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【第二章完結】夢見る伯爵令嬢は、大家族の継母になる。  作者: 五十鈴 美優
第二章:切り離した過去と紡ぐ今

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15.母親という役目①

「どうして言わなかったの?イアンがブランディ子爵家の子だって」

「気に病むかと、思って。こうするのが最善だと。でもその様子だと間違っていたみたいだ」


 ノアは静かにそう答えて頭を下げた。確かに、イアンは何も知らないままミューズも嫌な記憶を思い出さずに生きていける。


(だけど、それで)


「それで、どうして母親役が務まるのよ……」

「それは……。いや。俺が、ミューズのことをもっと知っておくべきだったんだんだな」


 その言葉に、ミューズの奥底から何かがせり上がってくるような感覚がして、せり上がってきたものは口から言葉になって出てきた。


「今更、何を聞きたいの?私の身に起こったことなんて、公文書を見れば分かるでしょう。もう高等部の教科書にだって書かれていることよ。きっと、この先もずっと」


(私のせいで戦争が始まって、沢山の人が死んで、沢山の人が傷ついた)


 ミューズは震える手で心臓の辺りを撫で、唇を噛み締める。その場に、この上ない緊張が走る。だがノアは落ち着いた様子で口を開いた。


「そうじゃない。俺が知りたいのは、何があったかじゃない。ミューズが何を思って生きていて、これからどうしていきたいのか」


 ノアは震えるミューズの手に触れようとして、離した。思わず顔を背ける。


(いつも……ノアは私のことを考えてくれている)


 それを認識するたびに、いつも筆舌に尽くしがたい気持ちでいた。

 気を遣わせてしまっている申し訳なさと、丁重に扱われることへの慣れなさ、何よりも「気を遣われる自分」という存在が綯い交ぜになって、その気持ちの置き所を迷い続けていた。


「……大丈夫よ、触れても。もう大丈夫なの。本当に」

「そうか……でも、無理だと思ったら逃げていいんだ」


 ノアの暖かくて大きい両手が、ミューズの震える手を包む。手から腕を通じて全身が温まるような心地がした。


 身に余る心地だと、ミューズは思った。


「俺は……。ミューズが死ななくて良かったと、思っている。どれだけ辛い日々だったか想像することしか出来ないが……それでも、今日まで生きて俺と結婚して、子どもたちの母親役になってくれて良かった」


