15.母親という役目②
一週間後。
学園の試験期間が終わってすぐ、イアンは荷造りを終わらせた。本来なら朝には新居である美術商の家へ向かうところ、みんなでピクニックへ行くことになった。
提案者はテオだった。
「突然だし、みんな思い出ほしいんじゃねえの。アリーナももうすぐ引っ越すんだし」
と、相変わらずぶっきらぼうな言い方だが、子どもたちは諸手をあげて賛成した。
朝から雲ひとつない青空だった。屋敷の中庭には馬車が二台並び、メイドたちが籠や芝生に敷く布を積み込んでいる。
「サンドウィッチは三種類ね。チーズとハム、卵ときゅうり、それと……」
「苺ジャム!」
ローズが声をあげ、籠の中を覗き込む。その隣で、アリーナが苦笑しながら言った。
「食べすぎて気分が悪くなっても知らないわよ」
「いいじゃない。アリーナだって昔はジャムばっかり食べていたって、私聞いたもの」
「……それは、子どもの頃の話よ」
「いまでも子どもみたいな顔してんだろ」
テオが笑いながら荷物を肩に担ぐと、アリーナはむっとして頬をふくらませた。そのやり取りを見て、ミューズは少しほっと息を吐く。
馬車二台で、花畑のある丘へと向かう。もう一つの馬車にはノアと、他の子どもたちに付き添いのメイドが乗っていく。
全員が乗り込んだ馬車が動き出すと、開いた窓から吹きこむ風が頬を撫でた。
ロイとジャスミンは、互いに寄りかかってうとうとし、エリオットは静かに本を読んでいる。ローズとアリーナは髪型を気にして鏡を覗き込んでおり、テオは静かに窓の外を眺めている。
子どもたちの様子を見ながらミューズは考える。もう一台の馬車は、どんな様子だろうか。
今朝、ミューズが起きると、イアンは一人庭園で公爵邸の門の外を見ていた。朝の陽光の中で、イアンの横顔は年齢よりもずっと大人びて見えた。
何かを悟っているような、穏やかな静けさだ。ミューズはその横顔からしばらく目を離せずにいた。
◇
公爵邸から馬車で20分ほどの距離にある小高い丘に広がる花畑は、そよ風に揺れていた。花の甘い匂いと、草木の爽やかな香りで心は安らいでいく。
丘の上には一本の大きな木があり、その下にメイドたちが白い布を広げ、籠を並べはじめる。
花畑を温める日差しに子どもたちの笑い声が混じった。
「ねえ、テオ!あの木、登っていい?」
「ダメだ、グレン。枝が折れたらどうするんだ」
「俺なら落ちても平気だもん!」
「そういう問題じゃねぇ」
セレーネが笑いながら「じゃあ競争しよ、丘のてっぺんまで!」と声を上げると、グレンと共に駆けだす。アンジュは一瞬彼らについて行こうか迷い、結局花畑の花を観察し始めた。
「アンジュは行かなくていいの?」
「……風、強いから。スカートめくれたら嫌だもん」
「それもそうね」
ミューズは微笑んで、彼女の蒼色の頭を撫でた。グレン、セレーネ、アンジュは同じ養護施設から来た仲間だ。三人一緒にいることが多いが、活発なグレンとセレーネとは違い、アンジュは控えめだ。
しばらくすると草の上で寝転がる子や花の冠を作ったりする子など、いつものように自由な時間が流れ始める。
「ほいっと……って、ああ、もう!」
ローズが摘んだ花をエリオットの頭にのせようとして、彼に軽く払いのけられていた。
「やめて、花粉が本に落ちるでしょ」
「つまんなーい」
ローズは口を尖らせエリオットの視界に入ろうとするが、彼は気にする素振りもない。
「勉強の邪魔だって」
「えー、試験はもう終わったのに」
そんな言い合いに、テオが横から口を出す。
「エリオット、少しくらい遊べよ。頭硬すぎ」
「テオが柔らかすぎるだけじゃないの」
「あー、言い返した!」
その輪の少し外で、イアンはスケッチブックを膝にのせている。みんなの笑い声を遠くに聞きながら、静かに鉛筆を走らせている。
ノアが近づき、彼の肩越しにスケッチブックを覗きこんだ。
「……いい絵だな」
「みんなの笑ってる顔を、忘れたくなくて」
