15.母親という役目③
『親愛なるミューズ・ラ・ニューヤド伯爵令嬢
もしこの手紙を読んでいるということは、あなたが「かつての子」を思い出した時でしょう。もしくは、かつての出来事について、大きな決断をした時でしょうか。
その時のために、私はあなたに伝えるべきことを書き残しておきます。私はいつどうなってもおかしくない立場ですから、あなたに届けられる手段はできるだけ多く残しておくつもりです。
どうかあなたに、届けられることを切に願っております。
さて、ミューズ嬢。
私は、今でも鮮明に覚えています。
あの子の処遇をめぐって、あなたに判断を委ねることが決定したあの時、私も公爵もあなたをまだ12の少女として見ていました。
当然のことですが、あの決定は大人として不誠実であり、あなたがどんな判断をしても仕方のないことです。
けれど、あの日のあなたは大人の誰よりも真っすぐで、恐れずにあの子を「生かす」という選択をしました。とても勇気のいる決断だったでしょう。
それでも、もしかしたらいつか――
あなたが、自らの判断を悔やむ日が来るかもしれません。ですが、それは自然なことです。遠い昔に置いていた過去が突然に現れた時、大人でも戸惑うものです。
時には迷い、視野が狭くなってしまうこともあります。
けれど、書きながら私は思いました。
きっとあなたは、そんな迷いを抱かない人になるでしょう、と。
あなたは、ただあの子の「生」を信じて決めたのでしょう。罰でも、赦しでもなく、生きる者の尊厳を選ぶ行為でした。
ただひとつ、私が伝えておきたいことは、あの子に関する選択を、あなたが一人で背負う必要はないということです。
だから、もしも再びその子と向き合うことがあっても、恐れないでください。
あなたのしたことは正しかった。もし今はいなくとも、いつか必ずあなたの正しさや優しさを肯定してくれる人は現れます。
きっと今のあなたもまた、誰かを救っているのではありませんか。私はそう信じています。
あなたの優しさが、どうかあなた自身を縛りませんように。私が見てきた中で、あなたほど強く、思いやりに満ちた人はいません。
いつかあなたが、過去の痛みを抱えたまま、それでも人を愛する日が来ることを、私は願ってやみません。
アイーダ・ラ・セントル公爵夫人』
◇
ミューズは手紙をたたみ、指先でその縁をなぞった。
「随分と高く評価していらっしゃったのね」
「ミューズが生かした子が、今も健康に生きている」
ノアが、低く言った。その視線はわずかに合わない。
「それだけで、十分だと俺は思う。だからこそ俺は」
彼は言い淀んで、再び口を開いた。その時風が吹いて、ミューズの髪が頬にかかる。
「俺が、子どもたちを止めておく。俺は父親であり、ミューズの夫だから」
ノアはそう言って子どもたちの方へと歩き出した。
「……分かったわ」
子どもたちを引き留めたノアの背中を見て、ミューズは何かに突き動かされたような気がした。
「イアン」
ミューズの声は穏やかだったが、僅かに震えが混じる。それは彼も同じだった。
「お、お母さん……いえ、ミューズ様」
石畳の上、夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。ノアと子どもたちは少し離れた玄関の陰で、静かに見守っていた。
(言わなきゃいけないことは……)
ミューズは振り返ったイアンの前に屈み視線を合わせて肩に触れると、彼は驚いて身じろぎする。
「触れないでください。僕に触れるのは良くありません……」
「それ、どういうこと……?」
空いた二人の間に少しの沈黙が流れる。やがてイアンは躊躇いながら絞り出すように言った。
「……僕は、犯罪者の子だから」
ミューズは目を見開いた。やはり知っていたのか。
「孤児院で……言われていました。『お前の親は罪人だ、罪人の血が流れている悪い子』って。本当の親が何をしたのかは教えてくれなかったけど……きっと、とんでもないことをしでかしたのでしょう。僕は、普通の子じゃない」
