落下、あるいは転落
これは、白雪姫の継母の物語です。
白雪姫を愛するみなさん、ディズニーを崇拝するみなさん、ごめんなさい!
異世界白雪姫、あるいは別次元・白雪姫のママの物語として、広い心で読んでいただけると、嬉しいです。
息が切れる。肺が焼けるように熱い。だけど、足を止めるわけにはいかない。
凍えるような真夜中の森を、わたしはひたすら走っていた。
足元の草木がカサカサと音を立てる。その一つ一つが、まるで背後から迫る追っ手の足音のようで、いちいち心臓が跳ね上がる。
松明すらない暗闇の中、わたしはひどくよろめきながらも、ただただ前へと進む。
ドレスの裾が木の枝に引っかかって破れても、頭から被ったフードがどこかへ飛んでいってしまっても、振り返る余裕なんて、一瞬すらない。
だって、わたしは白雪姫の継母。
娘を虐待し、あまつさえ殺そうとした、史上最悪の悪女の烙印を押されている。まさに、これから処刑される寸前に逃げ出したのだ。
「焼いた鉄の靴を履かせたらどうだろう?」と恋に盲目な王子が提案すると、可憐な白雪姫は悲しそうに目を伏せ「お義母様、残念です」と言った。
王子は姫の様子をいじらしく感じ、ますます残忍さが加速する。
「クイーンはダンスの名手だと聞く。焼いた靴を履かせ、死ぬまで躍らせるのだ!」
なんて恐ろしい。
しかし、白雪は「ああ、お義母様!」と言ったきり、小さな両手に顔をうずめてしまった。
華奢な肩が小刻みに震えている。王子がその肩をぎゅっと抱きしめた。
でも、わたしは白雪姫が泣いているのではなく、実は笑っていることを知っている。
「まあ、なんてかわいそうな白雪姫!」
そう言って二人の傍らにいた老女が、芝居がかったしぐさで姫を慰めた。
「どうか、このばあばまで、憎まないでおくれ」
これはミラー婦人。わたしの実母。
白雪姫は大きな瞳を見開くと「もちろんですわ、おばあ様!」と叫び、わたしの母に抱き着いた。
母は毛虫を見るような目を、わたしに向ける。
「汚らわしい。早くこの女を牢に引っ立てて頂戴!」
ああ、わたしはどこで間違えたのだろう?
幸いにも、王子の兵の中に、数名の見知った顔が見えた。
わたしたちの王国、わたしたちの兵士だ。
彼らの手により、わたしは寸でのところで逃がされ、いま一人、夜の森を走っている。
何がいけなかったのだろう?
わたしは飛び出しそうな心臓を抱えて、夜を疾走していた。
そもそも、顔がいけなかったのだと思う。
わたしは小さいころから評判の美人で、母は何よりも、わたしの「顔」を愛していた。
「あなたは本当に美人さん! 世界で一番美しい女の子だわ!」
蝶よ花よと、何不自由なく育ててもらった。
そして17歳で初めての結婚。
相手は母が見つけてきた周辺諸国一のお金持ちで、いちばんのハンサム。
幸せだった。おままごとのような結婚。たぶん、人生のピークは、結婚を待ち望んだ日々だったと思う。
しかし、結婚は思ったものとは、全然違った。
夫は粗暴で浮気性、あるといわれていたは財産は、彼の浪費癖であっという間に消え去った。
夫はその父親に勘当され、わたしと母の暮らしは日に日に貧しいとものとなる。
「こんなはずじゃなかったのに!」
臍を噛むというが、まさに私の母は毎日ハンカチを噛んでは、そう呪った。
でも、わたしにはまだ希望があったのだ。
わたしは子供が欲しかった。貧しくても、夫が不在でも、かわいい子供がいれば幸せになれると信じていた。
かわいい女の子が欲しい。そうしたら、うんとかわいがって、大切に育ててみせる。
残念なことに、最初の夫は完璧なまでに、わたしの欲しいものを、なに1つとして与えてくれなかった。
たぶん、母の呪詛が効いたのかもしれない。結婚後、半年もたたないうちに夫は馬から落ちて死んだ。
次に母が持ってきた話が、わたしの運命を決定づけた。
「国王が、あなたに会いたいそうよ!」
美人という評判を聞きつけたのだとか。
出戻りなのにと、ためらったものの、母に押されて、結局国王との対面がセッティングされることになった。
国王はとても年上だったが、とても好感の持てる男性だったと思う。
紳士的で饒舌、良く笑い、よく食べる人だ。
ぜひ妃にと乞われたときは、確かに高揚感があった。王妃になることではない。国王には、亡くなった前妻との間に、かわいらしい姫があったのだ。
この子の母になれる。そう思うと、心が温かくなった。
前夫との間ではかなわなかった夢が、ここにあった。
わたしは母の目を盗み、国王と庭に出たときに、ひそかな約束事を取り付けた。
「……夜のお相手は免除という条件でしたら」と。
王は最初驚き、それから豪快に笑った。
「よいとも! わたしも、もう年だし、あなたには良い妃、良い母であってくれれば、他に臨むものは無し!」
こうしてわたしは、嬉し恥ずかしくも、盛大な結婚式の末、王妃となった。
母は満足した猫のように、ご機嫌な日々を過ごした。
「やっぱり、世界で一番美しいのはあなたよ! わたしの自慢の娘!」
そして、その日は訪れた。
かねてから待ち焦がれていた瞬間。あの可愛らしい、白雪姫との初めての対面。
「あなたが、新しいお母さまですか?」
