15.母親という役目④
ハーバー公爵領の街はずれにある天井の高い式場は、日曜日の雲一つない青空の下、厳かな空気を纏っていた。
その式場は、「誓い」を象徴する場として、古くから貴族の婚約式に用いられているという。貴族の婚約式は結婚式と違い、両家のみが参加し婚姻書にサインをする簡素なものが主流だ。
婚約式を行うのは未だ学園に在学している学生たちが多い。制服を着用する者も多いが、アリーナとヴィンセントは簡素ではあるものの婚礼衣装を身につけている。
アリーナがセントル公爵家の養子となる審査は何一つ問題なく通った。
彼女が二歳の時から公爵家で育てられていることと、品行方正で成績優秀だったことが貴族たちを納得させるに至った。どちらかが欠けていればこうはならなかっただろう。
貴族たちがその生まれ育ちに拘泥するのは、単純な血統由来だけではないらしい。
「ヴィンセント・デュ・ハーバー公爵令息とアリーナ・ラ・セントル公爵令嬢の婚約式を執り行います」
公証人である式場の神職の宣誓から、式は静かに進んだ。
細かな取り決めが書かれた契約書の最終確認を終えると、神職が婚姻誓約書の読み上げに入る。
「一つ、双方は互いを婚約者と認め、その身と名誉をもって、誠実なる関係を築くこと。一つ、いかなる時も相手の尊厳を損なわないこと。一つ、双方の家の名を尊重し、不当に損なわないこと。一つ、本誓約は両家の合意に基づき、公の場において証人を立てて結ばれるものであり、その効力は本日をもって発する」
両公爵が順に署名をし、ヴィンセントが、そしてアリーナが名を記す。
さらりとした羽音のようにペン先が紙を滑る音が響いた瞬間、その場にいた全員が一斉に息をつめた。
最後の一筆が終わると二人は立ち上がって共に礼をすると、その場に拍手が広がった。陽の光が大きな窓から差し込み、二人を照らした。
アリーナは凛と立ち、いつものように真面目な面持ちを崩さない。ヴィンセントが彼女に手を差し出し、アリーナは心得たようにその手を取る。
◇
「アリーナ、婚約おめでとう」
式が終わり、アリーナがハーバー公爵家に向かうための馬車の用意を待っていた。その間、式場には両家関係者に加え要人たちが談笑していた。
その中で、ミューズはヴィンセントと離れたところでアリーナに声を掛けた。
「お世話になりました、ミューズ様。……そして、ありがとうございました」
「そんな、改まらなくていいのよ」
ミューズはやさしく言い、髪にかかるベールの端を整えた。
「いずれミューズ様と同じ公爵夫人になると思うと、少し楽しみです」
「そうね。私も楽しみに待っているわ」
ミューズがほほ笑むと、アリーナは周りに視線をやった後に窓際へと歩んでいった。傍に寄ると、彼女は背を向けたまま話し始めた。
「ミューズ様は結婚して良かった、と思いますか?……といってもまだ結婚から一年も経っていませんが……二人は恋愛結婚ではないのでしょう?」
限りなく声を落としたその言葉に、ミューズはハッと息を呑んだ。
「気づいていたの?」
アリーナはミューズの方を振り返って、曖昧に笑った。
「初めからなんとなくは……見ていれば分かります。状況が状況だった、というのもありますが。ミューズ様はこれで幸せなのですか?」
彼女の声は一抹の切実さを帯びていた。ミューズは間を置くことなく口を開く。
「勿論よ。だってアリーナやみんなに会えたじゃない。それは簡単に得られる幸福ではないわ」
「ミューズ様……私は」
アリーナの瞳に浮かぶ光が揺らいで、頬へと伝った。
「私は……二歳の時に捨てられていて。お母さま……いえ前公爵夫人が引き取ろうと言ってくださったから、今、ここに生きているんです。だから亡くなった時は本当に悲しくて、兄のような存在のノアが父になることも、知らない人が母になることも、本当は誰よりも受け入れられなかったんです」
「でもっ」とアリーナは涙声で付け加えた。
「ミューズ様に出会えて、本当に良かった……と今では思います。あの時助けていただいたご令嬢がミューズ様だと知った時は驚きましたが……。何のお返しも出来ないままに去ることになってしまいまして、本当に申し訳ございません」
深く頭を下げるアリーナに、ミューズは慌てて彼女の肩に触れた。幸い、他の参席者たちはこちらの様子に気付いていない。
「謝ることなんて、何もないわ。最近まで私も忘れていたことよ。何より、貴女が今日まで無事でいてくれただけで十分なの」
アリーナはゆっくりと頭を上げると、ハンカチで目元を押さえた。しばらくの沈黙の後、不意に神職と話しているヴィンセントが目に入った。姉のアメリアに似た特徴的な赤髪がよく目立っている。
「ヴィンセント様は、真面目そうな方ね」
「はい。……少し融通が利かないところもありますけれど」
「それくらいでいいわ。まっすぐな人といると、心が整っていくものよ」
ミューズの言葉にアリーナは柔らかく笑い、ハンカチを仕舞った。
「……杞憂だったみたいですね」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
(……?)