その言葉には、幼いながらも重すぎる諦めがあった。けれど、すぐに瞳を細め、まるで悲しみを包み込むように微笑んだ。
「イアンが悪い子だなんてとんでもない!ごめんなさい、ずっと……無理をさせてしまっていたのね」
ミューズは腕を伸ばし、イアンの両手を握った。二人の手は、夕方の風に晒されて冷たい。
「本当は……ミューズ様がこの家に来た時、僕はつらく当たられるだろうって思っていました。でも、優しくて。もしかしたら僕の本当の親のことを知らないんだと思って、だから本当のことを知られてしまったらきっと捨てられ……」
「そんな、悲しいことを言わないで。捨てる訳がないでしょう……貴方は貴方よ。親がどんな人であろうと、貴方は、イアンは私の大事な家族よ」
何の問題もなさそうに見えた子がここまで深い闇を抱えていたという事実が、それに少しも気づかなかった自分が恐ろしい。
どうしてイアンが年齢に似つかわしくない「良い子」だったのか。どうして何かにつけて礼儀正しい振る舞いばかりしていたのか。ミューズは気づかなかった。
例え短い間であっても、母になると決めたなら子どもたちが甘えられるようにならないといけなかった。テオやセレーネたちのように自分の本音を気兼ねなく話す子以上に、模範的に見える「良い子」に目を向けるべきだったと、今になってよく分かる。
「イアン、聞いて。あなたは、私たちの家族だった。それがすべてよ」
ミューズの声が、風の中ではっきりと響いた。
「でも、血の繋がりはなくなりません。ミューズ様は僕たち孤児にもお優しい方ですが、それでも犯罪者の子どもは、ただの孤児ではありませんよ」
「あなたが誰の子であっても、私たちはこの家であなたを見ていたわ。他の子たちと過ごす時も絵を描く時も。そのすべてが、あなた自身。それが、私たちにとっての“イアン”なの」
イアンは俯いたまま、何も言えずにいた。その肩が、夕陽に照らされてわずかに震える。
「覚えていて。親の罪なんて、あなたには関係ないわ。もし誰かがあなたをそのことで非難するのなら、その人の方が間違っているの」
イアンは顔を上げた。その目に、ほんの少しの光が戻っていた。ミューズは微笑み、そっとイアンの頬に触れる。冷たい指先に小さな温もりが宿る。
「忘れないで、イアン。あなたは、愛されて、望まれて生まれてきた子どもよ」
「イアン君ー!そろそろ……!」
門の方から御者が声を掛けると、イアンは頷いて荷物を抱え直した。背後からは子どもたちとノアがやってくる。
「ミューズ様、僕もう行かなきゃ……バイバイ」
「……ええ。元気で、身体には気をつけて。嫌なことや辛いことは溜め込まないで、えっと、それから……イアン自身の人生を好きに歩んで、ね?」
イアンは小さくうなずき、馬車へと歩く。ミューズも連れだって門へと向かった。十秒にも満たない短い道のりだが、一歩一歩が長い時間を連れてくるようだった。
あっという間にイアンは馬車に乗り込み、開いた窓から顔を出した。ちょうどそのとき、ノアが一通の封筒を手にし、子どもたちと共に追い付く。
「イアン、これを」
「……?」
「前公爵夫人からの手紙だ。君が大人になったら読むといい。あの人も、君のことをきっと誇りに思っている」
イアンはノアの差し出した手紙を両手で受け取り、胸に抱きしめた。
「では、発ちます」
御者が帽子を持ち上げる。
子どもたちが手を振ると、イアンは窓から手を出して振り返した。
「それじゃあ、みんな。ありがとう」
「おう、またな!」
「また遊ぼー!」
ローズの髪飾りが光を跳ね返し、グレンの声が風に混じる。ノアが軽く頭を下げ、ミューズはただ微笑み返した。
一瞬、イアンの濡羽色の瞳と目が合ったかと思うと、途端に視界の外へと走り出していった。
馬車の車輪が、石畳を踏む音が遠ざかるほどに、ミューズの胸の奥で、何かが静かに締めつけられていった。
けれどその痛みの奥には、確かに温かいものがあることが分かる。
(あの子はもう、自分の足で歩き出したのね)
ミューズはそっと息を吐き、夕暮れに消えていく馬車を見送った。




