一回表「つまんねえ奴だな」-②
「かわいそうだったよね? あの一年生のピッチャー」
初めて話したあの日の翌日も昇降口で秋月さんに会った。 誰もいないと思っていたのに、驚かすように僕の背後に忍び込み肩をたたく。 僕が振り返ると、彼女はお茶目に笑って「谷口君」と言う。
そして、始まる取り留めもない会話。 その会話で、高校野球の話が出た。
「あ、うん?」
きっと、家で見た乱打戦の試合の事だと思った。 一年ピッチャーが打たれて、サヨナラ逆転負けした試合だ。
「確かに、あそこはエースや3年生が投げるべきだと思う。 1年生があんなプレッシャーを撥ね退けられるわけないじゃん」
「だよね~ でも、惜しかったよね。 最初のストレートはものすごく速くて、次に投げたスライダーも切れが凄くて…」
彼女は歯切れよくそう言った。
「そうだね。 最初の二球が良かった分、三球目の甘い球は悔しいだろうな。 ねえ、秋月さんは何で、そんなに野球詳しいの?」
そう、さっきから思っていた事だった。 「スライダー」とか「切れ」とか女の子の秋月さんは何で、そんな言葉を知っていて使えるのだろうか? それも、元シニアの僕と話しても何も違和感がない。
「あ、うん。 実は、私のお兄さんが野球やっていてね。 で、お兄さんは物凄く野球好きで、リトルの練習終わっても、私を無理やり近くの公園に連れてってはキャッチボールされたの。ヘトヘトになっても家に帰っても、野球中継のテレビにかじりついては、自分なりの実況をするのよ。」
彼女は僕の目を見て笑った。
「ちょっと、引くよね? 女の子が野球の事をペラペラ言うのは…」
「そんな事はないよ でも意外だったのは本当だったよ。 秋月さんはむしろピアノとかヴァイオリンとかやってそうだから」
「それはないよ。 ピアノはともかく、ヴァイオリンを習える程、私はお嬢様じゃないよ。普通の一家の娘だよ」
秋月さんは唖然としている僕を見て、苦笑した。
※※※※※※※※※※※※※
補修は、それからしばらく続いた。 相変わらず、僕はボーとしていて、蕃昌する先生の声を聞き流していたし、隣の将は寝ているばかりだった。 まったくと言っていいほど、授業には臨んでなかった。
そんな退屈な補修が終わると、必ずといっていいほど昇降口で秋月さんに会っていた。 そして、取り留めもない世話話をちょこちょことする。 今日見たニュースや、出来事。 秋月さんが入っている吹奏楽の事。
最終日になった今日も秋月さんと昇降口で会った。 その日は高校の駅前のカレー屋の話になった。 僕はその店に一度も行った事はなかったけど、秋月さんは何度も行っているみたいだった。
秋月さんがいうには、そのカレー屋さんは、地元のタウンページは元より、全国ネットのテレビでも紹介された有名店らしい。 サラダとかサイドメニューは一切なく、メニューは全部カレーという専門店。 …で、辛さの度合いが5段階で選ばれるみたいで、5の辛さは異常みたいらしい。
そんな食い物の話をしていると、僕の腹がすき出してきた。 ただでさえ、昼時に近いのに、こんな話をされたら、今にも腹の奥から音が…出てしまった。 しかも、かなりの大音量で…
「あ~…う~ん…」
僕はなんとも言い難い声を出した。 そんな僕の様子を見てなのか、秋月さんはクスッと笑った。
「お腹すいたの?」
「そうみたい。 だって、さっきから食べ物の話ばっかりだし…」
苦笑いして、そう答える。
「そうだね。 そう、よかったら、そのカレー屋さんに行ってみない」
「え?」
「だって、一度も行ってないんでしょ? あそこは美味しいし、絶対に行くべきよ。 それに、谷口君、お腹すいているでしょ?」
彼女は笑って、そう僕に言い放った。
※※※※※※※※※※※※※
彼女の案内で、僕はそのカレー屋さんに着いた。
着いた時には、一時半を過ぎて昼時を過ぎていて、店の中も客も疎らだった。、待たされずに奥のテーブルに案内された。