「皆様。準備が整いましてございます」
ハーバー公爵家執事長の一声で訪れた一時の静寂を、アリーナの「はい」という短い返答が切った。
彼女はミューズの横を通り過ぎると、ヴィンセントと共に外へと繋がるドアへと歩いて行った。
彼女の荷物は前日までに纏められ、今日の朝一番にハーバー公爵家に送られていた。今日から彼女はハーバー公爵邸で婚約者として過ごすことになる。
式場の外には何台もの馬車が停まっていたが、一つだけ豪華な装飾の施された馬車が先頭にあった。
「今まで本当にありがとうございました。お父さま、お母さま」
アリーナは一礼しヴィンセントの手を取ってその馬車に乗り込むと、式場の外で待っていた子どもたちが駆け寄ってきた。
「アリーナ姉さま。もう行ってしまうのですか?」
グレンの声が、少し震えていた。アリーナは馬車の中から笑顔を見せ、静かに手を振って応えた。
「こら、泣くんじゃない」
テオがからかうように言うと、「泣いてない!……です」と返ってくる。車輪が動き出すと、グレンが駆け出そうとするのを俯いたままのテオが押さえた。
ローズが大きく手を振る傍でアンジュは小声で「アリーナ姉さま、お幸せに……」とつぶやいている。
(これが、育てるということなのね)
イアンとアリーナを見送ったミューズは知った。育てることだけではなく、手を放すことも母親の役目の一部として受け入れることなのだと。
「……少し、寂しいな」
ノアが隣で、静かに息を吐いた。彼の目元は少し赤く腫れている。
「ええ。でも、嬉しくもあるわ」
ミューズは頷き視線を前に向けると、胸の奥でわずかに疼くものがあることに気付いた。
◇
その夜。
セシルはもうとっくに帰り、ミューズの私室の机に広がる原稿は、少しも進まないまま積み上がっていた。
「こんばんは」
いつもより固いノアの声だ。張り詰めるミューズの心臓を落ち着け、言葉を返す。
「どうぞ、入って」
イアンの引っ越しとアリーナの婚約式。子どもたちの次は、ミューズだ。
二人の予定で保留になっていた『ミューズが何を思って生きていて、これからどうしていきたいのか』というノアの問いに答える時が来た。
「……ノア?どうかしたの?」
ノアは両開きの扉を中途半端に開けたまま、中に入ってこようとしない。ミューズ以上に緊張した面持ちをしている。
「俺が中にいたら、話しにくいこともあるかと思って」
扉の隙間から漏れるランプの光が、僅かに揺れ動いた。
「なら……」
ミューズはベッドに置かれたブランケットを手に取って、扉のすぐ前で歩みを止めた。両開きの扉は、片側が固定されていて、中途半端に開かれた扉の向こうには微かに息を呑む彼の気配がする。
「私はここにいるから、貴方もそこにいて」
開いた扉からブランケットを差し出すと、ランプが床に置かれたのが見えた。
ミューズは固定されている片側の扉に背中を預けた。扉が少し揺れて、彼も同じようにしたことが分かる。
迷った末に少しだけ開かれた扉の隙間から手を差し出す。
「……触れていてくれない?」
「え?」
「話し始めたら、後戻りしたくなるかもしれない。でも、今はちゃんと話したくて。貴方がいるって実感できたら、大丈夫な気がして」
しばし沈黙が流れ、やがてノアの手がそっとミューズの指先を包んだ。強くも弱くもない、ただ確かに寄り添う、いつもの彼の力だ。
扉一枚の距離。心の奥では、長い間閉ざされていた記憶の扉が静かに開こうとしているのを感じていた。
ミューズは息を整え、あたたかな手の感触とともに、そっと目を閉じる。
扉の向こうに、雪崩の気配はない。
扉のハンドルに掛けられていた何重もの鎖を一つずつ解くように、ミューズはゆっくりと口を開いた。




