
「それは糸です。あなたがこれから出会う人、選ぶ道、笑った日や、迷った夜と一緒に、少しずつ紡がれていく糸です」
そこで、ほんの一瞬だけ、ミューズに視線が向けられる。言葉を交わさずとも通じる、長い時間と隠された事実を共有した者同士の眼差しだ。
「過去が重く見えるときもあるでしょう。でも、それをこれからどう扱うか、どう紡ぐかを決めるのは貴女自身です。あなたたちの人生という糸が、強く長くなることを祈っていますよ」
◇
馬車は一定の揺れを刻みながら、夕暮れへと溶け込む道を進んでいた。
窓の外では、風に煽られた木々が静かに枝を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。孤児院の門はすでに見えず、戻ることのない場所として、記憶の奥へと沈んでいった。
ミューズは窓辺に視線を預けたまま、胸の内で何度も呼吸を整えていた。
「寝てしまったわね」
「ああ」
向かいの座席では、アリアドネがトランクを抱え、うとうとと舟を漕ぎ始めている。長い一日と、緊張が解けた安堵が、幼い身体を眠りへと導いたのだろう。
その穏やかな寝顔を見つめながら、ミューズはそっと目を伏せた。
「私も少し休もうかしら」
ミューズもまた、今日は寝不足だった。緊張が解け、小さな欠伸が零れた。
「なら」
隣に座っていたノアが、自分の肩をわずかに差し出した。拒む理由はない。だがミューズは一瞬ためらい、彼の肩に頭を預けた。
(温かい……)
失ったものが、なかったことになる日は来ない。過去が消えることもない。それでも今日、確かに新しい一歩を踏み出した。
守りたい命があり、それを共に背負う覚悟があり、手を離さずに歩く人がいる。それだけで、未来は形を持ち始めるのかもしれない。
ミューズは胸の奥で、静かに願う。
——愛する者たちと共に歩む未来を
◇
第二章:切り離した過去と紡ぐ今 終
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
第二章(本編)完結です!
明日から断章を投稿予定です!
メイドのセシルのお話(全四話)です。ミューズとセシルがここまで辿ってきた軌跡を描いたものです。これまでのお話に、新しい見方を与えられるかもしれません。
よければそちらもお楽しみください……!
断章の更新をもちまして物語はいったん完結という形にさせていただきます。
続きの構想自体はありますが、書けるかどうかも含めて時間がかかりそうですので気長に待ってもらえたら嬉しいです。
(ブックマークをして待ってもらえると励みになります!評価☆も待ってます!)
辛い境遇にしてしまったミューズたちは、私が意地でも幸せにたいと思っています。(そうしないと気が済みませんので!恋愛の要素も入れさせていただきます!!)
ここまで読んでくださり本当にありがとうございました!
いつもリアクションくれる方もありがとうございます!!
(誤字報告もありがとうございます。誤字以外は感想欄へお願いします……!)




