不安の牢獄~随筆集~
『私の不安について』平成29年4月23日
私の心には常に不安が付きまとう。昔の因縁からあいつに仕返しされるのではないか、さっき肩がぶつかった男から刺されるのではないか、具体的には思い出せないが、とにかくなにかをしてしまって、誰かから恐ろしい目に遭わされるのではないか。過去の出来事からあらゆる恐怖が想像され、不安の渦に吞み込まれる。被害妄想ともいえる想念に私の心は完全に支配されている。
もっとも、不安が湧きおこっても、その時点では自分のなかの「常識」に照らし合わせて、単なる妄想だと判断できるのだが、そこで一度その判断を疑い、予想されうるあらゆる恐怖を想像してしまうと、途端に不安の渦に呑み込まれてしまう。考えれば考えるほど、体が渦に呑み込まれていき、全身が呑み込まれたとき、もはや私は妄想と現実の区別が全くつかなくなっているのである。
不安の渦のなかで恐怖の想念が繰り返し心を巡っていき、出ることのできない悪循環が生み出される。それはまさに絶望である。家で何もせずぼうっと座っているだけで、絶望を叩きつけられるというのは、滑稽かもしれないが、私にとってはどうしようもないほどに苦しいのだ。
私の毎日は、心の不安を司るもう一人の私との戦いなのである。
『危機の一般化』平成29年5月29日
私の自由を縛っているのは、他ならぬ私自身であり、世界は私に枷などつけてはいない。私が勝手に妄想し、びくびくと震えているだけなのだ。これはなんと滑稽なことか。私は昔からそうだ。特に根拠もないのに必要以上に怖がり、自分で人生を狭める。私はもっと人を、世界を信用するべきなのだ。
しかし、理屈では分かっていても、実感としては分からない。実際、世の中には悪事を働く人間はいる。私はこのような人間を知ると、全体へ一般化してしまう。悪人などほんの僅かしかいないというのは分かっているが、それでも怖いのだ。もし、たまたま自分が被害にあったらと思うと恐ろしくてたまらない。
『神経症について』平成29年6月17日
神経症の恐ろしく、且つ厄介なところは、不安の対象が荒唐無稽なものではなく、現実にも十分起こりうる物事だということだ。例えば、家の鍵をかけたかどうかという不安は、現実に空き巣に入られるかもしれない可能性があるからこそ起こる観念だし、手に雑菌がついているかもしれないという不安も、洗わなければ病気になる可能性があるからこそ起こる観念だ。このように、神経症から生じる諸々の不安は、現実に全く起こりえないものが対象ではなく、いつでも誰にでも起こりうる現象を対象にしているのである。
そして、そこに神経症のつらさがある。健常者からしてみても、神経症者の訴える不安の内容は、必ずしも笑い飛ばせるものではないだろう。先に挙げた例にしてみてもそうだ。絶対に空き巣に入られないという保証はないし、絶対に病気にならないという保証もない。だからこそ神経症者は必死になって
その可能性をなくすために行動する。実際に可能性を0にすることは不可能なことなのだが、神経症者はその可能性が0にならなければ気が休まらないのだ。結局、健常者と神経症者の違いは、その可能性を容認できるかどうかに縮約されるといえるのではないか。
『認識論と精神病』平成30年9月15日
精神病が恐ろしいのは、心そのものを支配しているところにある。人は心によって全存在が規定されている。心なくして人は存在し得ない。肉体はあっても心がなければ存在を感じることはできない、それは存在していないのと同義だ。その心を支配しているものが精神病である。
精神病は思考回路に巣食い、心を自在に操っている。私の今の思考も、ある意味では精神病に操られており、精神病から完全に独立して思考することはできない。心の独立性、自由性はどれほど担保されているのか、そもそもそんなものがあるのか、私が心でもって思考している以上、答えなど分からない。これは悪魔の証明である。(そしてその発想すらも相対化にさらされ、この発想もまた相対化される)
本作は平成29年から30年にかけてしたためた随筆をまとめたものです。全作品に貫くテーマは「不安」です。今では克服した不安もあれば、今も苦しめられている不安もあり、私は「不安」という牢獄から未だ釈放されていません。懲役何年かもわからないこの牢獄での日々は、いつになったら終わるのでしょうか。私は生きているうちにここを抜け出したい。