席に着いたなり、メニューを見ずに秋月さんは「いつものBで辛さは2」と店員に言った。
店員は、僕の方に向いて注文を聞こうとする。 慌てて、メニューを開いて、最初に目をついた「カツカレー」を頼んだ。
「辛さはどうしますか?」
「ええと4で…」
僕はそう言ったが、横にいた秋月さんは「え? 4? やめた方がいいよ?」と口を挟んできた。
でも、僕はそのまま「4」で注文した。 凄くと言うほどではないけど、辛いモノは、好きだった。
店員は注文を繰り返し、僕たちが頷くとレジに戻った。
「ねえ、秋月さん?」
「うん?」
「秋月さんがたのんだ、いつものBって何?」
「あ、あれね。 日替わりで中に入っている具材が違うんだよ」
「へえ~」
「谷口君は4頼んだけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。 一応、辛いモノには目がないし、それに、本当は5を頼みたかったところだよ」
「そう? 後悔しても知らないからね。 ここの辛さは異常なんだから」
しばらく僕は周りを見渡した。 カレー屋さんの内部は演出の為なのか、少し薄暗くなっていた。 向かいに座っている秋月さんの表情もうっすら影っていた。
「谷口君って中学時代、もの凄いピッチャーだったんでしょ?」
「あ~ 一応、中学まではね」
僕は自嘲気味に言った。 今は、投げられるのかどうかすら知らない。
「ふ~ん。 なんで、高校で野球部に入らないの?」
「…いや、実は右の肱を壊しちゃって…」
「あ、そうだったんだ……ごめんね。 気を悪くしちゃった?」
彼女はそう言い、俯いてしまった。
「そんな事はないよ。 大丈夫だよ。今は治っているんだ。だから投げられるんだけど、でも、再び壊すのが怖いんだ。」
「…そうだよね…」
それから、しばらく黙ってしまった。 僕は目の行き場を、天井で回っている扇風機や周りの様子に向けた。 そして、盗み見るように秋月さんの様子を見る。
一瞬、秋月さんと目が会う。 固唾をのみこむまでお互いの目線は合い続け、ふと彼女は笑った。
「どうしたの?」
彼女が聞く。
「あ、うん。 ちょっとね」
僕はうやうやしていた。 さっきからずっと思っていた事があるんだけど、言えずじまいだった。
「なんか言いたい事でも、あるの?」
「うん。 なんで、秋月さんとこんなに仲良くなったんだろうね?って思っていて… だって、ほら、夏休みに入る前までは、そんなに話さなかったじゃん」
「う~ん。 じゃあ、私が谷口君に興味を持って、近づいたって言えば、納得する? あ、もちろん、友達として興味があるって事ね」
「うん。 でも、僕の何処に興味があるの?」
「谷口君の過去かな? 野球をやっていたころの谷口君」
「昔の僕に何の興味が?」
「…秋月 悟って知っている? 茅ヶ崎バスターズにいたんだけど」
僕は首を横に振った。茅ヶ崎バスターズという名前自体は知っていた。 何度か対戦していた相手だった。 でも、そのチームに秋月 悟という人がいたのは知らない。
「私の兄なんだけど…本当に知らない?」
「ごめん。 昔の記憶だし、さすがにバッター全員の名前は覚えてないよ」
「そう…」
彼女は胸の前で、両手を組み、溜息をついた。
「変な話ね… お兄さんは、谷口君を打とうと必死に練習していたのに、谷口君はお兄さんの事をおぼえてないなんて…」
「…」
僕は黙ってしまった。 彼女に対して、なんて言えばいいのかわからなかった。
「…ごめんね。 こんな話をしちゃって…」
彼女は俯いて、そう言った。 店の中はうす暗かったから、彼女の表情はわからなかった。
僕も僕で、黙り込んでしまった。 この気まずい空気を打開する、気の効いた言葉の一つも浮かばなかった。
そんな時に、温かいカレーが運ばれてきた。 物凄く辛いカレーが、僕の目の前に置かれた。