「そうか」
ノアはそれ以上何も言わず、彼の頭を軽く撫でた。その手の重みを、イアンはまっすぐ受け止めているようだった。
◇
昼食をはさんでも、子どもたちの活力は留まるところを知らなかった。
午後の陽が少し傾き、影が伸びはじめたころ。
子どもたちは丘の下でかくれんぼを始め、ミューズとノアは木陰に腰を下ろしていた。風が枝葉を揺らし、葉擦れの音が静かに流れる。
「……あの子、本当に穏やかね」
ミューズが呟く。視線の先には他の子どもたちを探して回るイアンの姿があった。
「ああ。もう覚悟を決めているのかもしれないな。子どもは、俺たちが思っている以上に大人だ」
ノアの声は低く、しかし優しい。ミューズは膝の上に置いた手を見つめた。
「もっと早く気づけていたら、何かできたのかしら」
「それは……誰にも分からない。けれど、ミューズが今ここで笑って見送ることの方が、あの子には何よりの救いになるんじゃないか」
実の親の身元が判明している場合、孤児院や養子として育った子どもは、大人になるとその身元を知ることができる。
イアンが自身の出自を知った時、同時に『ドール事件』についても詳しく調べることになるだろう。彼の真面目さを考えれば、実の両親と兄が害をなした相手がミューズであることも容易に辿り着くことは予想がつく。
「ミューズが笑えば、あの子はきっと救われる。きっとだ」
労働者階級向けには、被害に遭った『ニューヤド伯爵令嬢』はミューズの妹ということになっている。だが当然、ミューズには妹など存在しない。
終戦後、ミューズの婚姻に影響を出さないために両親は各所へ箝口令を敷き、架空の妹はすでに亡くなったことになっている。
「そうだと良いのだけれど」
イアンの記憶の中のミューズが、いつも笑いかけてくれた存在であれば。きっと彼はその生を呪うことなく先の人生を生きていくことができるかもしれない。
確定したことではないけれど、少しでもその可能性がある方を取るのが、親としてすべきことなのだろう。
遠くで、子どもたちの笑い声がまた響いた。イアンも輪の中にいる。グレンに背中を押されて転びそうになりながらも、ちゃんと笑っている。
その笑顔を、ミューズはまぶしいほどに感じた。空はまだ青く、風はやさしい。陽が落ちる頃には、彼は新しい家に行く。
二度と「うちの子」とは呼べない。けれど、確かにここで過ごした時間は、誰にも消せない。
「今日は……いい日だな」
木漏れ日の中でノアが言った。
「ええ。本当に、いい日だわ」
◇
セントル公爵邸に戻ると、門前に金の縁取りが施された馬車が停まっていた。美術商が用意した馬車だ。
夕陽を映してきらめくその車体の傍らでは、御者が帽子を取り、静かに待っている。
メイドたちがイアンの荷物は休む暇なく荷物を積み込んでいく中、玄関ホールで集まる子どもたちは、まだ土の香りの残る服のまま手にした餞別をそれぞれイアンへ差し出している。
だがその光景の中に、ミューズの胸の奥では冷たい針のような痛みが走っていた。
(私は、母親役の務めを果たせたかしら)
「イアンと話さなくて良いのか?」
「でも……」
そう言っているうちに、イアンは子どもたちと共に玄関を出て門へと向かい始めた。
「ミューズ、これを」
ノアは内ポケットから淡いクリーム色の封筒を取り出した。表には繊細な筆致でミューズの名前が書かれている。差出人は前セントル公爵夫人・アイーダだ。
「これは?」
「母が生前、話していたことを思い出したんだ。『いつかの日のために手紙を書いておく』と。昨日の夜、それを思い出して倉庫から探し出したんだ」
ミューズは受け取ると、静かに封を切った。中には、年月を経たとすぐに分かる便箋があった。
なんか最近めっちゃリアクション付けてくださってる……!
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