ミスター・ハンサム
翌日、目が覚めると、昨晩の華やかさとは打って変わって、無駄な装飾のない、機能的で落ち着いた部屋にいる自分を見つけた。
昨日、お店を閉めた後、行くあてのないわたしを「うちにおいで」とママが誘ってくれたのだと、ぼんやりした頭で思い出した。
ベッドから体を起こすと、香ばしい香りが鼻先をくすぐる。お腹が鳴りそうになり、わたしは顔を赤らめ、手でお腹を押さえた。
「あら、起きたの?」
ママはすでに起きていて、ひどくコンパクトな調理場で何かをしている。
差し出されたのは、魅力的に香る黒い飲み物。熱さに舌を焼きながら、先ほどの香りはこれだったのだと知る。苦いけれど、なんだか癖になりそうな良い味だ。
それから、乾燥した果物と甘いお菓子のようなものが、牛乳に浸された美味しいおやつをいただいた。初めて口にするものばかりで、すべてが新鮮だった。
食事が終わると、ママのポケットが突然鳴り出す。彼女はポケットを探り、四角いものを取り出すと、つるつるした板を指でなぞった。ママは急に誰もいない空間に向かって話し始める。不安になって見つめるわたしを時折振り返り「聞いてみるわ」と目くばせをした。
板を再びポケットに戻す。ママは穏やかな声で尋ねた。
「ねえ、あなた。働いてみる気は、ある?」
話によると、昨日、一番最初に入って来た紳士が、わたしを「雇いたい」と言っているらしい。働く、という言葉の意味はまだよくわからないけれど、どうやら、その紳士に仕えるということなのだろう。
「幸松次郎さん、大きな会社の社長さんなの。みゆきさん、いい人よ。もしよかったら、一緒に見に行ってみる?」
恩人であるママがそう言うのだからと、わたしは、その「働く」とやらを試してみることにした。
ママの部屋を出ると、昨晩とは比べ物にならないほどの人の波が通りに押し寄せていた。
暴動か、革命がおこったのではないかと、一瞬青ざめる。
みんなが皆、驚くほどの速さで歩いていた。わたしの国の軍隊ですら、この勢いで歩く事はまれだ。
圧倒されて立ち尽くしていると、ママが私の手を引いた。
「タクシー」という名の、馬も牛も引いていないカゴに乗り込む。それは恐ろしい勢いで走り出し、わたしは窓の外を流れていく、見たことのない景色をひそかに興奮して見つめた。
行きついた先は、見上げるのも困難なほど、長い長い城だった。てっぺんはどこかと見上げると、首がつりそうになる。
透明な大きい扉がなぜだかひとりでに開き、城の床ですら見たことのない、滑らかな床を進むと、奥に女中頭のような「しゃん」とした女性が、長いテーブルの向こう側に座っていた。
ママが「みゆきさんをお願いします」と伝えると、彼女はゼンマイ人形のように正確に、「伺っております」と答え、私たちを奥へと案内した。鉄の扉のある小さな部屋に乗り込むと、次に扉が開いたときには、先ほどとは違う階の廊下に出ていた。そのまま廊下を一番奥まで進み、部屋へと案内される。
扉の奥には、昨日お店に来ていたあの紳士が待っていた。先客がいるようで、何やら揉めている声が聞こえる。しばらく待っていると、先客が足音も荒く、こちらに向かって歩いてきた。
「ああ、失礼!」
そう言って、その先客は部屋を出ていく。私は、あまりのショックに、その場に固まってしまった。だって、その先客は、最初の夫に、信じられないくらいそっくりだったのだ。