 ノアは、まるで自分のことのように顔を歪めている。置き去りにした自分の感情が、投影されているように思えてならない。そう考えると、頭は急速に冷えていく。


「……イアンは、自分の本当の両親のことを知っているの?」


 目下の問題はそれだ。彼の、年齢にそぐわない礼儀正しさの理由がそれならば、事態は最悪と言っても過言ではない。


「いや、そこまでは。ただ……心ない大人からの陰口は聞いていたと思う。あの子がここに来たのも、それが発覚したからだ」


 孤児院の大人の中には、イアンの出生について知っている者がいてもおかしくない。ミューズは眉根を寄せつつも、噛み締めていた唇を自由にした。


「分かったわ。彼が了承するのであれば、私が止める理由もないわね」


 書斎のドアに手を掛けて部屋を出ようとしたところで、足を止めた。


「……ノア。色々と、背負わせたわね」


 彼がイアンの養親探しを急いでいたことは容易に想像がつく。恐らく、ハドソンの報告を受けて、ミューズが遠からず真実に気づくと。


 イアンのためを思うなら、これが最善だ。今は彼も何も知らないが、いずれ知った時、彼の帰る家が、心から安心できない場所になってしまう。


「もう少し、時間をちょうだい。“あの子”のことも、私がどうしたいかも、全て話すわ。でも、今はまだやらないといけないことがあるから。今は、そっちに集中したいの」

「分かった。俺はずっと待っているよ」


 余裕なくイアンの引っ越しと、アリーナの婚約式が控えている。今は、それに集中するしかない。


 ミューズは書斎のドアを開ける。廊下の窓から見えた外はすっかり夜になっていた。



 養親となる美術商の夫婦とイアンは既に何度か会っていたようで、イアンは養子の提案をすんなりと受け入れた。


 長い食卓の上に、香草を添えた鶏肉の香ばしい匂いが漂っていた。磨かれた銀器が柔らかく輝き、スープの湯気が金色にゆらめく。


 いつもと同じ、賑やかで明るく、本当の家族のような夕食どき。

 それが、今日だけはほんの少し違ってミューズには見えた。


「みんなに知らせがある」


 ノアの声は穏やかで、けれどどこか張りつめていた。彼の向かいで、ミューズは静かに頷き、子どもたちを見回す。


「イアンが、美術商の方の養子として引き取られることになった」


 一瞬、ざわめきが止む。椅子の軋む音、カトラリーの小さな音が遠くなった。


「えっ……ほんとに?」


 口を開いたのは、セレーネだった。


「この前のコンクールの絵を見たって人?あの、学園のホールに出してたやつ!」


 普段は外部の者の立ち入りが禁じられている学園だが、生徒の芸術作品や研究の成果物、作文、その他勲章が展示されるホールが城下町の中心にある。


 グレンがすぐに身を乗り出し、「あれ、俺も好きだった!」と拳を握る。


「あんなの描けるの、すげぇよな。しかも美術商の所に行けるって」

「ありがとう……」


 イアンは少しだけ照れくさそうに目を伏せた。子どもたちの視線が集まる中、彼の仕草はいつも通り落ち着いている。


 年齢よりも大人びた礼儀正しさ。どこか距離を取るような静けさに、ミューズは唇を引き結ぶ。


「でも、これからも学園には通うから。皆とはまた遊べるよ」

「なーんだ。じゃあ全然お別れじゃないじゃない」

「うん、寂しくないね」


 言葉を選ぶような声音に、ローズはスープから視線を外さずに言った。アンジュが頷いてほほ笑む。


「また一緒にお絵かきできる?」

「もちろん」


 双子が顔を見合わせ、ジャスミンが明るく言うとイアンは彼女の頭を撫でた。


「でも……たぶん前より少し忙しくなるかもしれません」


 グレンが大げさに溜息をついてパンを齧る。


「だよなぁ、商人に引き取られたら勉強とか大変そうだ」


「グレン、それを言うならあなたも試験勉強はどうなっているの?中等部や高等部よりは厳しくはないけれど、勉強しなくても良い訳じゃないわ」


 アリーナがきっぱりと指摘し、グレンは声を詰まらせる。


「ほら見ろ、説教だ」


 テオが笑って肩を叩いて茶化すと食卓にまた笑いが戻った。賑やかで、優しい時間だ。ミューズは微笑みながら、その光景を見つめていた。けれど心の奥では、別の影が静かに動いている。


 (……どうして、もっと早く気づけなかったのかしら)


 あの戦争。あの裁判。

 そして、罪を問われて処刑された子爵家の夫人に宿っていた子。


 罪のない、産まれる前の子どもを殺す責任を押し付けようとする大人たちの姿勢に、猛烈に腹が立った。


 責任を負わせられるのなら、殺すより救う方でいたかった。すでに人を殺しておいて、なんの罪滅ぼしにもならないと分かっていたけれど、これ以上殺したくはなかった。


 その子が、いま、目の前で穏やかに笑っている。


 ノアが小さく息をついた。彼も、同じものを見ていたのだろう。ミューズと視線が交わるが、彼は何も言わない。


「イアン」


 ミューズがそっと呼びかけると、彼は背筋を伸ばし、まっすぐに彼女を見つめた。


「あなたが描くものは、きっと誰かの心を救うわ。どんな場所にいても、それを忘れないで」

「……はい。僕、ずっと描き続けます」


 その瞳にはまっすぐな光があった。

 彼は自分の過去を知らない。知らなくていい。知ったとしても、何も気にすることなく生きていくべきだ、と腹落ちする。


 笑い声がまた満ちた。グレンがセレーネのスープをこぼし、アンジュが慌ててナプキンを差し出す。


 「もう、男の子ってほんと落ち着きがないんだから」


 ローズが口元を拭いながら言うと、アリーナが苦笑して「あなたたち、もう少し落ち着きなさい」と宥める。


 変わらない日常の中に、ミューズはいる。どんな過去も、秘密もそこにあるままの日常が進んでいる。

 ミューズはそっと手を膝の上で組んだ。その震えを、誰も気づかれないように。


 幸福の形を保ったまま、少しだけ冷たい夜が始まろうとしていた。その夜が明ける見通しは、未だなかった。



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