その可憐な子供らしい声に、どれほど胸が打たれただろう。
一瞬、かわいさに目がくらみ、死にかけたほどだ。
わたしはおずおずと少女に近づき、そして抱きしめた。
可愛い娘。漆黒の髪、柔らかな白いほほ。そして小さな赤いくちびる。
全身に電気が走るような気がした。魂が震えていると感じた。
「全身全霊をかけて、あなたのことは、私が守るわ」
少女はくすぐったそうに笑うと、わたしの腕の中からするりと逃げた。
「ありがとう。新しいお母さまは、優しそうでよかったわ!」
白雪姫との日々は、言葉に出来ないほど幸福な日々だった。
わたしはもはや、彼女のとりこだった。彼女に夢中になるあまり、自分のことなど、すべてがどうでもよかった。
「ちょっとあなた、髪が乱れているわ! せっかくの美人が台無しよ!」とか
「ちょっとあなた、姫にかまってばかりではなくて、自分も食事をきちんと取りなさい! 栄養不足で顔色が悪くては、世界一の美しさが泣くわよ!」など、母は口うるさかったものの、わたしは幸せだったのだ。
だが、白雪姫が14歳になったある時。
「ねえ誰か、姫をみなかった?」
姫の姿が、突如城から消えた。
隣国がわたしたちの国を攻めた日も、父王を失った日も、いつもわたしの隣にあった可愛らしい姿が見当たらず、わたしは狼狽する。
「そういえば最近、頻繁に外の森に出て行っているようですよ」
ミラー婦人、つまりわたしの母が、気に掛ける風でもなくいった。
「そういう年ごろなのよ」
そういう年ごろを経験していない、あるいは経験することを許されなかったわたしには、ぴんと来ない。
母は顔をしかめて言った。
「母親の血筋ね。卑しい身分の女だったらしいじゃないの」
その言い方が癇に障りはしたものの、わたしはいつものように黙ってやり過ごす。
母はいつだってそうだった。自分以外は全部だめで、自分だけがいつも正しいのだ。そしてわたしが彼女に従うのも「それが正しいこと」ということになっていたからだ。
母は噓をつかない。母にとって、母の判断はすべてが「正しいこと」なのだ。
母は放っておきなさいというものの、わたしは姫が心配だった。
泣いていないかしら? 怖い目に合っていないかしら?
だから、時折、母の目を盗んでは、姫を探しに森へ出かけた。
姫は7人の少年たちと、小さな小屋を作り、それは楽しそうに、のびのびと過ごしているようだった。
ある日、母にわたしの行動が見つかり、母は兵を率いて7人の少年を森から追い払おうとした。
姫の白い両腕に縄を結び、強制的に連れ帰るよう兵に申し付けていたようだ。
「お母様、ひどい! お母様なんて大嫌い!」
兵と一緒にいた姿をみられたわたしは、その日以来、姫に拒絶されるようになった。
姫は毎日機嫌が悪く、顔をみれば、わたしに攻撃するような物言いで攻め立てるようになった。
そういう年ごろとは聞くものの、気が滅入る。
漫然と鏡の前でぼんやり過ごしていたところ、引き出しの奥に小さな櫛を見つけた。
「この櫛は……」
そう、この櫛は、国王が前王妃、つまり白雪姫の生母の形見だと言っていたものだ。
小さいころ、白雪姫のつややかな黒い髪を、といていたことを思い出したわたしは、懐かしくなり、つい櫛をつかむと、白雪の部屋を訪れた。
髪をとかせなくてもいい、生母の形見を彼女に返すべきだと考えたのだ。
「これ、どこから……?」
白雪姫は上目づかいにわたしを睨むと、櫛をわたしの手から取り上げて叫んだ。
「これは私のものよ! 盗んだのね? ひどいわ!」
わたしはおろおろとして、返答に詰まる。
「ごめんなさい。小さいころにあなたの髪をといてから、わたしの引き出しの中に紛れていたようなの」
もちろん彼女は許してくれなかったのだと思う。
姫との距離が、ますます遠くなったと感じ、わたしはめまいを覚えたのだった。
そんなあれやこれやのすべてが、裏目に出たのだと思う。
決定的だったのが、リンゴ事件だ。
地方の豪族から、とても美しいリンゴが届いた。わたしは一口いただき、あまりの美味しさに「姫にも食べてもらおう」と考えたのだ。
そして、姫はリンゴをのどに詰まらせてしまった。
「わたしを殺そうとしたわね?」
姫はわたしの全身の血が凍りそうな、冷たい声でそう言い放つ。
少し前から求婚していた、隣国の王子の面前での出来事だった。姫は泣き崩れ、わたしは立ち尽くす。
王子は、姫を守ろうとわたしたちの間に立ちはだかった。
「この魔女め! 白雪姫の美しさを妬んでのことだな!」
その結果、わたしは今、こうして逃げている。
どこで間違えたのだろう? 姫を愛していた。いまでも愛している。
でも年ごろとなり、巣立とうとしていた姫に、干渉したことが誤りだったのか?
いまとなると、どうしたら良かったのかがよくわからない。
背後から「あそこだ!」という叫びが聞こえたような気がした。
遠くに松明の明かりと、馬の駆けるひずめの音が聞こえる。
どうしよう、どうしよう!
わたしはパニックになる。
どこかに隠れなくちゃ!
そう考えたとき、わたしは暗闇に紛れて足元にぱっくりと開いた穴に、気づかずに踏み出していた。
わたしは音もなく、吸い込まれるように穴の中に、落ちていったのだった。